プラトン『国家』よりもこちらをおすすめしたい。ちょっと目線が高くなる最高の作品です。
ショートサマリ
弁論術の是非の議論を通して、「より善い生とは何か」を問うた作品。
ソクラテスの対話相手は、快楽を基準に生きること、そして権力を行使して人々を支配し、災厄から免れることが理想的な生だと主張した。
これに対してソクラテスは、快楽や力を追い求める人生は、魂を不秩序に陥らせるという観点で、醜い上に悪く、際限がないと否定した。
特に、不正に手を染めることは、魂を貶める最大の悪であるとした。
代わりに、人は、節制や勇気などの徳を発揮して、より善く生きることを目指すべきだと説く。たとえその結果として、他人から言われのない非難や攻撃を受けたとしても、善く生きることは魂をよりすぐれた、立派なものにすると結論づける。
概要
ソクラテスは、当時アテネを席巻していた弁論術へ疑問を呈し、弁論家として名高いゴルギアスと対話を始める。ゴルギアスは、弁論は説得を作り出す技術であると定義し、最善のものであると主張した。これに対してソクラテスは、弁論術は正不正に関わらず、人々を説得させる点を批判した。弁論術は、人々が真理を見極めることには寄与せず、ただ快楽を作り出すことが優先していると批判した。
(のちに、弁論術のような快楽重視の行為を「追従」と呼んだ。他にも、料理術や美容、ソフィストがこれにあたる。対になるのは、体育術や医術、立法術、司法術だ。)
このように、弁論術の倫理や真理探究の機能が欠如していることを理由に、醜く害悪なものであるとゴルギアスに認めさせた。
次にポロスは、弁論術は真理探究に関わらなくとも、人々を支配する力があり、それ自体に価値があると、ソクラテスに反論した。ソクラテスは、人間は目的達成を望むのであって、力を持つことは目標を達成するための手段に過ぎないと主張する。そのため、手段である力の価値は、取得したときに自動的に発生するのではなく、目的達成への寄与という観点で、発生の有無を見極められるべきだとした。
反論されたポロスは負けじと、力を持つことの有用性を説いた。それは、世の不正から免れることができるという点だ。しかしこれに対しても、ソクラテスは、不正をする方が不正をされるよりも哀れだと主張した。それは、不正をするほうが、醜く、悪いからである。また、不正に手を染め、罰せられなかった人は、魂をよりすぐれたものにする機会を逸しているのでさらに哀れであると主張した。ソクラテスは、何人も不正から身を守ることはできないが、だからといって不正に手を染めて魂を貶めるよりは、不正をしないで清く生きることを強く推奨した。ついには、ポロスも反論ができなくなる。
最後に、カリクレスがソクラテスの前に現れ、国を統治できる能力のある優れた人が、弱いものを支配し、自分の快楽の縦にすることは、自然の摂理に則っているので正しいと主張した。このようなことを不正として卑俗と見做すのは、弱者が作り出した慣習であり、従う必要はないという。優れた人々は、正義や節制といった古い慣習から常に自由であり、快楽を基準に生きるという。
ソクラテスは、快楽重視の生に疑問を投げかける。まず、快楽は際限がないことを指摘する。快楽を求める人生は、それはまるで穴の空いた樽に水をいれるようなものだ。しかし、カリクレスは、反対の人生は、そもそも快楽が少なく、虚しいものだと承知しない。次にソクラテスは、快楽を基準に人を測ると、思慮のある人とない人の分別がつかなくなると主張した。それは、両者とも喜び、苦しむという点では共通しており、快楽という観点では両者とも同じ水準であるという結論が導出されるからだ。カリクレスはこれに対して、快楽の中にも、善い快楽と悪い快楽があることを認めた。カリクレスは当初快楽こそ至高の目的としていたが、この議論によって善は快楽に勝ることを暗に認めてしまったのだ。
以上のようにソクラテスは、弁論術の是非の議論を発展させて、権力や安全、快楽を重視する生に疑問を投げかけた。そして、人の生きる目的は善にあると説いた。善く生きるには、節度を守って、友愛や勇気を持つ必要があると説いた。
感想
襟元を正されるような作品だと思った。これからも自分の生き方に迷ったときは、読み返すであろうバイブルだ。
本書の最大のよさは、極めて純度が高い普遍的でいて卑近な哲学を真正面に説いている所だと思う。
穿った視点もなければ、小難しい議論もない。まどろっこしい弁解や注もない。
ただただ真っ直ぐに、真摯に、道徳や倫理を説いている。全く逃げていないのだ。
何と比較しているかというと、近現代の哲学である。近現代の哲学は過去の蓄積をふまえて、批判に批判を重ね、議論を細分化した結果、小難しく、専門化された、穿った思想へと変質してしまっているきらいがある。
勿論、人間は知識を伝承して、それを元に発展させることで、歴史を動かしてきたのだから、その営為と生み出された成果物に対するリスペクトはある。しかし、肥大化した思想は日常生活とは乖離してしまっていると感じることもある。
一方で、プラトンは哲学誕生期(と言っていいのかわからないが)の哲学者である。そのため、取り扱われる主題も、過去の哲学への批判から発生した実生活から乖離したものではなく、私たちが人生を通じたら一回は考えるであろうようなことに収まっている。
手のひらサイズの卑近さと長い長い歴史をも貫く普遍性、とでも言うのかな。
そして、内容も語り口も、これがとにかくストレートなんだ。
ギリシャ哲学は理性を重視していただろうから、論理性はあるんだけれども、それでも今ほど厳密な議論は多くない。厳密じゃないからこそ、思想には熱を感じられるし、純度が高い感じがする。
平気で高尚で青臭くて理想めいたことを真正面からぶつけてくる。(のちにニーチェに独断論と言われて批判されているが笑)
理想主義で現実離れしていると批判されるかもしれないけど、最適解は現実と理想の往復によって苦しみながらも漸次的に作り出すものだと、私は考える。理想を、夢をみないんだったら、それはただの現実への適応であり、不正と不幸の甘受にしかつながらない。
『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』にかかれていた『資本論』の現代的意義について語った引用。(私は東大ではないのでご安心を笑)
理想を経ることの重要性が語られていて、プラトンを読む際にも役立つ視点だと思う。
もっとも、一九八八年以降のアンケートで『資本論』が上位に挙がるとは何と時代錯誤な、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、現在のような資本主義経済に翻弄されながら、「確かに問題は多いが、これがありうる経済組織の中では最善なのだ」と言じ続けるというのは、どこかカンディードのようではないだろうか。つまり、かつてヴォルテールが残酷に風刺した、この世は「ありうる世界の中では最善」だと言じさせられて一切の不幸と不正を甘受しようとした人物である(『カンディード』一七五九年)。「人間の経済行動の集積が、制御不能の自然現象のようになって人間自身を翻弄するのはおかしい。人々の公共的な決定によって経済も合理的かつ人道的に制御されるべきだ」という(少なくとも一見筋の通った)考えが浮かぶのは自然であろう。この世に資本主義がある限り、その最強の批判者マルクスもまた不滅なのである。
『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』 東京大学出版会『UP』編集部編 東京大学出版会 2016.3
青臭い若者(馬鹿者!)心が刺激されるような作品でした。
今はマルクスの資本論を読んでますが、本当に難し過ぎて棄権しようか迷っています笑
次は、ノーベル文学賞で名高い川端康成の『伊豆の踊り子』と『雪国』の書評です!