あらすじ
本書は、「カッコいい」男、「カッコいい」女になるための具体的な指南書ではない。そうではなく、「カッコいい」という概念は、そもそも何なのかを知ることを目的としている。
「カッコいい」は、民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、動員と消費に巨大な力を発揮してきた。端的に言って、「カッコいい」とは何かがわからなければ、私たちは、20世紀後半の文化現象を理解することが出来ないのである。
誰もが、「カッコいい」とはどういうことなのかを、自明なほどによく知っている。
ところが、複数の人間で、それじゃあ何が、また誰が「カッコいい」のかと議論し出すと、容易には合意に至らず、時にはケンカにさえなってしまう。
一体、「カッコいい」とは、何なのか?
私は子供の頃から、いつ誰に教えられたというわけでもなく、「カッコいい」存在に憧れてきたし、その体験は、私の人格形成に多大な影響を及ぼしている。にも拘らず、このそもそもの問いに真正面から答えてくれる本には、残念ながら、これまで出会ったことがない。
そのことが、「私とは何か?」というアイデンティティを巡る問いに、一つの大きな穴を空けている。
更に、自分の問題として気になるというだけでなく、21世紀を迎えた私たちの社会は、この「カッコいい」という20世紀後半を支配した価値を明確に言語化できておらず、その可能性と問題が見極められていないが故に、一種の混乱と停滞に陥っているように見えるのである。
そんなわけで、私は、一見単純で、わかりきったことのようでありながら、極めて複雑なこの概念のために、本書を執筆することにした。これは、現代という時代を生きる人間を考える上でも、不可避の仕事と思われた。なぜなら、凡そ、「カッコいい」という価値観と無関係に生きている人間は、今日、一人もいないからである。
「カッコいい」について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えることである。
――「はじめに」より
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
“ビュフォンが『人間の博物誌』(一七四九年)を書いて以来、「男らしさ」は、”生物学”に基盤を得て、自然主義的に主張されるようになる。男女の性的二形性ーつまり、男女は解剖学的、生物学的に違うという事実ーから、その差異は社会的な存在論にまで拡張され、結局のところ、男性の優位を根拠づけようとする思想が、一九世紀以降、広まっていく。この時代、取り分け注目されたのは、男女の体液だった。女性が母乳や涙、分泌液など、「体液を排出するよう勧められた」のに対して、男性は「涙であれ精液であれ、自分の体液の流出を結し、抑制するよう促される。快楽を管理し、性的エネルギーを規制することが、男らしさを示すこと」と理解されたという。「男らしさ」とは、つまり、自己を主体的にコントロールすることであり、更には自己の周辺の状況、女性を含めて他者をコントロールすることだった。その「性的エネルギー」の規制のために、一種の道徳神学と医学との両方から反マスターベーション運動が起こり、途中、その無害を唱える説などによって緩和されつつも、精液の放出が生殖能力を低下させ、ひいては「男らしさ」を損なうという不安は、イギリスでは一九〇〇年をピークとし、両大戦間まで続いた。しかし、マスターベーションは、意志の力で我慢できるかも(?)しれないが、夢精となると、打つ手がない。むしろ、ますます厄介な問題であり、そのために、自殺を考えるほど思い悩む男性までいた。驚くべきは、こうした「精液漏パニック」が、この時期、ヨーロッパ中で広がっていた事実である。勿論、「男らしさ」が減退するという不安だけでこの有様なので、その根本的な欠如の宣告である性的不能は、絶望的な問題だった。スタンダールの『恋愛論』に見られる如く、不能は言わば偶発的な「しくじり」だったが、それはいかにも深く自尊心を傷つけ、本質的に恥辱と感じられたが故に、医学的な原因究明の情熱は、一九世紀の間、醒めることがなく、禁欲は良いのか悪いのか、禁欲が長すぎるのが問題なのか、マスターベーションのし過ぎなのか、性交のし過ぎなのかと、その説は揺れ続けた。しかし、これらはいずれも、今日の男性たちが通俗的に信じていることと、そう大差がないのではあるまいか?”
