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『ストーリーとしての競争戦略』の著者による仕事論・生活エッセイの集大成 スカイマーク機内誌の大好評連載も収録 仕事・生活に、どういう原理原則を確立するか 世の中に、どう折り合いをつけて生きていくか 著者の考えをヒントに、自分オリジナルの価値基準を練り上げていく
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Posted by ブクログ
著者の表現は秀逸。 鉄板の髪の毛ネタから水前寺清子さんへの批判(もちろんジョーク)まで。 ぜひ、読んでほしい一冊。
高峰さんが亡くなったあとに編集された『高峰秀子の反骨』という本があります。これを読んで知ったのですが、1971年、46歳の高峰さんはこんなことをおっしゃっています。自分はあんまりテレビを見ないのだけれども、クイズ番組をしょっちゅうやっているのは知っている。クイズに正解するといろいろな賞品をもらった...続きを読むり、外国旅行に行けたりするらしい。これこそ、あらゆる低俗の中で最もいやしい部類に入る行為なんじゃないか。そういうことはもう、やめたらどうか――。 こういうちょっとしたコメントひとつを取っても、いろいろと考えさせられます。彼女が批判しているのは「劣情」――劣った情動です。いい物が欲しいとか、お金が欲しい、おいしい物を食べたい、みんなに褒められたいといった欲望は、人間である以上だれもが多かれ少なかれ持っている。ここまでであれば人間の本能であって、劣情ではない。 金が欲しければ自分で稼げばいいし、おいしいものが食べたければ自分が稼いだ金で食べればいい。ちやほやされたい人は自分の力でそういう状態を手に入れればいい。要は好みの問題です。ところが、大した理由もないのに手っ取り早く、うまいこと自分の利得を手に入れようとする。こうなるともはや劣情です。 いきなり「お金をください」なんていう人はさすがにいません。卑しいことだからです。それと同じ論理で、僕は「感動をありがとう」という言葉を嫌悪します。感動は果たして「もらうもの」なのか。「もっと感動させてくれ」というのは劣情なんじゃないか。 人間は放っておくと劣情に負けることもある。僕も週に3回ぐらいは劣情に負けているのですが、高峰さんのおかげでそれが「人間として劣った情動である」と自覚できるようになりました。自分の劣情を劣情と知らず躊躇なく全開にしている人を見ると、こうなったら人間おしまいだな――そう思えるようになりました。高峰さんの著作から僕が深い影響を受けてきたことの一例です。 高峰さんは自分の生活様式に非常にこだわる人です。自分の趣味やセンス、スタイルで厳選した、気に入った物しか周りに置かない、身に着けない。服飾自体は表面的なものですが、その人の本質がにじみ出る。そこに高峰さんの生活哲学を学ぶことができます。 彼女の服飾の原則はこうです。人前で目立ってはいけない。おしゃれは飛び出してはいけない。これはかつての本職だった俳優としての仕事哲学とも完全に一致しています。高峰さんはつねに主役でした。しかし高峰さんの考え方はこうです。主役も単なる配役の一つに過ぎない。主役だからと言って自分だけが前に出ると、作品が壊れてしまう。画面から飛び出さずに作品と調和する。それが本物の主役――服飾や趣味にも、この考え方が表れています。表層的な見た目、深層に潜む哲学、すべてに筋が一本通っていて全部が統合されている。そこにシビれます。 高峰さんについて知っていくうちに僕は、彼女が何をしたかではなく、何をしなかったかをよく見るようになりました。彼女が絶対にしなかったことを知れば、生きていく指針としてはほとんど完全なものを手に入れられると思っています。 名著『美について』で美学者の今藤友信は「美の究極は自己犠牲にある」と結論しています。単に言葉や態度で他者に配慮するだけでなく、他者の利益のために自己を犠牲にする行動、これが最も美しい。まったくもってその通り。自分の生活があまり美しくないことを思い知ります。 勇気が人間の基本的な美徳であるのはなぜか。それは勇気が自分の精神的・身体的な安全性――究極には命――を犠牲にする行為だからです。こう考えてみると、勇気と並ぶ人間の美徳として気前の良さがあると言ってもよい。その理由は、気前が良いということがその人にとって(命ほどではないものの)大切な経済的な価値(お金だけでなく労力や時間を含む)を犠牲にする行為だからです。 大学生のころ「クリスマス」というのがイヤでイヤでたまりませんでした。