多くの教養論のレビューした本書はもっと早い段階で読んでおきたかった。社会階層、文化資本、育ちの良さ、学歴社会、そして学力の議論をひっくるめた神聖喜劇のような状況を「グロテスクな」とした表現には、清々しさを覚えた。個人的にこの表現があてはまるものが一つある。それは「大学」だ。
大学には思いつくだけで
...続きを読むも次のような意味が付与されている。(1)学問的に認識し、精神的に生きようとする人々を集めたもの 、(2)教養教育を含む大学教育、(3)大学ないし大学院における研究を通じた教育、(4)教員・研究者による研究、(5)大学は研究と方法の態度の訓練の場、(6)職業教育、(7)中等学校と同じようなカレッジの側面、(8)専門職大学院、(9)サービスステーションの性格、(10)その他の専門教育。これらを含む「大学」を、さらに一つの文書・チャンネルで監理しようとすると、その手段が余計にグロテスクになる。著者の言葉を借りると「厳粛と言っていいのか滑稽と言っていいのか、笑っていいのか泣くべきなのか分からない」という状況だ。このように、教養と大学には共通項があると思えた。
しかし、その先に考えるヒントも与えてくれている。「教養は、自分自身をどう見るか、他者にどう見られたいか、他者をどう見るか、ということと結びついている(233頁)」。結局教養は自分で定義するしかない。だとすると大学も大学自身で規定するしかないのだと考えることができる。
自己規定するために、まず必要なのは「教養」であるはずなので、それを身につけなければならない。と考えてしまうあたりで、いつものループに陥っている自分がいる。旅はまだまだ続く。