Posted by ブクログ
我々はカッコ良さに呪われている。どこまでもかっこ良さを求めている。カッコ良さにこだわらないカッコ良さ。さらにはカッコ良さに素直に開くカッコ良さ。しかしながら、これらは他人をそのように思うだけで、「自分」は絶対にカッコよくなれないという構造。この構造が呪いだ。
結局、カッコ良さは納得感ではないか。同じ著者の分人論では、関係の数だけ個性が存在するわけで、それらの統合がカッコ良さだという見方をやめるよう告げている。
Posted by ブクログ
「カッコいい」という感覚を言語化することの奥深さを知った。
感覚的なイケてる、ヤバい、スゴいといった言葉にも共通する「理屈抜きの形容詞」をどのように明らかにするかということは、自分の美学を確認することに違いない。
自分にとってのカッコいいとは何か、を突き詰めることは自分探しと言える。
単なるルッキズムと言い切れない。
カウンターカルチャーとしての反骨精神、感情をコントロールできる人、家族や身近な人をまもれる人、卓越した職人技を持っている人、、などなどもカッコいい。
かわいいは目下に使う。
カッコいいにはリスペクトを含む。
Posted by ブクログ
いやあ、平野啓一郎の洞察は深いなあ。そして難しいテーマも簡潔に整理されていて、それでいて何度でも読み直したい。まさにクール。この新書自体が「カッコいい」な。印象に残ったのは、カッコいい人は、カッコいい名言を残しているということ。しびれるような経験を言語化することができて初めて物語に内包されて体感されるということ。カッコいいを語るにも知性が必要なんだなあ。
Posted by ブクログ
この軽薄そうなタイトルに対してこのボリューム。
新書というのは‘掲げたテーマを簡潔に読者に語る’というのをそのスタイルとしたのだと思っていたのに…。だからこの本を手に取った時は『何考えてんだ?』と呟いてしまった。
著者の平野啓一郎氏も悪いと思ったのか「第10章にはまず目を通し、肝となる第3章、4章を読んでもらえれば…」と多方面の歴史をひもときながら解説するうちに、参考文献の量が多くなったことを詫びている。
でも、この本の厚さに負けて、第10章だけを読んだ人は、全く面白さがわからなかったことだろうし、その後に肝となる第3章、4章を読んでもやっぱり、平野氏の「カッコいい」に対する熱量は伝わらなかったのではないだろうか。まるで、教科書を読んで、その後にかなり詳しい参考書を読んだくらいの感覚だろう。
私は平野氏のように多趣味ではないので、こんなに多方面から「カッコいい」を見つめることはできない。だから、知らない音楽やファッション、エンタメなどのカタカナをググりながら、彼の連れて行く多方面の「カッコいい」が紹介されている477ページに付き合った。
そして、こんなにもの分量の言葉を積み重ねないと、しっくりと「カッコいい」が伝えられたと感じられなかっのか。という思いにもなった。
それは平野氏の言っている『「カッコいい」は体感で「しびれ」をともなうもの』で、言葉で説明べきるものではないということの証でもあることを語ってもいる。
今日のお昼、DVD で『ボヘミアンラプソディ』を観たのだけど、昔、フレディ・マーキュリーの歌を初めて聴いたときにまさに『しびれ』が体を走ったのを思い出した。
まさに「カッコいい」とはこういうことなんだと、当時一緒にレコードを聴いていた友人に、言葉も無しに伝えられた気がした。
そう、人は少なからずこの「カッコいい」によって人生の幾つかの選択肢を選んできているのだ。
言葉の重量は感じないが、電光石火、人に瞬間にして決意と行動を、もしかしたら転向を促すかもしれないものすごい力を生み出す「雄叫び」だったのだ。
Posted by ブクログ
【一言まとめ(キャッチフレーズ風)】
「カッコいい」は見た目だけじゃない。
私たちの生き方や価値観にまで響く“体感主義”だ。
③【要約(内容の流れ・ポイント)】
本書は、大きく分けて以下の3つのポイントで構成されています。
「カッコいい」という言葉の歴史と意味の広がり
テレビ普及期に生まれた言葉で、外観だけでなく個人の生き方や価値観と結びついてきたことを解説。
「カッコいい」の基準は“しびれる体感”
理屈ではなく、体が震えるような感覚こそが「カッコいい」の本質。ジャンルを超えて多様化し、個人のアイデンティティと結びついている。
