あらすじ
本書は、「カッコいい」男、「カッコいい」女になるための具体的な指南書ではない。そうではなく、「カッコいい」という概念は、そもそも何なのかを知ることを目的としている。
「カッコいい」は、民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、動員と消費に巨大な力を発揮してきた。端的に言って、「カッコいい」とは何かがわからなければ、私たちは、20世紀後半の文化現象を理解することが出来ないのである。
誰もが、「カッコいい」とはどういうことなのかを、自明なほどによく知っている。
ところが、複数の人間で、それじゃあ何が、また誰が「カッコいい」のかと議論し出すと、容易には合意に至らず、時にはケンカにさえなってしまう。
一体、「カッコいい」とは、何なのか?
私は子供の頃から、いつ誰に教えられたというわけでもなく、「カッコいい」存在に憧れてきたし、その体験は、私の人格形成に多大な影響を及ぼしている。にも拘らず、このそもそもの問いに真正面から答えてくれる本には、残念ながら、これまで出会ったことがない。
そのことが、「私とは何か?」というアイデンティティを巡る問いに、一つの大きな穴を空けている。
更に、自分の問題として気になるというだけでなく、21世紀を迎えた私たちの社会は、この「カッコいい」という20世紀後半を支配した価値を明確に言語化できておらず、その可能性と問題が見極められていないが故に、一種の混乱と停滞に陥っているように見えるのである。
そんなわけで、私は、一見単純で、わかりきったことのようでありながら、極めて複雑なこの概念のために、本書を執筆することにした。これは、現代という時代を生きる人間を考える上でも、不可避の仕事と思われた。なぜなら、凡そ、「カッコいい」という価値観と無関係に生きている人間は、今日、一人もいないからである。
「カッコいい」について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えることである。
――「はじめに」より
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Posted by ブクログ
いやあ、平野啓一郎の洞察は深いなあ。そして難しいテーマも簡潔に整理されていて、それでいて何度でも読み直したい。まさにクール。この新書自体が「カッコいい」な。印象に残ったのは、カッコいい人は、カッコいい名言を残しているということ。しびれるような経験を言語化することができて初めて物語に内包されて体感されるということ。カッコいいを語るにも知性が必要なんだなあ。
Posted by ブクログ
【一言まとめ(キャッチフレーズ風)】
「カッコいい」は見た目だけじゃない。
私たちの生き方や価値観にまで響く“体感主義”だ。
③【要約(内容の流れ・ポイント)】
本書は、大きく分けて以下の3つのポイントで構成されています。
「カッコいい」という言葉の歴史と意味の広がり
テレビ普及期に生まれた言葉で、外観だけでなく個人の生き方や価値観と結びついてきたことを解説。
「カッコいい」の基準は“しびれる体感”
理屈ではなく、体が震えるような感覚こそが「カッコいい」の本質。ジャンルを超えて多様化し、個人のアイデンティティと結びついている。
外見と内面の関わり、そしてその裏に潜む危うさ
外見と本質は無関係ではなく、国家や権力が「カッコよさ」を利用するリスクもあると指摘。
最終的に「カッコいい」を考えることは、自分の生き方を見つめ直すことにつながる。
④【読んで感じたこと・自分の意見】
読んでいて強く感じたのは、「カッコいい」を探すことは、自分らしく生きるための問いかけだということ。
テレビや広告がつくるイメージに振り回されず、何に「しびれる」のか、自分自身に問い続けたい。
クレージーキャッツの例やデザイナーの比較が示すように、「ギャップ」にこそ人は心を動かされる。
おちゃらけて見えても本質的には高い技術を持っている──そんな姿勢に、私も“カッコよさ”を感じる。
そして、「カッコいい」を考えるとき、外見も内面も切り離せないことにハッとさせられた。
日々の身だしなみや行動は、結局その人の生き方や信念がにじみ出るもの。
この本を読みながら、自分自身がどんな「カッコよさ」を積み重ねていきたいか、改めて考えたくなりました。
Posted by ブクログ
