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「打ち下ろすハンマアのリズムを聞け」-芸術の永遠に滅びざることをこう表現した芥川は,死の前の4年間アフォリズムの刃を研ぎ澄まし「侏儒の言葉」を書きついだ.一方,谷崎との2度の論争に底深く覗いた文学の「極北」とは何であったか.死への傾斜をはらんだ,最晩年の双竜ともいうべき箴言集と文芸評論集.(解説=平出隆)
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Posted by ブクログ
読み始めました。 『侏儒の言葉』は、以前に単体の岩波文庫を読んだことがあります。 大阪に向かう列車で読んでいます。前に読んだとき(30代)より、痛切に感じます。 ちょうど京都駅に停車中に「侏儒の言葉」の部分を読み終えました。 (2013年11月22日) 「文芸的な」は、初めて読みました。 (20...続きを読む13年11月23日)
文芸論争はどうも神学論じみている。 きっと痛切なことだったのだろうが、申し訳ないことにあまり興味を持てない。 その一方でアフォリズムに惹かれるのは、 それが日々の何気ない思考の断章だと感じるからだ。 体系化される前に著者の生活の端々から自然と沸き出でる肉声のような気がする。 そして、いくつかのアフ...続きを読むォリズムが長い時間を耐えて小説を構成する血肉となり、 また最終的には著者の人生を左右させるという予感がするからだ。
芥川が晩年に記したアフォリズム。読んでいると、彼は神経むき出しで生きていたのではないかと思うほど、鋭く繊細な文章。こんな感覚をもって生きていくには、いったいどれだけの苦痛が伴うのだろう。
収録:「侏儒の言葉」「侏儒の言葉(遺稿)」「文芸的な、余りに文芸的な」「続文芸的な、余りに文芸的な」
収録作:侏儒の言葉・侏儒の言葉(遺稿)・文芸的な、余りに文芸的な・続文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介の持つ小説観、その叙情的イメージがいかなる意味合いを持つかは谷崎潤一郎との小説論争においてある程度明らかになっている訳だが、谷崎と芥川の小説そのものを見て感ずるところの相違が、そのまま互いの思想...続きを読むの相違であるとは言えまい。本書において芥川は谷崎氏に対峙する論客として何章かを裂いているが、一度ならず主張しているのは「ストーリーなき小説」の正当性についてであり、それは多く古典からヒントを得、寓話的な要素を多く持つ芥川の小説(勿論そればかりでないのは言わずもがな)を顧みるにおいて殆ど彼の創作物に重なるものでは無い。またこの論争においての主旨である「ストーリーなき小説」との接し方、理解、分析方法において、芥川の良しとする小説、叙情的芸術としての小説領域に、彼の師であり日本最大の文豪と言っても過言ではない夏目漱石の影がある事は明らかであろう。しかしこの論争については、並行して読んでいる前田愛の「文学テクスト入門」においても触れられている為、ナイスタイミングというかラッキーというか、これからそちらを読むのが二倍楽しみである。
十代の頃、新潮文庫で初めて「侏儒の言葉」を読んだ時、閃光のようにきらめく知性と厭世的なポーズに酔いしれ憧れた。二十代で再読した時には、頭でっかちで底の浅いひ弱な精神しか見出せなかった。不惑を過ぎて「文藝的な、余りに文藝的な」と合わせて改めてこの箴言集を読み、芥川がなぜ自ら命を絶たねばならなかったのか...続きを読む少し分かるような気がした。 詩人兼ジャーナリストでありたいと願った芥川は詩的精神と知性をともに追い求めた。だが彼の知性は詩人に徹することを肯んぜず、その詩的精神は散文芸術としての総合性とあい入れなかった。芥川の中の詩人とジャーナリストがギリギリのバランスを保つことができたのがアフォリズムという形式なのかも知れない。機知と言葉の瞬間的な輝きは芥川の小説の魅力だが、それはある意味でアフォリズム的である。谷崎との論争で「話らしい話のない小説」を擁護した晩年は特にその傾向が強かった。 それは極めて危ういバランスだった。芥川は国木田独歩について書いている。「独歩は鋭い頭脳を持ってゐた。同時に又柔らかい心臓を持ってゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失ってゐた。従って彼は悲劇的だった。・・・彼は鋭い頭脳の為に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔らかい心臓の為に天上も見ずにもゐられなかった。」独歩の悲劇は芥川自身の悲劇であった。この不幸な矛盾に耐えるには彼の頭脳は鋭敏であり過ぎ、心臓は柔らか過ぎた。 しかも同時代の文壇は芥川に冷淡であった。自分と目指すものは同じと思い込んでいた萩原朔太郎に「典型的な小説家に過ぎない」と突き放され、共感を持って関心を寄せていたプロレタリア文学派からは「敗北の文学」(宮本顕治)と断定される(発表は芥川の死後)。いずれも芥川を中途半端とみなしたのだ。華々しいデビューにもかかわらず、晩年の芥川は孤立していた。それでもなお書き続けた彼の姿は痛々しいという他ない。「文藝的な、余りに文藝的な」は芥川の文学観と生理、そしてそれらが招いた悲劇を理解する上で欠かせない文献であると思う。
芥川龍之介のエッセイに近い、しかし詩のように言葉がかかれていた。 現代でもなんとなくあることが、いろんな表現で書かれていて、おもしろいと思った。
「大きな物語」とは、もっとも根源的な世界観の上に成り立つものである すなわち、「弱肉強食」の世界観である しかしそれを人間の立場から見た場合 あまりに動物的・非人間的と言わざるをえない 「筋のおもしろさ」とは ようするに「大きな物語」の縮小コピーを楽しむものである しかし小説が人間を題材にするものな...続きを読むらば、 逆の観点から考えるべきこともあるのではないか
芥川龍之介の金言集。 この本を読むと、芥川龍之介の感性の鋭さに驚くと共に、彼だからこそ『河童』や『蜘蛛の糸』などの作品を書くことができたということが分かる。
重たい。でも、軽んじてはいけない。 そんな言葉がいっぱい詰まった本。 現代に生きても、芥川龍之介の時代でも、 苦痛を覚えることは一緒だったのかもしれない。 心に残っているのは、 『人生の悲劇の第一幕は親子になつたことからはじまつている』 少しうろ覚えだが、この言葉は呼んだ当時悩んでいた私に 深く突...続きを読むき刺さった。
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