外見と内面の関わり、そしてその裏に潜む危うさ
外見と本質は無関係ではなく、国家や権力が「カッコよさ」を利用するリスクもあると指摘。
最終的に「カッコいい」を考えることは、自分の生き方を見つめ直すことにつながる。
④【読んで感じたこと・自分の意見】
読んでいて強く感じたのは、「カッコいい」を探すことは、自分らしく生きるための問いかけだということ。
テレビや広告がつくるイメージに振り回されず、何に「しびれる」のか、自分自身に問い続けたい。
クレージーキャッツの例やデザイナーの比較が示すように、「ギャップ」にこそ人は心を動かされる。
おちゃらけて見えても本質的には高い技術を持っている──そんな姿勢に、私も“カッコよさ”を感じる。
そして、「カッコいい」を考えるとき、外見も内面も切り離せないことにハッとさせられた。
日々の身だしなみや行動は、結局その人の生き方や信念がにじみ出るもの。
この本を読みながら、自分自身がどんな「カッコよさ」を積み重ねていきたいか、改めて考えたくなりました。
Posted by ブクログ
つまるところ、体感、痺れるような体感があることが必要なんだとか。カッコいいとはということを調べてここまで色々なテーマがあることに驚いた。
自分の場合は、自分もやっていること、たとえば野球とかで、とても自分には成し得ないようなことをやってのけるヤツはカッコいいし、世間が何を言おうともブレない奴もカッコいい。それは大谷もそうだけど、自分の場合は王選手であり、そして長渕剛なんだが…
Posted by ブクログ
想像していたより遥かに重厚で濃厚な内容だった。正直一読しただけでは自分の中で理解や解釈が及んでいないところも多い。多面的多角的な考察や検証はすごいんだけど、特にファッションの話とかは背景知識や関心が不足している部分が少なくなく、感覚的な理解が及んでいないという感じ。まぁそれはそれで仕方ないかもしれない。でも総じての主張として、カッコいいって体感主義的ということと理解していて、それって結局自分の中でビビッと来たかどうかで、周りがどう思うかとかどう思われるかとかはあまり関係ない。それって頭ではわかっているんだけどやっぱり特に10代20代のころはそこまで割り切れなくて、常に周りの目や評価評判を気にして生きてきたって部分はあるよね。なんとなく自分の中で一定の基準や価値観が定まってきたり割り切ったりある種の"冷め"によって自分は自分と思えてきたところがあるように思う。でもそれはそれで、かつてのような体感主義的なビビッとくる感覚が減ってしまっているのも事実だろうな。どちらが良いとかって話ではないけど、カッコいいものに関心をもって、それを素直にカッコいいと思える感性を持っていたい、磨いていきたいと思った。
Posted by ブクログ
大学の一般教養1年分ぐらいの量・質とがある新書でした。第10章の要約を読むだけでも十分に価値があると思います。一見サブカル好き人間が飛びつきそうなテーマを、かの平野啓一郎が多方面から徹底的に掘り下げているところも面白かったです。
Posted by ブクログ
自分には少し難しいと感じたものを読み返してみたら、案外スラスラ読めた。それに、それそれ!って思うことばかりが書かれていて、自分が感じていたことを言語化してくれている本だと思った。
Posted by ブクログ
「カッコいい」という現代的な美意識について、美学や社会学などの観点から考察をおこなうとともに、ジャズやロック、ファッション、文学についての著者自身の意見を交えながらの議論がなされています。
著者は、アメリカにおける「クール」の概念やヨーロッパにおける「ダンディ」の概念などをたどり、「カッコいい」という美意識にかんする概念史的な検討をおこない、さらに1960年代以降の日本で「カッコいい」ということばがどのように用いられてきたのかを明らかにしています。そのうえで著者は、「カッコいい」とは民主主義と資本主義のなかではぐくまれてきた美意識であるとしながらも、つねにあたらしい「カッコよさ」を提示することで駆動してきた消費社会のありかたそのものが「ダサい」ものになりつつあるのではないかという現代の問題を提示しています。
