高田里惠子のレビュー一覧
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多くの教養論のレビューした本書はもっと早い段階で読んでおきたかった。社会階層、文化資本、育ちの良さ、学歴社会、そして学力の議論をひっくるめた神聖喜劇のような状況を「グロテスクな」とした表現には、清々しさを覚えた。個人的にこの表現があてはまるものが一つある。それは「大学」だ。
大学には思いつくだけでも次のような意味が付与されている。(1)学問的に認識し、精神的に生きようとする人々を集めたもの 、(2)教養教育を含む大学教育、(3)大学ないし大学院における研究を通じた教育、(4)教員・研究者による研究、(5)大学は研究と方法の態度の訓練の場、(6)職業教育、(7)中等学校と同じようなカレッジの側 -
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なんとなくタテマエの平等空間を実現していた一高はある種のモラトリアム空間だったのではないかと思いました。そしてまだ階級社会であった当時ではそのモラトリアムにいられる幸福な青年の総数自体が少なく、其れ故彼ら高学歴者と世俗との乖離が目立ち第二次大戦、敗戦という流れの中でモラトリアム期間の急激な中断を余儀なくされたのが彼らの憂鬱であり悲劇であったとも思います。
ノーブレス・オブリージュと言う言葉が文中良く出てきますが、一高生が憧れた西洋のノーブレス・オブリージュには軍歴も含まれていたと考えられるのに、軍部が日本の事情を考慮したエリートの軍への取り込みをしなかった事と、エリート層の方でも世俗から離れる -
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旧制高校時代から戦争をはさみ、ニューアカまで……「教養」や「教養主義」についての言説をちょっと意地悪な視線で俯瞰するのが本書。筆者のときに照れたようなときにひねたような、愛憎半ばするその文体が魅力的だ。今、「教養について語ること」そのものがグロテスクなのを重々承知しながら、愛ゆえに語らざるをえない……というのが萌え。
「教養」が常に人を磨くとは限らない。それどころか今「教養主義」と言えば、素直に悪口ととったほうがいい。人より多少本を読んだからといって何がエラいの? それより求められているのは「コミュニケーション能力」なんだよ! (というのが現代なんだろうが……、その「コミュニケーション能力 -
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大正から現在に至るまでの「教養」を巡る言説の変遷を“教養主義者”的観点に基づいたアイロニカルな筆致で紐解く“教養言説の展覧会”。
『神聖喜劇』を読み途中で投げ出した身としてはこの論考の真髄がなんたるかを理解するには至らなかった悔しさがあるが、いわゆる「エリート」や「知識人」達の言説を丁寧に拾い上げて各時代の要請と連結させていく様はまさに“展覧会”という言葉が相応しく、各章に満遍なく知的好奇心を揺さぶる面白さが散りばめられている。高等教育機関に焦点を絞るという著者の明瞭な意図も清々しく、その潔さにおいて著者が自嘲気味に使っている“いやーな気持ち”になることはなかった。
「教養」について関心のある -
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ネタバレ[ 内容 ]
戦前の日本で、旧制高校から帝国大学へと進む学生たちは、将来を約束されたひと握りのエリートであった。
彼らはある時期まで、軍隊経験をもつ時でさえ、低学歴者にはない優位を与えられた。
それが、第二次大戦もたけなわとなる頃から、彼らも過酷な軍隊生活を送らざるを得ない情況となる。
本書は、最も「貧乏クジ」を引いた学徒兵世代の恨みと諦めの声を蒐集し、世代と階級を巡る問題を照射するものである。
[ 目次 ]
序章 わだつみが聞いた声―高学歴兵士は何を体験したか
第1章 月給取と腰掛OL―高学歴兵士はなぜ嫌われたか
第2章 エゴイストを撃て―高学歴兵士はどこでつまずいたか
第3章 帰ってきた -
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[ 内容 ]
「教養とは何か」「教養にはどんな効用があるのか」―。
大正教養主義から、八〇年代のニューアカ、そして、現在の「教養崩壊」まで、えんえんと生産・批判・消費され続ける教養言説の底に潜む悲喜劇的な欲望を、出版社との共犯関係・女性や階級とのかかわりなど、さまざまな側面から映しだす。
知的マゾヒズムを刺激しつつ、一風変わった教養主義の復権を目指す、ちょっと意地悪で少しさわやかな教養論論。
[ 目次 ]
第1章 教養、あるいは「男の子いかに生くべきか」(教養死すとも 教養論をめぐる困難 ほか)
第2章 戦争、そして教養がよみがえる(学力低下を最初に嘆いた人物 教師は喜んでいるか ほか)
第 -
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著者のつぶやきが多すぎてちょっと読みづらい。それがなければこれまでの日本の教養文化の歴史みたいなものが俯瞰できておもしろいのに。第三章の出版社(ジャーナリズム)学者(アカデミズム)と教養の関係について書かれたところがおもしろかった。教養あるいは知というものはもともと大学の専売特許だったが、大学に受け入れられなくなった学者が出てきた時、彼らの言論の受け皿敵役割を果たすために出版社というものが生まれた。そしてやがて著作を読まれたいという学者の意識が日本の教養をダメにしたと…。著述活動を望む者が、出版社に受け入れられずブログに依存する今日、教養はどうなってしまうのでしょう?