Posted by ブクログ
2020年06月29日
山本文緒さんの作品は初。
以前、知人が山本文緒さんに対して「『鈍痛』を描くのが上手い」と表現していたのを思い出した。
これまで多くの作家さんに触れてきたと思う、我ながら。まだ触れてこなかった作家さんに、これほどしっくりくる作家さんがいらっしゃるとは。だから読書ってやめられない。とても、夢中になって読...続きを読むんだ。
「仕事」をめぐる5人の女性の短編集。直木賞受賞作品。
(プラナリア)働くことが面倒になった、闘病中で無職の20代女性。
(ネイキッド)バリバリ働いていた過去がありつつも、離婚を経て無職になった30代女性。
(どこかではないここ)ローンのために必死に働く40代の女性。
(囚われ人のジレンマ)学生である彼氏との結婚に悩む20代女性。
(あいあるあした)30代バツイチ男性の目線で描かれる、他人のところを渡り歩く無職20代女性。
20代、30代と歳を重ねていき、人と関わっていると、いろんな人がいるなと思う。もっと正確に言うと、相手の発言に意図を感じてしまったり、逆に全くそこに悪意がないからこそ、ものすごく傷ついたりする。山本文緒さんは、それを具体的に表現するのがとてもうまい作家さんだと思った。「鈍痛」というのは、すごく的を得た表現だった。これなんて特にそうだ。
P50(プラナリア)「『恋人じゃないけど、旦那様はいるわよ』 やっぱり既婚者だったのか、と私は少ししらけた気持ちになった。でも、ここでしらけるのはひがみ根性だよなと私は反省する。」
この『恋人じゃないけど、旦那様はいるわよ』発言の直後の「やっぱり既婚者だったのか」という、一瞬襲い掛かってくる不本意、これこそが「鈍痛」ではないか。ひがみ根性であると反省する前の、誰にも邪魔されていない、生の感情。漠然とした期待。
あるよ、こういう瞬間。この人には他に拠り所があるんだ、わたしはないのに…そんな気持ちになって、そんな自分にうんざりする。特に悪意も善意もないただの事実である発言。それなのに、そこに勝手に意図を感じてしまう。ただの事実と、裏切りが心を支配する。
P30(プラナリア)「生きていること自体が面倒くさかったが、自分で死ぬのも面倒くさかった。だったら、もう病院なんか行かずにがん再発で死ねばいじゃないかなとも思うが、正直言ってそれが一番怖かった。矛盾している。私は矛盾している自分に疲れ果てた。」
という部分を読んでいた時、わたしは猛烈に生きているのが面倒だった。それは仕事のストレスが酷かったからか、生理前だったからか、実は「生きるのって面倒」がわたしの根底にあって、それをこの作品によって引き出されてしまったのか、それは分からない。プラナリアの次に収録されていたネイキッドにもつながる。
P74(ネイキッド)「十代の頃からの、がむしゃらに前へ前へと、上へ上へと進みたかった気持ちは嘘ではなかった。私は勝ちたかった。ただやみくもに勝ちたかった。でもそれは何にだったのだろう。負けず嫌いだったかつての私は、今は疲れて眠っているだけなのか、それとも最初から無理をしていただけで、この怠惰な自分が本来の自分なのか、それすらも考えるのが面倒だった。」
わたしは仕事を通して「生きる」を定義づけること、「見えない何か」と戦うこと、そんな風にバリバリ働くことに疲れてしまった。そのくせ、誰かの扶養に入る生き方はしたくない。だとするとそれなりに働かないといけない。でもそれはやっぱり疲れる。では、どうしたらいいのだ。そう、このシーソーを動かすことにエネルギーを使うのだ。全く疲れる。
なぜ働いているかと聞かれれば、それは生活のために他ならない。
けれど、その「生活を送る」=「生きること」が面倒になると、非常にやっかいだ。働くことの意味を見失うからだ。けれど「自分で死ぬのも面倒くさ」いし、誰かに迷惑をかけるから、結局は生きることになる。だとしたら楽しい方がずっといい。やっぱり生きるためにはお金が必要で、どうせなら仕事に幸せを見出したい。そう思うことで気持ちを立て直す。
作中に出てきた小学生が、夏休み明けに学校へ行くことに対して「楽しいもん。友達に会えるし」と、あっさり言う。わたしは主人公と同様「なんで学校なんか行かなくちゃいけないんだ」と思っていたタイプだから、そんな風に自然に「楽しいから生きてるけど何か?」とあっさり言ってみたいと思った。生きていく上で、死について考えることのない、生きていることに疑問を持たないその無垢な心。素直に羨ましいと思った。
自粛生活に入って、わたしはその、安心と自由で満たされた生活に、心地よさを覚えた。
P71(ネイキッド)「意外にもそこは暇という名のぬるま湯で満ちていた。そこに横たわっているのは想像以上に楽で、しかも私にはそこから浮上しようという動機や目的が見つけられなかった。」
まさしく。しかし、自粛生活も終わりだ。再び満員電車にゆられて仕事に行かなければならない日々は、わたしに疲労と傷つきをもたらす。その疲労と傷つきは、わたしから前を向くエネルギーを奪い去り、生きるのを面倒にする。でもそれって、もともとあるエネルギーが奪われて、生きるのが面倒になってるってことだ。と、いうことはだ。きっと、わたしの根底にあるのは「前を向く」、つまりは「生きたい」なんだろう。そしてそのためには、それなりに働くしかないんだろう。時々面倒になる、「生きる」のために。