また著者は、「カッコいい」という美意識の核心に「戦慄」や「しびれる」といった生理的興奮があることに留意しつつも、そうした生理的な反応と倫理的価値観との接点に生じる問題を指摘しています。こうした著者の議論の方法は、「カッコいい」という美意識に内在的な立場からの分析であるというよりも、カルチュラル・スタディーズのような社会学的な考察に近いといえるように思います。小説家である著者には、そうした分析にページを割くよりも、著者自身の感性にもとづいた議論を手掛けてほしかったと、個人的には感じました。
Posted by ブクログ
文化を本格的に分析する本って、あまり読めていませんでした。
この本はとても面白かった。
丁寧で、論理的で、読み応え、納得感がとてもあります。
「かっこいい」っていう感覚って、常に大切にしたいと思うんですけど、
そのかっこよさって、いったい何なのか。
それを考える基盤を与えてくださったかなと思います。
Posted by ブクログ
筆者は、「かっこいい」を「しびれるような生理的興奮をもたらし、強い所有願望、同化・模倣願望をかりたてるもの」と定義している。この本を読む数ヶ月前、あるロックバントの初ライヴに行って、まさに「しびれる」ような体験をしたばかりだったので、どんどん読み進めた。音楽、ファッション、文学、宗教、政治、経済など、いろいろな視点から分析している。章によっては、多少、文章が冗長に感じられるところもあったが、それ以上に、考えさせられることが多かった。かっこいいを考えることで、自分の生き方、美意識を問い直してみたい人におすすめです。
Posted by ブクログ
タイトル通り「カッコイイとは何か」について考察した本。カッコイイは巷で特に若い人達の間で使われるが、その語源、定義は曖昧で、何をもってカッコイイというのかは、人それぞれである。
著者は古今東西のカッコイイ事例を取り上げ、思想、歴史、芸術、ファッション等様々な観点で考察している。著者の定義によると主に3つの分類がある。
・1 見た目のカッコよさ
・2 一見平凡だが、本質的に優れている。そのギャップがカッコいい
・3 優れた本質が矛盾なく外観に現れ、存在自体がカッコいい
自分もこの分類は間違っていないと思う。自分の周辺にもそれぞれの定義で思い当たる事例があった。人生で出会った友人知人、テレビや映画、小説の登場人物等々、読んでいて「カッコイイ」人物が思い出される。
「カッコイイ」という言葉がこんなに奥深いものだとは知らなかった。テーマの選び方は良いと思う。著者の考察は、過去から現代まで幅広く網羅しているけれど、思想的なところはやや理解しにくい部分もあり、またファッションや音楽等で提示されているカッコイイ事例がマニアック過ぎて、知らないものも多かった。
確かに大変面白かったけれど、新書で500ページは多少間延びした感じがあり、これだけのページを使うほどのテーマなのかなとも思った。
Posted by ブクログ
今日でも私たちは、ルーヴル美術館でドラクロワの≪サルダナパールの死≫の前に立ったり、ブルーノ・マーズがコンサートで≪Just the Way You Are≫を歌い出したり、ワールドカップでメッシがスーパーゴールを決めた瞬間などには、激しく「戦慄」し、「しびれる」ような生理的興奮を味わう。何かスゴいものを目にした時には、「うわっ、鳥肌が立った!」と、その証拠に服の袖を捲って、わざわざ見せてくれる人までいる。
ドラクロワは、美を端的に、「戦慄」をもたらす感動の対象と捉えていた。「戦慄」があれば、つまり、それは美なのだという彼の確信は、それだけ、芸術家としての自らの感受性に自負を抱いていたからだろう。この時代、美に対して崇高という概念は、このような「戦慄」的な体験を指していたが、ドラクロワは飽くまで、美に接した時の輝かしい喜びの根底にある「戦慄」について語っている。
生理的興奮自体は、私たちの身体に基本的条件として備わっている。その上で、その反応と状況を関連づけながら、私たちは何を感じ取ったのかを自覚する。
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、それを「経験する自己」と「物語る自己」と二分して呼んでいる。
鳥肌が立ったのは、なぜだったのか? 美しいという感動だったのか、スゴいという衝撃だったのか、気持ち悪いという嫌悪感だったのか? その意味づけには、ジェームズ=ランゲ説のような一対一の対応関係があるわけではなく、常に環境の解釈次第で、しばしば誤解とも言うべき混乱が生じる。