宗教的な儀式なのに、ほとんどの人がキリスト教徒でない日本でなぜ世の中がこうも盛り上がるのか。「バカじゃねえの……」とひとりで怒っていました。 同じく「バレンタインデー」にも「バカじゃねえの……」と一人で怒っていました。僕のようなものには誰もチョコレートをくれなかったわけですが、それはまあイイ。それよりもみんながその意味内容も考えずにチョコをあげたりもらったりしているのがたまらなくイヤでした。もちろん「ホワイトデー」(最近はなくなったのかな?)にも一人で怒りを爆発させていました。 いま振り返ると自分の未熟にイヤになります。クリスマスに心が1ミリも動かされないことは変わりません。相変わらず誰もバレンタインにチョコをくれない(で、その方がイイと思っている)ことも変わらない。単純に「自分の趣味でない」というだけの話です。六本木ヒルズのけやき坂がライトアップでワンワンやっていても、そこで「ステキ! 写真撮らなきゃ」というカップルを目にしても、「あーそういえばその時期か」とだけしま思わなくなりました。 ようするに個々人の好き嫌いが違うだけ。自分の好みと合わないだけのことを「悪いこと」「間違っている」と思い込み、ヘンな考えにとりつかれていました。若い頃の僕は自分という存在が大きすぎた。世界の中心で自分が叫ぶ。ジッサイは中心でも何でもないのに、あのとき君は若かった。 今となっては、世のことごとの90%は好き嫌いの問題と思えるようになりました。良し悪し基準で論じるのは間尺に合わない。趣味が違うだけ。他者の好みや考えが違っても、自分にとってはどうでもイイ。かかわらない。つながらない。コメントするな「スキですな」の一言。気持ちよく放置。ビバ! 多様性。 裏を返せば、この世の中で自分にとって本当に重要なことはそう多くはありません。みなさまにおかれましては、それぞれの生活の実質を大事に、平穏な日々をお過ごしください。 この10年ほどでよく使われるようになったフレーズに「イラッとする」がある。いまの時代を悪い意味で象徴する言葉だ。何を象徴しているかというと「大人の幼児化」。偏見かもしれないが、「イラッとする」という言葉には底抜けの幼児性を感じる。和田英は当時16歳。いまの基準ではタダの「子供」だが、現代のその辺の大人よりもはるかに大人だった。決してイラッとしない。 幼児性の中身には以下の3つがある。1つ目は世の中に対する基本的な認識というか構えの問題だ。子どもは身の回りのことごとがすべて自分の思い通りになるものだという前提で生きている。物事は自分の思い通りになるべきであって、思い通りにならないことは「間違っている」。これが子どもの世界認識だ。 繰り返すが、仕事においては「世の中は自分の思い通りにならない」という前提が大切だと心得ている。これだけ多くの人間が、それぞれ違う好みとか目的をもって、利害関係のあるなかで生きている。そういう世の中で自分の思い通りになることなど、ほとんどない。そういう前提で生きていれば、思い通りにならなくてもいちいちイラッとすることもない。 本来は独立した個人の「好き嫌い」の問題を手前勝手に「良し悪し」にすり替えてワアワア言う。これが幼児性の2つ目だ。誰かが「オレは天丼が好きだ」と言うのをカツ丼好きが聞いたとしても、あまりイラッとしない。イラッとするのは、「カツ丼のほうが正しい」と思っているヘンな人だけだ。本当は「好き嫌い」にすぎないことを勝手に良し悪しの問題に翻訳する。だから妙な批判をしたり意見を言いたくなったりする。 悪い意味での「意識高い系」にもそうした手合いが多い。口では「多様性が大切!」とか言いながら、自分とちょっと考えが合わない人に対してすぐにイラッとする。世の中は文字通り多種多様な考え方の人々が集まって構成されているのに、そこに考えが及ばない。この種の人は意識は高いかもしれないが、アタマが悪い。「意識の高い(大人の)子ども」ほど厄介なものはない。 第3に、大人の子どもは他人のことに関心を持ちすぎる。なぜそうなるかといえば、本当にその人に関心があるというよりも、自分のなかに何かの不満や不足感があって、その埋め合わせという面が大きいのではないかと思う。自分の仕事や生活に鬱憤や鬱屈がある人は他人の欠点や問題、もっといえば「不幸」を見て刹那的な心の安らぎを得るところがある。ようするに、「他人の不幸は蜜の味」、ここに幼児性の最たるものがある。 「出る杭は打たれる」。世の中、そういうこともある。これはこれでうすらさびしい言葉だが、それ以上にイヤなのが「出すぎた杭は打たれない」というフレーズだ。「うまいこと」を言っているつもりなのだが、ますますセコい話に聞こえる。