青柳瑞穂のレビュー一覧
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ネタバレ僕は全宇宙が崩壊するのをいても、知らん顔をしていることだろう。なぜだって?彼女以外のものなんてどうだっていいからだ。
バカバカバカ!!!何度そう叫びそうになったことか。愛とは盲目であるとは言うけれど、何度浮気されても、何度親友をだましても、何度牢獄にいれられても、果てには人を殺してまでも貫き通す愛はもはや美談のかけらもない。それにしても親友チベルジュを始め、グリュウ(主人公)の周りにはお人よしのいい奴ばっかが集まっている。だから脱獄もちょちょいのちょいなのだ。「現実はそんなに甘くない」とか「人を殺しといて美談に仕立てて」とか色々不満点があり、椿姫のように心から同情して泣ける物語ではなかった。 -
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ルソーの先見性は計り知れない。
彼の自我や自意識への拘り及び探求が、その後の学問や近代文学に与えた影響の甚大さをみても、それは証明される。彼も、当時の人間には理解されないところの所謂、天才の一人に数えられている。特に、精神分析の発達こそがルソーの捻くれた性格や相反する感情の衝突などの現象を解明させる契機となった。文学では、かの有名なトルストイなどはルソーの影響を直接に受けているらしい。
幸福とは、本人の中に眠っているもので、外部にそれを求めようとしても無駄に終わると、彼は語っている。彼は、作家として若い時期に華々しく文壇にデビューしたが、自分の子供を全て孤児院に入れてしまったり、激しい思想の著作が一部の人間の反感を買ったりして、フランス社会から追放処分を受けてしまう。作品「エミール」は教育論として優れた著作だが、孤児院に子供を預けて親としての義務を放棄する行為との矛盾を指摘され、作品も吐き捨てられた。
ルソーの性格は、とにかく過敏で神経質だったらしい。今でいう統合失調症のようなものだと謂われている。人間関係では常に対立を繰り返し、友人との絶交が相次いだ。そして、孤独な後半生を送らざるを得ないところまで悪化していった。穏やかで善良な資質も十分に持っていたが、不器用で疑い深い性向の為に、周囲にそれを理解される事はなかった。彼の文章は激しい口調で、己の精神を分析して掘り下げていく。その毒々しい執念の強さが却って思わぬ反感を買う原因でもあった。
晩年、フランスへの入国が許されるが、一切の著述活動をしない事を条件にとられた。無理解だった当時のフランス社会にとっては、ルソーは危険人物だったのだ。天才は、しばしば同時代の人間からの無理解に苦しめられる。社会にまだ受け皿が整っていない事によって、天才は公から放擲される。哲学や文学などで自意識が大きな主題にクローズアップされるより一歩先に、ルソーは必死になってこの自我の問題に取り組んだ。ルソーの文学は現代にも大きな影響を及ぼしている。
しかし、日本でルソーは余り読まれていないようだ。本作の訳者はそれが残念だ、と嘆いておられる。学問の研究テーマとしても孤独な現代人の心の渇きを埋める読書の対象としても、ルソーの文学は非常に魅力的だ。本作は、晩年の最後に書かれた遺書のような一品。ルソー本来の人間性が、瑞々しい文章の間から滲み出ている。一度、読まれる事をお勧めする。 -
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しばしば危険思想と目される人物による書籍だけあって、晩年の作品にも関わらずきわめて強烈かつ異様、芳醇な毒気を放っている。この作品は読む劇薬だと思う。僕も例にもれず、短い作品ながら頭がクラクラする思いだった。
この毒気は一読に値する。曖昧かつ内省的な文章が延々と並んでいるように見えるが、よく読めばすごい妖気だ。後のカントやトルストイが生涯かけて愛読したように、これはハマる人には途轍もなくハマる内容だ。
しかし一人の人間が必死に生きようとした、その軌跡の末尾として作品を見るならば、この著者にも共感を多く見出せるだろう。
小説にも哲学書にもカテゴライズしがたいが、その作品は紛れもなく文学だった。
この闇属性にはニーチェや太宰にも通じるものが含まれている。訳者の読み応えのある解説文にあった文言をつなぎ合わせて、僕は著者を『愛すべき邪悪』と呼びたい。
内容は人間社会への憎悪が主で、綺麗なバラに棘ありとの言葉通り、見た目(原文)は非常に美しいフランス語で書かれているらしい。
僕はこの訳者が好きなのだが、この本でもその美しく繊細な訳文は健在だ。原文のイメージを比較的に保っているのではないだろうか。蛇足だが、表紙が洗練されていて非常に美しい。 -
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ネタバレこちらはフランス文学です~。
まじめな青年が、マノンという女に出会ったために人生を転落していく様を描いたものです。
マノンにあっては引き離されて、大金を持っては全財産失い、、、、の繰り返し。
