Posted by ブクログ
2020年11月02日
ヘニング・マンケルの本を生前一冊も読んでいなかったくせに、昨年読んだ、ノン・ミステリー、ノンシリーズの単独作品『イタリアン・シューズ』の書きっぷりが一発で気に入ってしまって、ついにはまり込んでいる最近である。
訳者の柳沢由美子さんは、アイスランドのやはり小説名手であるアーナルデュル・インドリダ...続きを読むソンの作品のほうで、その名訳に唸らされていたので、マンケル作品でも信頼が置けて、ぼくには心地のよい日本語文章としてすんなり入ってゆけるのだ。北欧ミステリーで目立つ自然描写や季節変化については、やはりこの人の訳が一番空気感を味わえると思う。
さて、刑事ヴァランダー・シリーズは海外ドラマとしてもプライムやWOWOWなどで楽しむことができるので、ぼくはそちらを先に体感してしまった口なのだが、先にシリーズの最終作を先日読んだばかりということで、時間をかけても一作目から順番に読んでゆき、その後にまたドラマを見ることで二重三重の娯しみを期待している。
本作は、シリーズのスタート作として相応しい、非情なまでのバイオレンスと、当時スウェーデンの抱える移民問題と外国人排斥の不穏な動きなどの社会的環境とを見事にクローズアップさせる捜査シチュエーションの中で、例によって主任捜査官としての刑事というだけでなく、ヴァランダーが個人として抱える家族や恋愛の物語をも軸にしつつ、語られてゆく。
万能ではなくむしろ弱さだらけのように見える人間主人公の個としての人生物語と、複数の事件捜査が併行して語られる。込み入って取り散らかされたような、彼の時間をきめ細かに追いつつ、事件にもスピード感を持たせるという語り口が、本シリーズの際立った特徴なのだろう。ヴァランダーの持つ長所も欠点も、どちらも物語に付随する問題として読者は付き合っていかざるを得ないのである。
複雑に関係する二件の事件。その裏側を読み解く愉しみに加えて、ヴァランダーは娘リンダの不安定と、高齢によるアルツハイマーが疑われ始めた父親の環境変化、己の孤独とその対策、等々、読者の側とも共有できそうな多様な問題に解決を与えてゆかねばならない。だからこそ刑事ヴァランダーは人間ヴァランダーなのである。
ページを繰り始めると次々に彼を襲う多忙な出来事に悲鳴をあげたくなるくらい、彼も読者も多忙になる。最終ページを閉じてほっとするこの瞬間の満足度は、いったい何だろう、ヴァランダーと一緒に、すべてを解決してゆこうとする疲労、その対価であるカタルシスが、どうやらこのシリーズには仕込まれているらしい。
まだ一作目。本シリーズを楽しむ時間はこれからまだまだたっぷりある。