この比喩から浮かび上がる光景をイメージしてほしい。杭が横一線にずらずらと並んでいる。色も形もすべて同じ。マットな暗い茶色の杭が黙って並んでいる。多少引っ込んでいようが出ていようが出すぎていようが、傍から見れば一介の杭であることには変わりない。出すぎたら打たれないかもしれないが、「それでも杭は杭」だ。 出るとか出すぎるというのは、つまるところ周囲と比較しての差分を問題にしている。ある物差しをあてて、その上での人の能力なり成果を認識する。平均値や周囲の誰かとの差をもって優劣を競う。こういうアプローチを取っている限り、ロクな仕事はできない。ひどいのになると、「俺は『出すぎた杭』だからさ……」とか言って悦に入っているバカがいる。こういうのに本当に仕事ができる人がいた試しがない。 人と比較してばかりの人は嫉妬――おそらくもっとも醜く、非生産的で、意味のない人間感情――にさいなまれる。「イラッとする」のも、つまるところ嫉妬であることが少なくない。 嫉妬が生まれる条件は「比較可能性」にある。自分の知らない国で生活しているような外国人や歴史上の偉大な人物など、時空間で遠く離れた人には嫉妬しない。シーザーや始皇帝や織田信長や聖徳太子に嫉妬して歯軋りしているような人はまずいない。そもそも自分との比較の対象になりえないからだ。 面白いことに、嫉妬に駆られている人は対象となる人物の良いところ、恵まれているところしか見ていない。一見大変な魅力と能力で成功しているように見える人でも。その人の仕事や生活の総体――それは外から見ているだけで決してわからない――を知れば、わりと不運や不幸に苦しんでいるものだ。しかし、彼らに嫉妬する人にはそういう負の面は見えない。ま、なかには何の苦労も矛盾もない人もいるだろうが、それはこの際おいておく。 いずれにせよ、人はそれぞれ自分の価値基準で生きている。人は人、自分は自分、ほとんどの場合、比較には意味がない。自分と反対の考えの人がいてもイラッとせず、「そういう人もいるのか。世の中は面白いねえ……」と受け止めたい。 仕事ができる人ほど、出来合いの物差しで他人と自分を比較しない。人と比べてあれができる、これができると言っているうちはまだまだだ。本当にすごい人は他人との差分で威張らない。余人をもって代えがたい。ここまでいってはじめて本当のプロといえる。 ただし、全方位的にスゴイ人などこの世の中に存在しない。「この人には敵わない……」と思わせる人でも、ある分野において余人をもって代えがたいのであって、すべてについてスゴイわけではない。「全面的に余人をもって代えがたい」となると、もはや超人だ。レオナルド・ダ・ヴィンチぐらいだろう。 ある分野で圧倒的な能力を持つ人でも、別の分野になると意外なほど抜けているというのが面白い。あることは得意中の得意なのに、別のことになるとからっきしダメになる。 考えてみればこれは当たり前の話。ようするに強みと弱みはコインの両面なのである。何かについて不得手であるということが、そのまま別の何かについて得手である理由になっている。ここが人間のコクのあるところだ。「弱みを克服して、強みを伸ばす」というのは虫が良すぎる。その人の最大の強みは最大の弱みと隣り合わせになって初めて存在する。両者は切っても切れない関係で結びついている。下手に弱みを克服しようとすると、せっかくの強みまで矯めてしまうことになりかねない。 「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)というのは名言に違いないが、裏を返せば「みんなちがって、みんなダメ」。余人をもって代えがたいほどスゴイ人ほど、自分のダメなところ、弱いところを自覚している。自分の強みはあくまでも条件付きの強みであり、全面的に優れているわけでは決してないことをよくわきまえている。だから他者にも威張らない。自分を抑制して威張らないのではない。そもそも威張る理由がない、威張る気にならないのである。 自分一人ですべてに秀でる必要はない。世の中にはいろいろな得手不得手の人がいる。そうした人々の相互補完的な関係が仕事を成り立たせている。それが社会の良いところだ。他人を気にせず、自分と比べず、いいときも悪いときも自らの仕事と生活にきちんと向き合う。それが大人というものだ。 スキルを向上させ、自分の仕事能力の価値を高めていく。いうまでもなく大切なことです。ところが、です。現実に仕事ができる人は依然として少ない。試みに周囲を見回してください。「ああ、この人は確かに仕事ができるなあ」と思わせる人はそれほど多くないと思います。