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本書は、「カッコいい」男、「カッコいい」女になるための具体的な指南書ではない。そうではなく、「カッコいい」という概念は、そもそも何なのかを知ることを目的としている。
「カッコいい」は、民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、動員と消費に巨大な力を発揮してきた。端的に言って、「カッコいい」とは何かがわからなければ、私たちは、20世紀後半の文化現象を理解することが出来ないのである。
誰もが、「カッコいい」とはどういうことなのかを、自明なほどによく知っている。
ところが、複数の人間で、それじゃあ何が、また誰が「カッコいい」のかと議論し出すと、容易には合意に至らず、時にはケンカにさえなってしまう。
一体、「カッコいい」とは、何なのか?
私は子供の頃から、いつ誰に教えられたというわけでもなく、「カッコいい」存在に憧れてきたし、その体験は、私の人格形成に多大な影響を及ぼしている。にも拘らず、このそもそもの問いに真正面から答えてくれる本には、残念ながら、これまで出会ったことがない。
そのことが、「私とは何か?」というアイデンティティを巡る問いに、一つの大きな穴を空けている。
更に、自分の問題として気になるというだけでなく、21世紀を迎えた私たちの社会は、この「カッコいい」という20世紀後半を支配した価値を明確に言語化できておらず、その可能性と問題が見極められていないが故に、一種の混乱と停滞に陥っているように見えるのである。
そんなわけで、私は、一見単純で、わかりきったことのようでありながら、極めて複雑なこの概念のために、本書を執筆することにした。これは、現代という時代を生きる人間を考える上でも、不可避の仕事と思われた。なぜなら、凡そ、「カッコいい」という価値観と無関係に生きている人間は、今日、一人もいないからである。
「カッコいい」について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えることである。
――「はじめに」より
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Posted by ブクログ
“ビュフォンが『人間の博物誌』(一七四九年)を書いて以来、「男らしさ」は、”生物学”に基盤を得て、自然主義的に主張されるようになる。男女の性的二形性ーつまり、男女は解剖学的、生物学的に違うという事実ーから、その差異は社会的な存在論にまで拡張され、結局のところ、男性の優位を根拠づけようとする思想が、一九世紀以降、広まっていく。この時代、取り分け注目されたのは、男女の体液だった。女性が母乳や涙、分泌液など、「体液を排出するよう勧められた」のに対して、男性は「涙であれ精液であれ、自分の体液の流出を結し、抑制するよう促される。快楽を管理し、性的エネルギーを規制することが、男らしさを示すこと」と理解されたという。「男らしさ」とは、つまり、自己を主体的にコントロールすることであり、更には自己の周辺の状況、女性を含めて他者をコントロールすることだった。その「性的エネルギー」の規制のために、一種の道徳神学と医学との両方から反マスターベーション運動が起こり、途中、その無害を唱える説などによって緩和されつつも、精液の放出が生殖能力を低下させ、ひいては「男らしさ」を損なうという不安は、イギリスでは一九〇〇年をピークとし、両大戦間まで続いた。しかし、マスターベーションは、意志の力で我慢できるかも(?)しれないが、夢精となると、打つ手がない。むしろ、ますます厄介な問題であり、そのために、自殺を考えるほど思い悩む男性までいた。驚くべきは、こうした「精液漏パニック」が、この時期、ヨーロッパ中で広がっていた事実である。勿論、「男らしさ」が減退するという不安だけでこの有様なので、その根本的な欠如の宣告である性的不能は、絶望的な問題だった。スタンダールの『恋愛論』に見られる如く、不能は言わば偶発的な「しくじり」だったが、それはいかにも深く自尊心を傷つけ、本質的に恥辱と感じられたが故に、医学的な原因究明の情熱は、一九世紀の間、醒めることがなく、禁欲は良いのか悪いのか、禁欲が長すぎるのが問題なのか、マスターベーションのし過ぎなのか、性交のし過ぎなのかと、その説は揺れ続けた。しかし、これらはいずれも、今日の男性たちが通俗的に信じていることと、そう大差がないのではあるまいか?”
Posted by ブクログ
この軽薄そうなタイトルに対してこのボリューム。
新書というのは‘掲げたテーマを簡潔に読者に語る’というのをそのスタイルとしたのだと思っていたのに…。だからこの本を手に取った時は『何考えてんだ?』と呟いてしまった。
著者の平野啓一郎氏も悪いと思ったのか「第10章にはまず目を通し、肝となる第3章、4章を読んでもらえれば…」と多方面の歴史をひもときながら解説するうちに、参考文献の量が多くなったことを詫びている。
でも、この本の厚さに負けて、第10章だけを読んだ人は、全く面白さがわからなかったことだろうし、その後に肝となる第3章、4章を読んでもやっぱり、平野氏の「カッコいい」に対する熱量は伝わらなかったのではないだろうか。まるで、教科書を読んで、その後にかなり詳しい参考書を読んだくらいの感覚だろう。
私は平野氏のように多趣味ではないので、こんなに多方面から「カッコいい」を見つめることはできない。だから、知らない音楽やファッション、エンタメなどのカタカナをググりながら、彼の連れて行く多方面の「カッコいい」が紹介されている477ページに付き合った。
そして、こんなにもの分量の言葉を積み重ねないと、しっくりと「カッコいい」が伝えられたと感じられなかっのか。という思いにもなった。
それは平野氏の言っている『「カッコいい」は体感で「しびれ」をともなうもの』で、言葉で説明べきるものではないということの証でもあることを語ってもいる。
今日のお昼、DVD で『ボヘミアンラプソディ』を観たのだけど、昔、フレディ・マーキュリーの歌を初めて聴いたときにまさに『しびれ』が体を走ったのを思い出した。
まさに「カッコいい」とはこういうことなんだと、当時一緒にレコードを聴いていた友人に、言葉も無しに伝えられた気がした。
そう、人は少なからずこの「カッコいい」によって人生の幾つかの選択肢を選んできているのだ。
言葉の重量は感じないが、電光石火、人に瞬間にして決意と行動を、もしかしたら転向を促すかもしれないものすごい力を生み出す「雄叫び」だったのだ。
Posted by ブクログ
想像していたより遥かに重厚で濃厚な内容だった。正直一読しただけでは自分の中で理解や解釈が及んでいないところも多い。多面的多角的な考察や検証はすごいんだけど、特にファッションの話とかは背景知識や関心が不足している部分が少なくなく、感覚的な理解が及んでいないという感じ。まぁそれはそれで仕方ないかもしれない。でも総じての主張として、カッコいいって体感主義的ということと理解していて、それって結局自分の中でビビッと来たかどうかで、周りがどう思うかとかどう思われるかとかはあまり関係ない。それって頭ではわかっているんだけどやっぱり特に10代20代のころはそこまで割り切れなくて、常に周りの目や評価評判を気にして生きてきたって部分はあるよね。なんとなく自分の中で一定の基準や価値観が定まってきたり割り切ったりある種の"冷め"によって自分は自分と思えてきたところがあるように思う。でもそれはそれで、かつてのような体感主義的なビビッとくる感覚が減ってしまっているのも事実だろうな。どちらが良いとかって話ではないけど、カッコいいものに関心をもって、それを素直にカッコいいと思える感性を持っていたい、磨いていきたいと思った。
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