野口武彦の一覧
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ユーザーレビュー
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事件を招いた原因の一つとして「貨幣経済」への向き合いかたがあげられているのが新鮮だった。
浅野内匠頭と吉良上野介が、費用の算出について対立した背景には貨幣改鋳による急激なインフレがあるということも初めて知り、非常に面白かった。
城の明け渡しや領地の召し上げの際に藩札処分が迅速に行われた様子も述べら
...続きを読むれていて、まるで大きな会社が予期せぬ事態で急に倒れるような印象を受けた。
事件前後についても史料をもとに詳しく解説されている。
タイトルにもなっている「忠臣蔵」の演劇のイメージが強いので、実際に何が起きて、当時の人が恐れていた何が起きなかったのかが良くわかる。
Posted by ブクログ
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幕末の裏側。
7編からなるまぁ短編っちゃ短編けど
切り口というか教科書とか
よくありがちな歴史の表面だけ
サラッと描いたとかじゃない濃い部分。
というか何それどうなってんのとか
幕末と一言で言えども、当たり前けどエネルギーの使い道が
全部違ってまたそこも面白い。
しかしこの作者の方、徳川慶喜すんごい
...続きを読む嫌いなのかしら…とか。
幕末はこんなにダメでした!みたいな。
所詮寄せ集めの兵隊では何も出来ないというか
治安もそりゃ悪くなるわな。
吉原もそりゃ世の中傾くと今まで通り営業できないというか
恨み辛みある人もいるだろうし。
彰義隊の存在をこの本で知りました…むむっ
あんまり幕末のことなんとなくだったけど
これはとても良い。
Posted by ブクログ
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あらためて、明治維新は紛れもなく革命だった。その中には3つの革命を孕んでいる。
①政治権力を徳川幕府から奪った政治革命。
②廃藩置県という、もうひとつのクーデターで封建支配層の力を骨抜きにした社会革命。
③その総仕上げとし、職業としての武士を潰した秩禄処分を断行した経済革命。
多くの血が流れた上に
...続きを読む樹立された明治国家。その当事者たちにとっては、「違うぞ!こんなはずではなかった!!」という悲憤慷慨が渦巻く。朝廷政治の復権を目指した岩倉具視。徳川に代わって将軍になれると信じた島津久光。癒着・汚職に手を染める新政府高官を許せない西郷隆盛。血を流したにも報われないと知った雄藩士族…。ビジョンの交錯。思惑の激突・同床異夢。
西南戦争終結までの10年間。ただひたすらに国家造営の精励した旧サムライのすさまじい悪戦苦闘ぶりが理解できる好著。
Posted by ブクログ
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鳥羽伏見の戦いは幕末期における天下分け目の合戦だったのに、その戦況の推移を詳しく知っている人はそれほどいない。学校でもさらりと流して終わるし、鎖国により兵器の近代化に遅れた保守的な幕府が、いち早く開明し軍備を近代化した薩長に負けたという図式でいつも語られる。本当にそうなのか?という疑問にこの本は答え
...続きを読むてくれてる。
結論を先に言うとNOだ。
幕府もフランス式に軍備を近代化して、伝習隊という精鋭歩兵部隊を組織している。しかも伝習隊の装備していた銃は元込式のシャスポー銃で、先込式のミニエー銃しかなかった薩長よりはるかに威力があるものだった。ミニエー銃が1発撃つ間にシャスポー銃なら3発撃てる。しかも装填も寝そべったまま(頭をあげなくてもいい)できた。ミニエー銃は一度立ち上がらないと装填できないので、その間は無防備になる。
だから幕府が近代化に遅れ、薩長が進んでいたなんてことはない。
では、なぜ四日にわたる戦闘のすべてで幕府は負け続けたのか。
これは偏に将軍慶喜は暗君だったからである(著者はそこまで断定してないが、自分はそうとしか思えない)
まず都に入京するときに武装し大軍で行きながら、銃に装弾していないという失策。薩長が仕掛けてくるとは露ほども思っていない。示威行動で怖気づくとでも思っていたのか、情報収集がなってない。これでは出鼻をくじかれても仕方ない。
二日目には装備を整えた幕府軍だが、強風の風下に布陣したばかりに戦況を不利にする。(風下で発砲すると硝煙や発砲時の火花をもろに顔にうけてやけどするため、火力をいかしきれなかった) これは兵力への過信が招いた敗戦だが、逆にいうと幕府軍のほうが火力では勝っていたのだろう。
三日目以降の戦闘でも、戦況を分析し指揮する指揮官がいなかった幕府軍は正面攻撃に終始したため、薩長に側面攻撃されて押された。そういう意味では用兵の妙は薩長に分があり、先見性があったことは認めざるをえない。しかし、個々の戦場では会津兵の奮闘もあり、押している場所もあった。そして何度か敵の背面に抜け出して挟撃するチャンスがあった。しかし現場の指揮官が形勢逆転の勝機を見抜けず、会津兵の再三の追撃要請にも応じなかったため、ついに勝機をつかめなかった。
兵力は足りていたのに、用兵がまずくて負けたとしか言いようがない。
最悪なのは、大阪城に籠城してからの慶喜の行動だ。城を枕に徹底抗戦をするという決死の表明をしておきながら、舌の根の乾かぬ内に城から逃亡するという総大将にあるまじき行為。天下の堅城で籠城戦をしていれば、戦況はどっちに転ぶかまだまだわからなかったのに。というより、おそらく幕府軍に有利になったはずだ。しかし総大将が逃げてしまっては戦にならない。あろうことか慶喜は逃亡するときに妾を同船させている。保身しか考えていない
維新後、慶喜は自分は戦争したくなかったのに会桑らが勝手にはじめた、などと回想記に記している。大阪城を抜け出した件に関しては、もとから江戸に帰って恭順の意志を示すつもりだった、そのためには味方をも欺く必要があった、と恥じることなく言っている。妾には本当のことを言えるのに、命を懸けている兵には嘘をつくのか。
平気で嘘をつけて人に責任を押し付け、それによって人がどれだけ傷ついても良心の呵責を感じない。こいつはサイコパスの典型じゃないか。
戦後、桑名藩がまとめた史書は慶喜の行動を「天魔の所為」と断じている。
これ以上に慶喜を的確に表現した言葉はない。
Posted by ブクログ
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改めて鳥羽伏見が維新期におけるターニングポイントであったことがわかる。鳥羽伏見以前において慶喜はまだ権力を放棄する意思はなく、在京の薩長の兵力は幕府の兵に比べて少数で、薩長の頼みとする土佐藩は日和見な態度であった。そのような環境の中では、その後の権力が幕府に転がるのか薩長に転がるのか不透明な状態だっ
...続きを読むた。ゆえに多くの藩は日和見な態度を見せていたのである。
結果劣勢と思われた薩長が勝ち、錦の御旗が揚がったことは明治の到来を決定付ける極めて象徴的な出来事だったことがわかる。
どうも明治に入ってから慶喜の弁明が受け入れられたことにより、鳥羽伏見の本来の意義が後世長い間過小評価されたのではないかと思う。
Posted by ブクログ
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