しかし、美の場合と同様に、個々の「経験する自己」の生理的興奮は、実は、「カッコいい」という言葉に一元管理されるべきものではなく、「物語る自己」は、もっと違った情動と解釈すべきだったのかもしれない。
イギリスのHR/HMの一源流であるブラック・サバスというバンドは、当初は別の名前だったが、デビュー前にホラー映画『ブラック・サバス』(一九六四年、マリオ・バーヴァ監督)を見て、人に恐怖感を与えるロックという斬新なコンセプトを思いついた、という有名な逸話がある。
実際、≪ブラック・サバス≫(一九七〇年)という、バンド名と同名の曲は、暗く虚ろな不協和音と重低音のリフ、サタンに追われる恐怖を綴った歌詞が一体となって、何とも言えない、ゾッとするような雰囲気を醸し出している。
ブラック・サバスは大ブレイクしたが、しかし、なぜ恐い音楽が、「カッコいい」と熱烈に支持されるのかは、合理的には理解し辛いところがある。
この時、「経験する自己」の生理的反応は、一種の不安や恐怖だったのかもしれない。つまり、「吊り橋効果」で、観客を緊張させ、ドキドキさせていたのである。しかし、当の観客は、ライヴが終わったあと、他のキャッチ―な曲やライヴハウスという環境、そもそもロックを聴いているという前提、メンバーのルックス、周囲の熱狂などから、その生理的興奮を「カッコいい」音楽を聴いたからだと解釈し、あるいは彼らのファンになったからだと理解したのかもしれない。
「カッコいい」存在は、これまで見てきた通り、「しびれる」ような興奮をもたらしてくれるが、その生理的反応自体に倫理性はない。「経験する自己」を反省的に、批評的に言語化するのは「物語る自己」だが、その際に、例えばファッションとしてナチスの制服を「カッコいい」と感じた鳥肌を、ナチスそのものを「カッコいい」と感じていると錯誤する可能性は常にある。
ミルトンのサタンは、この後に生まれた“美しき反逆者”像の最も洗練されたものであり、今日でも、小説であれ、漫画であれ、映画であれ、魅力的なアンチヒーローを描きたい人は、『失楽園』を丹念に読むことによって、圧倒的なキャラクターを造形することが可能だろう。
その特徴は、絶対的な権力への反抗、強い自尊心、出自の高貴さ、敗残・淪落の孤独と影、情熱、、要望の美しさ・立派さ、決してあきらめることなく挑戦し続ける不屈の意志、人望、リーダーシップ、比類ない言葉、クールさ、聡明さ、……と、今日的な「カッコいい」の内容としても、その多くが同意されるものである。
「カッコいい」人とは、社会全体で共有されるべき理想像が失われた時代に、個人がそれぞれに見出した模範的存在である。
言い換えるならば、「カッコいい」人を探すというのは、「自分探し」である。誰を「カッコいい」と思うかこそが私たち一人一人の個性となる。
Posted by ブクログ
メルカリでセット販売してて、たまたま手に入れた本(これも偶然性と思って購入)。ずっと積読しているのも忍びないので読んでみた。470ページぐらいの分厚い本で、よく「カッコいい」でここまで書いたものだと感動すら覚える。「カッコいい」という言葉が比較的新しく、その言葉が持つ動員能力や消費刺激力についての考察はとても面白い。一部、ロックや洋服など作者の趣味領域への言及も多いので読みづらいとも感じた。もっと哲学的に論じても面白いテーマ。
Posted by ブクログ
平野啓一郎さんの「カッコいい」を論じた真面目な本なのだが、どうしても薀蓄満載の本になってしまっている感がある。本人は楽しんで書いたと思うし、もちろん、現代においてそれを論じる意味は十分にあると思うが。
Posted by ブクログ
ファッション誌のキャッチコピーみたいなタイトルですが、「かっこいい」という概念について論じた本です。
意外にも、その歴史は浅く、戦後に作られた言葉だそうです。「人はどうあるべきか」という考えが、封建制や全体主義下とは異なり、個人に一定程度委ねられた結果、個人が憧憬の念を抱く対象が多様化し、その中で体感によって得た憧れを表す言葉として「かっこいい」が誕生したと書かれていました。
