Posted by ブクログ
2022年03月31日
2001年刊。『柔らかな頬』の2年後で、『グロテスク』の2年前。桐野さんのキャリアの中では比較的初期の作か。
桐野さんの近年の作品の文体はずいぶんと薄っぺらく人物の風貌や情景はさほど書き込まないまま、スピーディーにプロットを追うようなものが多いようだが、『OUT』(1998)辺りでかなりきめ細や...続きを読むかな文章力を発揮していた。
本作もそれに近く、特に冒頭は何やら文学的な雰囲気が漂っている。しかし、そんな文章を噛みしめつつ読み進めると、突如強烈な、ショッキングな出来事が起きてビリビリと来た。第1章の主人公有子は上海の学生寮に住む留学生なのだが、同じ留学生の女性が、その寮で数人の日本人男子留学生(社会人が多い)と一緒に酒を飲んでいたところ、いきなりレイプ未遂?されたというのだ。
否応なく襲いかかる激甚な苦痛。これがきりの文学だ、とうなってしまった。
実はこの事件の真相は各人の証言が相反し、どうもはっきりしないまま闇に包まれてしまうのだが、とりあえずここでは、異国における日本人の男どもの卑屈な性欲の無様さがむき出しとなり、日本社会そのままのおぞましい男-女間の非対称的な構造が明るみに出される。
本書は各章ごとに主人公が変わるのだが、現代の留学生有子を主人公とする章は2つあり、そこでは日本社会のジェンダー問題がどうしても出てくる。しかし本作自体は社会問題としてのそれがテーマであるわけではなく、複合的な恋愛小説となっており、社会的ジェンダー問題は男女間の日本的な軋轢の一つとして要素の一角を占めるに過ぎない。
現代に生きる30歳くらいの男女の恋愛と、70年前の男女の恋愛との諸相がさまざまにかき分けられており、男女を問わず人物の心理の襞がとても繊細に捉えられていて、これはとても優れた心理小説となっているのだ。他の桐野作品では、男性は戯画化されていて野放図に幻想的な欲望主体として描かれることが多いが、本作で代わりばんこに主人公となる男性陣はリアルで、適切にその心が描かれていると思う。
有子のストーリーは、奇妙に「複雑な女」とされるこの女性が、やがて「自分を壊し」、娼婦のような存在となるという展開を見せる。この、「女性が娼婦となることで解放される」というテーマは桐野夏生さんは『グロテスク』などでも主要なテーマとして展開しているが、この衝撃的な主題は私にはすぐさま呑み込めるものはなく、とりあえずはその衝撃を味わっているほかない。たとえば吉行淳之介の小説では、逆に娼婦はいまいるこの娼婦街から脱出することを夢見ているばかり。むしろこちらの方が常識的な把握ではある。しかし時代も違うし、今や娼婦とは何なのか、私から遠いその世界はぼんやりと想像することしか出来ない。
男女関係の多様な展開を描き、それぞれのプロセスに立ち現れる深い痛苦を刻んでゆくこの小説は、私はなかなか優れたものと評価する。とてもエンタメ小説などという枠の中に閉じ込めて済ませてしまえば良いなどとは思えない。もったいない作品だ。もっとも、多くの読者にとっては、結末のねじくれて終わるような印象や、娼婦となって「解放された」有子のその後が気になってしまう終わり方が、いささかスッキリしないかもしれない。それはエンタメの鉄則からは遠く離れた文学的な到達点なのではないかと、私は解釈するのだが。