【感想・ネタバレ】侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的なのレビュー

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読み始めました。
『侏儒の言葉』は、以前に単体の岩波文庫を読んだことがあります。

大阪に向かう列車で読んでいます。前に読んだとき(30代)より、痛切に感じます。
ちょうど京都駅に停車中に「侏儒の言葉」の部分を読み終えました。
(2013年11月22日)

「文芸的な」は、初めて読みました。
(2013年11月23日)

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2013年11月23日

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文芸論争はどうも神学論じみている。
きっと痛切なことだったのだろうが、申し訳ないことにあまり興味を持てない。

その一方でアフォリズムに惹かれるのは、
それが日々の何気ない思考の断章だと感じるからだ。
体系化される前に著者の生活の端々から自然と沸き出でる肉声のような気がする。
そして、いくつかのアフォリズムが長い時間を耐えて小説を構成する血肉となり、
また最終的には著者の人生を左右させるという予感がするからだ。

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2014年06月22日

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芥川が晩年に記したアフォリズム。読んでいると、彼は神経むき出しで生きていたのではないかと思うほど、鋭く繊細な文章。こんな感覚をもって生きていくには、いったいどれだけの苦痛が伴うのだろう。

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2014年03月18日

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収録:「侏儒の言葉」「侏儒の言葉(遺稿)」「文芸的な、余りに文芸的な」「続文芸的な、余りに文芸的な」

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2009年11月26日

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収録作:侏儒の言葉・侏儒の言葉(遺稿)・文芸的な、余りに文芸的な・続文芸的な、余りに文芸的な

芥川龍之介の持つ小説観、その叙情的イメージがいかなる意味合いを持つかは谷崎潤一郎との小説論争においてある程度明らかになっている訳だが、谷崎と芥川の小説そのものを見て感ずるところの相違が、そのまま互いの思想の相違であるとは言えまい。本書において芥川は谷崎氏に対峙する論客として何章かを裂いているが、一度ならず主張しているのは「ストーリーなき小説」の正当性についてであり、それは多く古典からヒントを得、寓話的な要素を多く持つ芥川の小説(勿論そればかりでないのは言わずもがな)を顧みるにおいて殆ど彼の創作物に重なるものでは無い。またこの論争においての主旨である「ストーリーなき小説」との接し方、理解、分析方法において、芥川の良しとする小説、叙情的芸術としての小説領域に、彼の師であり日本最大の文豪と言っても過言ではない夏目漱石の影がある事は明らかであろう。しかしこの論争については、並行して読んでいる前田愛の「文学テクスト入門」においても触れられている為、ナイスタイミングというかラッキーというか、これからそちらを読むのが二倍楽しみである。

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2011年07月15日

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十代の頃、新潮文庫で初めて「侏儒の言葉」を読んだ時、閃光のようにきらめく知性と厭世的なポーズに酔いしれ憧れた。二十代で再読した時には、頭でっかちで底の浅いひ弱な精神しか見出せなかった。不惑を過ぎて「文藝的な、余りに文藝的な」と合わせて改めてこの箴言集を読み、芥川がなぜ自ら命を絶たねばならなかったのか少し分かるような気がした。

詩人兼ジャーナリストでありたいと願った芥川は詩的精神と知性をともに追い求めた。だが彼の知性は詩人に徹することを肯んぜず、その詩的精神は散文芸術としての総合性とあい入れなかった。芥川の中の詩人とジャーナリストがギリギリのバランスを保つことができたのがアフォリズムという形式なのかも知れない。機知と言葉の瞬間的な輝きは芥川の小説の魅力だが、それはある意味でアフォリズム的である。谷崎との論争で「話らしい話のない小説」を擁護した晩年は特にその傾向が強かった。

それは極めて危ういバランスだった。芥川は国木田独歩について書いている。「独歩は鋭い頭脳を持ってゐた。同時に又柔らかい心臓を持ってゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失ってゐた。従って彼は悲劇的だった。・・・彼は鋭い頭脳の為に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔らかい心臓の為に天上も見ずにもゐられなかった。」独歩の悲劇は芥川自身の悲劇であった。この不幸な矛盾に耐えるには彼の頭脳は鋭敏であり過ぎ、心臓は柔らか過ぎた。