大切なのは、かっこいい対象を決める「体感」も、社会からの影響を強く受けているということだと思います。戦前の様に統制的に押し付けられるものではないにしても、社会の雰囲気、近しい人達の状況、企業のマーケティング等によって、自身の「かっこいい」が左右されることも珍しくなく、意図しない方向に扇動されることがないように、また自身がどのようは考えを持っているか内省するために、何故それを「かっこいい」と感じたかについて、可能な限り言語化しようとする試みは、常に必要なのだと思いました。
戦後の音楽、ファッション、アートの変遷についても多くの紙面を割いており、(私とは違い、)興味のある人は、その部分も楽しめるのではないでしょうか。
Posted by ブクログ
平野啓一郎さんの本で小説以外は初読。
最後は主観でしかないはずの「カッコいい」についてトコトン考察する本。
最後の方で、クールジャパンといって、国がカッコよさを煽る姿勢自体が「カッコ悪い」とぶった斬る。
ビートルマニアの自分としては、『アトランティック•クロッシング』(大西洋横断)の章が一番おもしろかった。
Posted by ブクログ
感想
人類が持つ共同体の規範を遵守する傾向。それが感情と結びつき生じるカッコいい。法律や不文律の成熟で多様化した価値観。今後も枝分かれ続ける。
Posted by ブクログ
カッコいいとは何か。歴史、世界的な視野、定義、表面的なことと実質的なこと、政治利用に至るまで幅広く網羅して漏れてるものが何もなさそう。
ぎっちり詰まって400ぺーじ強。なかなか濃かった。これで1000円ならすごく安く感じる。
同姓同名かと思ったらある男(小説)の作家さんか!!すごいな!!笑
知識量と分析能力と情報をまとめる力凄まじいな…
Posted by ブクログ
「カッコいい」をその語源、語感、語用の変遷から、類語から掘り下げて考察。クール、男らしさ、ヒップ。しびれる感覚。ここまで、こだわって論が展開されると、どうも著者と対話したくなり、自らの思考がノイズとなる。これは私の悪い癖であるが…。
例えば、「カッコいい」とは、そのタイミングの価値観に基づく妄念。つまり思い込みであり、一年前のデザイナーシャツが時代遅れでカッコ悪くなる事もあり得る。更に、他者から承認を期待した相対的な物であり、絶対的価値観ではない。自覚する自己を引き上げ、投影する自己における理想の姿こそが、自らのカッコ良さであり、言い換えるなら、承認欲求の期待だ。自己がそれを成し得ない場合、他者に投影する理想と、他者の実際の一致を見て、カッコ良さを感じる。パンクスを馬鹿にする少年は、伝説のパンクロッカーを間近に見ても、しびれはしない。体感主義の根源には、必ず自己の価値観がある。
思春期の頃は、デザイナーファッションに憧れたが、今はブランド物でかためたオバさん、オジさんを田舎臭く見てしまうようになった。枯れた、という事ではなく、洗練、あるいは超越したのだと思いたい。
Posted by ブクログ
「カッコいい」の定義付けを、世界的視野と歴史的視野に基づいて紐解く。
「カッコいい」が時代ごとにどう定義され、背景に何があり、その背景の変遷を受けどう変化してきたかという論の進展には迫力があったが、良くも悪しくも気圧される論であるが故に、今の私たちにとっての「カッコいい」に辿り着くまでにややくたびれてしまった感があった。
この文章において、平野氏が「あるまいか。」という結びを多用している印象があり、そのことも私にとってはくたびれてしまう原因となったのではあるまいか。
Posted by ブクログ
SNSでの時事コメントやメディア上での時評では(ろくな文化人の少ないこの世代では例外的に)至極真っ当な平野啓一郎だが、肝心の書くもの(小説・評論)が個人的にはつまらないことが多い。本書も西欧中心主義的な思想系譜認識や、生理的な「体感」を「カッコよさ」受容の本質とするアクロバットな力技に恣意性を感じるが、その博覧強記による「情報量」自体が勉強になるため、読んで面白いことは面白かった。生まれてこの方「カッコよさ」とは無縁で、「カッコいい」「カッコ悪い」という価値判断自体の暴力性に対し、幼児の頃から嫌悪感を持ち続けている者としては、どうあっても「カッコよさ」という概念は肯定できず、(一応言及はされているが)差別や暴力の観点から「強者のイデオロギー」としてより徹底した脱構築を望みたい(「カッコいい」女性が「名誉男性」化している問題など)。
Posted by ブクログ
つまりその、ついていけなかったわけで。古代から現代までに通じるあれこれを平野さんの博識で語る。カッコいいのはシビれる感じなんだって。