大森荘蔵のレビュー一覧
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大森荘蔵さんのさんの本は以前読んだときあんまり面白くなかったのだが、これは違う。断然違う。超一級のおもしろさを持つ哲学書だ。
もとは別々の論文であったものを、著者自身がうまくまとめ直して一冊の書物にしている。とはいえ、後半の方とか、トピックは様々だ。
私が非常に興奮させられ、感銘を受けたのは第1部「物と心」である。この部分は難解さも心地よく、常識的な見方を覆すような、それでいてケレン味の無い緻密な論述に心奪われる。
大森は「感情、情念、気分といったものはわれわれを含めた世界の状況の中にあるのであって、その世界から分離された、しかもべったり世界にまといつく「心」にあるのではない。」(P120)と -
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冒頭で「語の意味とは何か」という問いがある通り、この本はその問いに対応する形で書かれている。また、著者はそれを示すと同時に、哲学することについて読者に示す。以下は私の理解である。
本書で繰り返し語られることに、「言葉を整備する」ことがあげられると思う。そして言葉を整備することが、語の意味とは何かを示し、哲学することなのだ。では語の意味とは何か。
語の意味とは、誰かによって与えられているものである。誰かとは、発話者のことである。そして、語の意味は厳密に示されるものではない。よって単語帳に載っている意味は、その語が蓋然的に示す意味であると考えられる。著者は、家族的類似性という概念を用いて語の -
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初期『論考』の「世界ー言語並行論」に基づく意味論的発想を離れ、中期の「文法」すなわち規則を重視する立場から後期『探求』の「言語ゲーム」への移行期における、ウィトゲンシュタイン(LW)の講義の口述録。ここではすでに「言語ゲーム」という言葉は表れているが、あくまで中期LWの特色である「文法」「ルール」に重きを置いた考察がなされており、後期のようにそこに我々の生活があって初めて実質が与えられる、という立場は取られていない。野矢茂樹氏の解説によれば、あくまで「文法」内での語の使用のされ方に焦点を当て「あてがわれるべきものと異なる文法を適用してしまうことにより生ずる我々の誤謬を治癒しよう」というのがこ
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1982(昭和57)年著。
以前読んだ大森荘蔵さんの著作は結構面白く読めて共感する部分も多かったのだが、本書の前半、「視覚」現象を巡って常識を覆すような論が展開される部分は、どうも首肯できずに苦しかった。文章は哲学書としては恐ろしく平易・明解な方で、言っていることは理解できるのだが、どうしても「いや、どうかな、違うんじゃないかな」と疑わしい気持ちになるのだった。
しかし本書後半、「視覚」を離れて心的現象全般について哲学的洞察が繰り広げられ始めると、これはなかなか面白く、かつ、同意できそうな点も多くなった。「立ちあらわれ」という独特のキーワードを軸に、「自分」と周囲の風景や事物との関わりを -
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ヴィトゲンシュタインの中期作として捉えられるべき作品。
彼はあらゆる哲学的探求、会話は言葉ゲームであると云っているが、個人的には「そんなことを考えてどうするのか」と思わせるところも多い。
ただ、人であれば一度は考えることも多いし、「云われてみれば」と思わせるあたり、ヴィトゲンシュタイン哲学の魅力があるのだろう。私一個人としては、「そういう考え方を人もいる」程度のものでしかない。
彼の考え方に触れたのは、「他人の心を知ることはできるか」という箇所であるが、これは大学の講義で知ったことで、かつ彼の後期作「哲学探究」の中課から引用するものである。仮に「『リンゴ』や『歯痛』という単語が共有されている