いかにもスキルがあるにもかかわらず、仕事ができない人がいます。 「仕事ができる」とはどういうことか。あっさりいえば「頼りになる」ということです。「安心して任せられる」「この人なら何とかしてくれる」、もっといえば「この人じゃないとだめだ」、そう思わせる人が本当の意味で仕事ができる人です。 この意味での仕事能力は、「あれができる・これができる」というスキルを超えています。それを総称して、僕は「センス」と呼んでいます。外国語を駆使しても、肝心の仕事の場で外国人相手に意思の疎通ができない人がいます。さまざまなフレームワークに精通しているのに、戦略を描けない人がいます。ロジカルシンキングとプレゼンテーションのスキルがあるにもかかわらず、話がものすごくつまらない人がいます。こういう人は「作業」は得意でも「仕事」ができない。スキルはあってもセンスがないのです。 「あれができる、これができる」と言っているうちはまだまだです。代わりになる人はいっぱいいる。極論すればマイナスがないだけ。ゼロからプラスをつくっているかどうかはその人のセンスに強くかかっています。 なぜスキルの先にあるものが大切なのか。その最大の理由は、仕事生活がわりと長く続くということにあります。スキル一本槍でも、途中まではわりと順調に行ける。しかしある時に厚い壁にぶち当たります。当人は「スキルで突破できる」と思っていても、いつかどこかで「あれ? おかしいなぁ、こんなに頑張っているのに……」ということになります。 スキルがあるというだけで買われる状況は、人が足りないときに限られます。そのジャンルの人が足りないという状態ではスキルがものをいう。昨今のプログラミングのように「旬のスキル」というのはいつの時代にもあります。多くの人が旬のスキルに目を向ける。ところが、人間はすぐには死にません。仕事は長い間続いていく。いずれはその分野のスキルを持つ人は増えていきます。平均点に高い評価を与える人はいません。 「ポータブルなスキルを持て」と言うけれど、その分野にはまらないとスキルは使えません。汎用性があるのはむしろセンスの方です。職位や職務領域を超えて、しかもどんな局面でも四六時中使える。リアルの営業でセンスがある人は、オンラインの営業でもだいたい上手くいく。相手が本当のところ何を欲しがっているのかを見抜く力がその人の営業力の中核にあるとしたら、そのセンスは人事の仕事にも活かせるはずです。センスは長い仕事生活を通じた拠り所になります。 スキルであればそれを開発する定型的な方法、すなわり「教科書」があります。リスキリングというと大変なことのように聞こえますが、やるべきことは決まっています。定評のある優れた方法を選び、継続的に努力を投入すれば、かならずスキルは向上します。やればいいだけ――こんなにうまい話はありません。 センスには標準的な教科書はありません。それでも生得的な能力ではありません。センスは自らが経験を重ねる中で錬成するものです。他者が「育てる」ものではなく、当事者があるセンスある人に「育つ」しかありません。 だとしたら何ができるのか。その第一歩は、身の回りにいる「センスがある人」を一人選び、その人をよく見るということです。「センスの良さ」は一言では言語化できません。それでも、センスがある人とない人の違いは容易に見分けがつきます。ある局面や状況で、なぜその人はそうしたのか。なぜこうしなかったのか。漫然と見るのではなく、考えながら見る。この作業を続けていくうちに、センスの輪郭がだんだんと見えてきます。 スキルが特定の物差しの上での量の多寡の問題(例えば「私はTOEIC900点です」)であるのに対して、センスは千差万別です。センスがある人(と同時にセンスがない人)の行動を注視し、ひとつひとつの文脈で「センスの良さ」を読み解き、掴み取っていく。見て、見続けて、見破る――センスを磨くためにはこうした帰納的方法しかあり得ません。 だからこそ「仕事ができる人」はいつも稀少な存在なのです。 「コンセプト」とは、われわれが興味をもっている対象とか現象とか物事の本質を凝縮した形でえぐり出した言葉のことだ。概念的認知能力は「問題の全体像を理解して、そこから本質的な問題を導き出す力」を指している。技術的能力があらかじめ設定されている特定の問題を解決する力であるとすれば、概念的能力は解くべき問題を発見して設定する力だ。コンセプトは組織や個人をつき動かす方向性とかパワーの大もとになる。 もう少し具体的な例でいうと、今ここに経営不振に陥っている会社がある。その理由はさまざまで、いろいろな問題がぐちゃぐちゃと入り組んだ形で山積している。