しかも同時代の文壇は芥川に冷淡であった。自分と目指すものは同じと思い込んでいた萩原朔太郎に「典型的な小説家に過ぎない」と突き放され、共感を持って関心を寄せていたプロレタリア文学派からは「敗北の文学」(宮本顕治)と断定される(発表は芥川の死後)。いずれも芥川を中途半端とみなしたのだ。華々しいデビューにもかかわらず、晩年の芥川は孤立していた。それでもなお書き続けた彼の姿は痛々しいという他ない。「文藝的な、余りに文藝的な」は芥川の文学観と生理、そしてそれらが招いた悲劇を理解する上で欠かせない文献であると思う。

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2023年12月29日

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芥川龍之介のエッセイに近い、しかし詩のように言葉がかかれていた。
現代でもなんとなくあることが、いろんな表現で書かれていて、おもしろいと思った。

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2021年06月11日

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ネタバレ

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な
(和書)2010年03月19日 19:22
2003 岩波書店 芥川 竜之介


すっかり芥川竜之介ファンになってしまいました。

年取った所為かな?それとも最近、読書量が増えたから目が肥えてきて今まで感じなかったことに感じるようになったからかな?

兎に角、この本もとても素晴らしかった。

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2020年09月25日

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「大きな物語」とは、もっとも根源的な世界観の上に成り立つものである
すなわち、「弱肉強食」の世界観である
しかしそれを人間の立場から見た場合
あまりに動物的・非人間的と言わざるをえない
「筋のおもしろさ」とは
ようするに「大きな物語」の縮小コピーを楽しむものである
しかし小説が人間を題材にするものならば、
逆の観点から考えるべきこともあるのではないか

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2013年01月19日

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芥川龍之介の金言集。
この本を読むと、芥川龍之介の感性の鋭さに驚くと共に、彼だからこそ『河童』や『蜘蛛の糸』などの作品を書くことができたということが分かる。

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2010年08月21日

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重たい。でも、軽んじてはいけない。
そんな言葉がいっぱい詰まった本。
現代に生きても、芥川龍之介の時代でも、
苦痛を覚えることは一緒だったのかもしれない。

心に残っているのは、
『人生の悲劇の第一幕は親子になつたことからはじまつている』
少しうろ覚えだが、この言葉は呼んだ当時悩んでいた私に
深く突き刺さった。

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2009年10月04日

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「侏儒の言葉」はアフォリズムと言って、簡潔な表現で人生や社会の機微を言い表すという形式をとっています。はっとされられるような鋭い見方がしてあり面白いです。
「文芸的な、余りに文芸的な」は文芸に対する著者の考えが述べてあります。

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2009年10月04日

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ネタバレ

 「文芸的な、余りに文芸的な」を取り急ぎ。といって「侏儒の言葉」は前に読んだことがある。
 谷崎との論争も気になっていたところだったけど、最近読んだ佐藤春夫の「芥川竜之介を哭す」にあった「しゃべるように書く」話が気になっていたので、それが主な動機w佐藤春夫の文章でも、ヒステリー治療としての側面は取り上げられていたし、その効用はある程度認めるところもあったようだけど、ジャーナリスト的な側面を考えてしまったり、芥川自身の性格もあってか、皮肉に見ている様だった。

 総括すると、文学とは何かを芥川なりに考えて出した答え・考えといったところ。だから、読むのにも時間がかかった。正宗白鳥をかなり評価しているのが意外。「死者生者」は読んだことがないので、気になる……(「芋粥」は既読)。

 それから、以前芥川の「プロレタリア文学論」を読んだ時、なかなかに深い考察をしているなあと思ったけど、これからの文学としてその発生?動き出し?を認めていたんだなあ。中野重治が出てきてびっくりした。

 「侏儒の言葉」もだいぶ前に読んだ切なので、また機会をみて。

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2020年08月14日

Posted by ブクログ

ほとんど小説しか読んだことがなかったので、かたい印象しかなかったのだけれど、まあ、やはり真面目なんだなあと。あと、皮肉っぽいなあとも。そして、「小説とは」ということについてみんなちゃんと考えていたのだなあと。漱石や谷崎、佐藤春夫、正宗白鳥なんかに関する言及もあって、そうかそういう感じかと思ったりした。あとはやはり、フランス文学に通暁しているなあと、メリメとかアナトール・フランスとか。しかし、発音そのままというか、ベル・アミ(ベラミ)とか、ダスタエフスキ(ドストエフスキー)とかいう表記で出てくるのがおもしろい。

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2011年09月03日

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