初めは真面目に読んでたんだけど、この繰り返しでしょ~。
読んでてなんだかコメディー読んでる錯覚に陥ったよ~。
もちろん文章も内容も真面目なんだけど、なんかここまでやられると笑うしかない。っていうか、この真面目な話をコメディに作り替えたら結構いけると思うわよ。
ま、最後はちょっと可哀想なんでかなりシリアスなんだけどね~。
でも、これをミステリーにもつくり変えられるよね~。
実は、すべてマノンの仕業だったとか。。。
なんかこの本をこのまま読んでしまうのが惜しい気がしたわ。
そうそう。この本、実は66巻あって、その中から抜粋して、これだけ独立させた本なんだって~。
66巻も読めないよ~。 -
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18世紀フランスの小説家アベ・プレヴォー(1697-1763)の恋愛小説の古典、1731の作。あの人物像の中に、女も男も自分の姿や理想を垣間見続けてきたのか。所謂"femme fatale(運命の女・男を破滅させる女)"を描いた文学の先駆とされる。プッチーニのオペラでも知られる。
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主に騎士グリュウの一人称語りで展開される本作、世人一般の冷静さを欠き、誰のものとも知らぬ良識の頸木を断ち、恋人マノンなしの世俗的な幸福など一顧だにせず、恋の悦楽その純粋――極端に於いては実生活と両立し得るはずのない純粋、節制とは正反対の感情のアナーキー(ルカーチ)――に身を任せ、ときに絶望に堕ちときに改悛しそのまたすぐに恋の有頂天へ・・・。息苦しいまでの若さの疾走――内面を重苦しくさせ、その重さゆえに疾走せずにはおれなくさせるところの、あの若さ――、行き着く果ては愛の幻想で充溢した二人きりの(終にはグリュウ独りきりの)内的な自閉空間か。そこから血涙となって零れる呻吟が、破滅の予感とともに響いている。ロマン主義的な感性の萌芽と云えようか。
「彼女はぼくを愛している。・・・。ぼくは全宇宙が崩壊するのを見ても、知らん顔をしていることだろう。なぜだって? 彼女以外のものなんてどうだっていいからだ」
「しかし、おまえに必要な男は、金持ちで、幸福者でなければならない。・・・。ところが、このおれときたら、ご提供できるのは、愛ばかり、誠実ばかり。女どもは、おれの貧乏を軽蔑し、おれの一本気をなぶりものにする」
「恋ゆえに、ぼくはあまりにも感じやすい、あまりにも情熱的な、あまりにも忠実な人間になりました。そして、おそらくは、美しい愛人の恋をむかえるために、あまりにも気前のいい人間になりました。ぼくの罪悪というのは、これなんです。」
「しかし、私はどんなことをしても彼女と別れないと断言し、世界の果てまで連れていって、・・・、彼女を愛し、自分の不幸な運命を彼女のそれにしっかりと結びつけるつもりだ・・・」
「愛しあう恋人同士にとっては、宇宙全体が祖国ではないだろうか? 彼らはお互いの心の中に、父を、母を、親戚を、友人を、富を、至福を見いださないだろうか?」
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それにしても、破滅させるほどの恋を騎士に抱かせている当のマノンの実体が茫として掴み所のない、というのは読みながらずっと訝しく感じられた。騎士グリュウの一本気な誠実さが、内面に空いた無限小の穴であるとするなら、娼婦マノンが己の享楽の為に不貞を犯しながらなおも失われずにいるかの如き無邪気さは、魂が抜けて浮遊する無限遠点のようだ。肌に熱ある人物像をどうしても思い描けない、宛ら自動人形の如し。そもそも、"femme fatale"という人物類型自体、女性という他者を前にして、それへの恐怖や欲望が綯い交ぜになって創り出された、男による幻想だ。女を眼差す男の視線を映し返している、鏡だ。作者もマノンを全体的な人物として描き切れなかったのではないだろうか。
それでも、ヨーロッパを追われ、アメリカの地の果て、「彼女を愛し、自分の不幸な運命を彼女のそれにしっかりと結びつけ」た騎士に、
「逃げちゃうのよ、いっしょに」
と云う、終末近いマノンの言葉は、本作中、最も哀切で美しいと感じる。
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破滅に到らなければ恋は嘘だ、とロマンチストは云うかもしれない。しかし、現実は散文的な生活の裡にある。虚構の中でしか描き得ない、嘘としてしか語り得ない、真実もある。 -
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二十歳までに所謂名作と言われている本を読み、その感想を十年後、二十年後の感想と比べたいと思っています。
マノンレスコーは友人に勧められて読んでみました。
感想としては…なんだか自分の年齢というか成長を感じました。
もともと自分が保守的な考え方をするというのもあるんですが、主人公やマノンに全くもって共感できなかったんです。