今日でも私たちは、ルーヴル美術館でドラクロワの≪サルダナパールの死≫の前に立ったり、ブルーノ・マーズがコンサートで≪Just the Way You Are≫を歌い出したり、ワールドカップでメッシがスーパーゴールを決めた瞬間などには、激しく「戦慄」し、「しびれる」ような生理的興奮を味わう。何かスゴいものを目にした時には、「うわっ、鳥肌が立った!」と、その証拠に服の袖を捲って、わざわざ見せてくれる人までいる。
ドラクロワは、美を端的に、「戦慄」をもたらす感動の対象と捉えていた。「戦慄」があれば、つまり、それは美なのだという彼の確信は、それだけ、芸術家としての自らの感受性に自負を抱いていたからだろう。この時代、美に対して崇高という概念は、このような「戦慄」的な体験を指していたが、ドラクロワは飽くまで、美に接した時の輝かしい喜びの根底にある「戦慄」について語っている。
生理的興奮自体は、私たちの身体に基本的条件として備わっている。その上で、その反応と状況を関連づけながら、私たちは何を感じ取ったのかを自覚する。
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、それを「経験する自己」と「物語る自己」と二分して呼んでいる。
鳥肌が立ったのは、なぜだったのか? 美しいという感動だったのか、スゴいという衝撃だったのか、気持ち悪いという嫌悪感だったのか? その意味づけには、ジェームズ=ランゲ説のような一対一の対応関係があるわけではなく、常に環境の解釈次第で、しばしば誤解とも言うべき混乱が生じる。
しかし、美の場合と同様に、個々の「経験する自己」の生理的興奮は、実は、「カッコいい」という言葉に一元管理されるべきものではなく、「物語る自己」は、もっと違った情動と解釈すべきだったのかもしれない。
イギリスのHR/HMの一源流であるブラック・サバスというバンドは、当初は別の名前だったが、デビュー前にホラー映画『ブラック・サバス』(一九六四年、マリオ・バーヴァ監督)を見て、人に恐怖感を与えるロックという斬新なコンセプトを思いついた、という有名な逸話がある。
実際、≪ブラック・サバス≫(一九七〇年)という、バンド名と同名の曲は、暗く虚ろな不協和音と重低音のリフ、サタンに追われる恐怖を綴った歌詞が一体となって、何とも言えない、ゾッとするような雰囲気を醸し出している。
ブラック・サバスは大ブレイクしたが、しかし、なぜ恐い音楽が、「カッコいい」と熱烈に支持されるのかは、合理的には理解し辛いところがある。
この時、「経験する自己」の生理的反応は、一種の不安や恐怖だったのかもしれない。つまり、「吊り橋効果」で、観客を緊張させ、ドキドキさせていたのである。しかし、当の観客は、ライヴが終わったあと、他のキャッチ―な曲やライヴハウスという環境、そもそもロックを聴いているという前提、メンバーのルックス、周囲の熱狂などから、その生理的興奮を「カッコいい」音楽を聴いたからだと解釈し、あるいは彼らのファンになったからだと理解したのかもしれない。
「カッコいい」存在は、これまで見てきた通り、「しびれる」ような興奮をもたらしてくれるが、その生理的反応自体に倫理性はない。「経験する自己」を反省的に、批評的に言語化するのは「物語る自己」だが、その際に、例えばファッションとしてナチスの制服を「カッコいい」と感じた鳥肌を、ナチスそのものを「カッコいい」と感じていると錯誤する可能性は常にある。
ミルトンのサタンは、この後に生まれた“美しき反逆者”像の最も洗練されたものであり、今日でも、小説であれ、漫画であれ、映画であれ、魅力的なアンチヒーローを描きたい人は、『失楽園』を丹念に読むことによって、圧倒的なキャラクターを造形することが可能だろう。
その特徴は、絶対的な権力への反抗、強い自尊心、出自の高貴さ、敗残・淪落の孤独と影、情熱、、要望の美しさ・立派さ、決してあきらめることなく挑戦し続ける不屈の意志、人望、リーダーシップ、比類ない言葉、クールさ、聡明さ、……と、今日的な「カッコいい」の内容としても、その多くが同意されるものである。
「カッコいい」人とは、社会全体で共有されるべき理想像が失われた時代に、個人がそれぞれに見出した模範的存在である。
言い換えるならば、「カッコいい」人を探すというのは、「自分探し」である。誰を「カッコいい」と思うかこそが私たち一人一人の個性となる。