「何が問題なのかが問題だ」という状況だ。こういうときに、「われわれの進むべき道はこれだ!」という方向を明確に打ち出すということ、そして「なるほど、そうだよね」とみんながうなずいて元気が出てくること、「おーし、それでいくか」と周囲の人々がつき動かされているということ、それがコンセプトづくりであり、そこで必要となる力が概念的能力である。 概念的能力を使って問題が立った後に、それをさまざまな部分で解決していくのが技術的能力の担当となる。社会の中にいる以上人間の活動は個人で完結するということはないので、そこでは技術的能力だけではなく対人関係能力も重要になる。 もう一つの重要なポイントは、人に知的能力があるという場合、3つの能力は漠然と並置ないしは選択できるようなものではなくて、階層をなしているということだ。つまり、①技能が最下層にあり、その上に②対人関係能力が乗っかっていて、一番上に③概念的能力がある。特定の領域での技術的能力があってはじめて対人関係能力を獲得できるのであり、その上にしか概念的能力は育たない。 概念的能力は確かに一番重要で上等なのだけれども、何もないところに概念的能力をつけようと思ってもそれは甘い考えだ。技能、対人関係能力という積み重ねの上にはじめて概念的能力が生まれる。 だから「自分には何もないけれども構想力だけは自信がある」という人がいたら、あまり信用しない方がいい。「僕は何ができるわけではありませんがだれとでもうまくやっていけます」という人、こういう人はたしかに「いい人」かもしれないがしょせんそれだけで、「知的」能力はゼロだ。 繰り返すが、ここでいう知力としての対人関係能力がある人というのは「ただのいい人」では決してない。「いい人なんだけどなあ、でもちょっとね」という人は、技術的能力の裏付けのない「人間力もどき」の人であることが多い。 「自分はこれしかできない。人とのやり取りも下手だし、大きなコンセプトもない」という人は一見狭量で暗そうだが、こういう人の方がまだ健全で筋がよい。なぜなら、この人は技能を備えた人であり、それに立脚して上位のスキルを開発していく可能性を秘めているからだ。 大学での勉強の目的は概念的能力の育成にある。これは大学での勉強に限らず、およそあらゆる知的研鑽は概念的能力の獲得を目めざしているといえる。つまり、大学での勉強は、まず技術的能力のトレーニングからはじめて、だんだんと階層を上っていき、最終的に概念的能力の獲得に至るという流れをたどるわけだ。この順番をしっかりとアタマに入れてほしい。 人手不足は、労働市場を通じて、企業の経営に規律を課します。きちんとした労働環境や報酬を与えられない企業には、人が来なくなる。この規律が経営の質を高めていく。規律がゆるむことにより、すべてがぶち壊しになる。安い労働力を使いながら、「給料は払えないですが、人手不足なんです」と言っている企業は、そもそも経営が間違っている。 本来であれば存在価値のない企業が、安い労働力を手当てすることによって延命している。これがゾンビ企業の退出を抑制し、人的資源が必要なセクターへの人の移動を阻む。要するに、経済活動の新陳代謝を妨げます。 経済活動の本筋からすれば、人手不足倒産ほど健全な話はありません。賃上げは喫緊の問題です。人手不足が賃上げドライバーとなるのは言うまでもありません。労働市場の需給がタイトな昨今にあって、まともな賃金や労働条件を提供できない会社は働き手を集め、維持することができません。そうした会社が市場から消えていくのは当然の話です。 技術への投資や活用もまた阻害されます。本来、人手不足や賃金の上昇は、技術への投資を促進するはずです。コンビニでいえば、安い賃金で移民を雇い働かせるよりも、レジの自動化や、全く新しい決済の仕組みなどに投資をしていくべきところです。そういった技術への投資・応用を怠り、なんとか安い労働力で延命しよう――時代遅れの石器時代が続いてしまいます。 石器時代は、石がなくなったから終わったのではありません。青銅器など、それに代わるもっといい方法を発見し、そこに移行していったからこそ終わったのです。石がなくなるまで石器時代を続けるのは愚の骨頂です。 人間は必ず目先の楽な方向に流れる。だからこそ規律が必要です。就職氷河期の時代は、人は余っていた。どこでもいいから、仕事が欲しいという人が多かった。これが、経営を甘やかした。本来、この人手不足は日本の経営の体質を改善する千載一遇のチャンスのはずです。
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