彼らを俯瞰して読んでいるというか、どちらかといえば主人公の親やらのような気持ち。
「その選択は駄目でしょ…」「あーやっぱり悪い方向に行っちゃった」
みたいな感じで、彼らの若さゆえの無鉄砲さが好ましくないと感じてしまいました。
マノンの死の辺りではさすがに最愛の人との永遠の別れということで悲しい気持ちも湧いたんですが、それでも「最初にこう行動しておけば…」という風に冷静に考えてしまって、悲しみに飲み込まれない。
もっと早くこの本を読んでおきたかったです。
中学、高校時代に読んでいたら、また違った感想だったのではないかと思います。 -
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ネタバレ::: :: :: ::: :: :: ::: ::: :: :: ::: :: :: ::: ::: :: :: ::: :: :: ::: ::: :: :: ::: :: :: ::: ::: :: :: ::: :: :: :::
洲之内徹が主に絵画で、青柳瑞穂は主に骨董焼物という違いはあれど、美に対する真摯かつ真っ直ぐな向き合い方がふたりは似ている。そしてふたりとも目利きである。
戦時中、洲之内徹は海老原喜之助の描いた「ポアソニエール」を見つづけ、青柳瑞穂は陶器を見つづけた。
何度か品物を見かけていて気になってどうしても欲しくなって、なんていうくだりなどふたりともそっくりなのだけれど、私は焼物はよく分からないから、やっぱり洲之内徹の方に愛着を感じてしまう(もちろん、洲之内さんだって焼物や漆塗を持っていたし、青柳さんだって絵画も持っていたけれど)。
どうにも私は焼物がよくわからない。
絵の場合は見れば好き嫌いをはっきり認識できるし、世間での価値と自分の出した評価が違っても気にしないし、自分の目に自信も持てる。
けれども、骨董の焼物の場合、絵のように見れない。
土の持っている美しさというものに自信がない。絵のように直感的に自信を持って意見を言えない。
美しいか否かということより先に骨董か否か、高いものはよくて安いものは良くない、というような先入観に侵されてしまっているような気もする。
しかし、釉薬の美しさとか、形の美しさとか、装飾の美しさとか、そういうものは絵と同じように見れる。
だから、ルーシー・リーの作品を見た時は冷水を頭からかぶったみたな衝撃を受けた。
美しい色に心臓がドキドキしてぞわぞわと身震いした。
影響も受けた。
理屈抜きで美しいと思ったし素晴しいと思った。
それから、私は蒔絵が施されたものも結構好きだ。蒔絵は淋派の絵画と同じ感じがする。
蒔絵と聞くとまず私の頭の中には尾形光琳の「燕子花図屏風」と、酒井抱一の「夏秋草図屏風」が浮かび、それから本来の蒔絵(私は漆塗りの箱がいちばん好きだから、その漆の艶やかさとか、箱の美しい丸みとか、そこに施された黒に映える金の美しさと可憐なモチーフを描き出す繊細な仕事っぷり)を思い浮かべる。
そういえば、知らなかったのだが『ささやかな日本発掘』に光琳が弟の乾山と焼物をやっていたということが書いてあった。あの頃は芸術は一括りで境界線などなかったのかも知れない。
青柳さんのこの本を読んで、美しさというのは自然の中にあるのだという考えを心に留めて忘れないようにしなければと思った。
芸術を前にした時にこうあるべきだという的確な文章があったので引用。
”私たち素人は、感動を失ったら、あとは何ものも残らない。感動のみ知ることが出来るのだ。もちろん、仏の奥には感覚を超えた、もっと深いもの、もっと神秘なものがひそんでいる筈だし、そして、すぐれた芸術は、それなしには存在しない筈だが、それとても感覚の電波による以外は探り得られるものではあるまい。”
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尽きることのない愛情でグリュウを包むマノン。
二人の間にあったものは、まさに「不謹慎と軽率」だ。
自分に非があると知っていながら、男を運命の歯車に巻き込むのは悪女そのもの。そんな悪女に自らの人生を持って抗えなかった弱き男性の物語。
恋とは大きな水槽に飛び込むようなものなのかしら。
溺れると分かっていながら、自ら全力で回転しながらで飛び込んでいく姿を見た。
グリュウもさ、自分の悲惨な運命を恋のせいにしちゃっている点でどうかと思ったけど。破れかぶれの姿を美しいと思うか、粋ではないと見るかは人それぞれかしら。もうここまで行くと滑稽というか手に負えないなと思ってしまう。
「或る女」が女性目線なのに対して、「マノン・レスコー」は男性目線なのが面白い。どちらも、女性「性」をうまく描いていると思う。
・自分が相手の愛に値しないのではないかという感情
・チベルジュとグリュウの相反する理性と感性のコントラスト
・フランスとアメリカの対比
とか、そういうのが気になった。
にしても、後半30ページの悲劇っぷりはやばい。。
悲劇の階段を転げ落ちていくとはまさにこのこと。
息をのむ展開だった。