ヒトラーの反ユダヤ主義は、当初は「異質な人種」としてのユダヤ人から「公民権」を奪い、最終的にはドイツから追放すべきであるというレベルだった。
ナチ党の世界観の本質的な構成要素をなす反ユダヤ主義については、『わが闘争』で、この「ウィーンでの修業と苦難の時代」においてみずからが「いままで内心で経験した最も大きな旋回」経験であったとして、新約聖書のパウロの「ダマスカス回心」にまでなぞらえており、「私は弱よわしい世界市民から熱狂的な反セム主義者になった」と印象的に跡付けている。
ヒトラーは、ドイツ民族にとって生物学的に劣った、危険な「人種」であると見なし、ユダヤ人を「寄生虫」や「疫病」に例え、ドイツ民族共同体の健全性を脅かす癌のような存在だとした。ヒトラーは、「私が本当に権力の座についたなら、私の最初にして最重要の任務はユダヤ人の絶滅となるだろう」と言っていた。
ナチス・ドイツの反ユダヤ主義は、当初の「公民権の剥奪と追放」から「組織的な大量絶滅(ホロコースト)」へと、段階的かつ決定的な変化を遂げた。 この転換の契機と変化は、主に第二次世界大戦の勃発とその後の独ソ戦の進展によってもたらされた。
隔離と追放(1933年~1940年)
ナチス政権初期の目標は、ユダヤ人をドイツ社会から排除・隔離し、最終的に国外へ強制移住させることであった。 1933年にはユダヤ人の公職追放が行われ、1935年にはニュルンベルク法が制定された。これにより、「ドイツの血と名誉を守る」名目の下、ユダヤ人の公民権が剥奪され、ドイツ人との結婚や性交渉が禁止された。
1938年の「水晶の夜(Kristallnacht)」は、ナチスが扇動した大規模なユダヤ人襲撃事件である。多くのシナゴーグや商店が破壊され、ユダヤ人に対する殺害や逮捕が行われ、以後、ユダヤ人に対する暴力が常態化した。
1939年の第二次世界大戦勃発とともに、ポーランド侵攻によりユダヤ人は都市内のゲットー(隔離居住区)へ閉じ込める政策が開始された。
ユダヤ人政策が「追放」から「絶滅」へと転換した最大の理由は、戦争による広大な領土と多数のユダヤ人支配の実現、および戦況の悪化にあった。
1. 独ソ戦と「移動殺人部隊」の活動(1941年6月〜)
1941年6月、ドイツはソ連に侵攻(独ソ戦開始)した。この結果、ナチスの支配下にあるユダヤ人の数は一気に数百万人規模に増加した。追放や隔離だけでは対応できない大量のユダヤ人に対処するため、SS(ナチス親衛隊)の特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は占領地で集団銃殺を行い、大量殺戮を開始した。これは、ユダヤ人の組織的絶滅の前段階となった。
2. ヨーロッパからのユダヤ人強制移送の限界
当初、ナチスはユダヤ人を遠隔地(例えばマダガスカル島)へ移送する計画を立てていたが、戦時下の制海権の制約や膨大なコストにより、計画は非現実的であることが判明した。 また、隔離したゲットーも過密化し、飢餓や病気の蔓延により非効率となった。こうした状況下で、ナチスはこの「ユダヤ人問題」を根本的に解決する必要性を強く認識し始めた。
3. ヴァンゼー会議での決定(1942年1月)
この状況の中で決定的な転換点が訪れる。1942年1月、ナチス高官たちはベルリン郊外のヴァンゼーで秘密会議を開催した。この会議において、ヨーロッパ全土のユダヤ人に対し、組織的・計画的に「最終的解決」を実行することが決定された。
「最終的解決」とは、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送し、ガス室等を用いて大規模な殺害を行うジェノサイド(大量虐殺)を意味する。これにより、ユダヤ人の隔離・追放政策は、国家の総力を挙げた産業的な「絶滅」へと完全に切り替わった。
この転換は、単なるユダヤ人への憎悪だけでなく、「人種的に劣った者を根絶することでドイツ民族の繁栄を達成する」というナチスのイデオロギーと、戦時下の資源およびロジスティクスの論理が結びついた結果である。
最初は、ユダヤ人の公民権の剥奪、追放、そして暴力的な虐殺、隔離、そして収容所、ガス室での大量虐殺と発展していった。ホロコーストが突発的な狂気ではなく、ナチス体制下での段階的な政策決定と、戦争の論理によって導かれた結果だった。