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作品一覧
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-翻訳ミステリ雑誌『EQMM』編集長を経て日本におけるハードボイルド小説の先駆者となった直木賞作家の自伝的実名小説。 一九五六~六四年の疾風怒濤の編集者時代を描いた『浪漫疾風録』と、『傷痕の街』でのデビュー後、六四~七八年の綺羅星のような作家たちの交遊を描いた『星になれるか』の合本。 ■目次 ◎『浪漫疾風録』 地獄へようこそ/悪戦苦闘/汗みどろの日々/粋で貧乏で/色やら恋やら/走り出す人々/ミステリ戦国時代/さらば編集者/あとがき ◎『星になれるか』 星になれるか/面白き罪/バンコク有情/ドリアンの謎/モンスターの尻尾/独り砂漠を/甘美なる腐敗/回帰への終章
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ユーザーレビュー
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Posted by ブクログ
早川書房に入社してから、辞めて長編小説を書くようになるまでのことが書かれている。1956年から65年まで。昭和30年代だ。
時代はEQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン)やポケミス。生島がEQMMの編集長になるのは26歳。彼も、まわりも、若く、パワーがあって、がむしゃらに新境地を拓いてゆくあたりが、おもしろい。自分たちが時代を創ってゆく。
師(and also反面教師)と仰ぐ田村隆一。田村の下訳の誘いや訳文の添削がおもしろい。社長の早川清。うるさいことを言う「町工場の社長」のよう。細かいところは細かい、しかし割り切りがいい、人情はある、悪意はない。信頼するに足るとわかると、すべて任 -
Posted by ブクログ
生島治郎は、1933年に生まれ、2003年に亡くなった。彼は、日本における正統ハードボイルドの創始者として知られる小説家である。上海生まれであり、1945年に長崎に引き揚げ、その年の6月に母の故郷である金沢に移住した。この経緯により、長崎での被曝を免れることとなった。その後、父親の職の関係で横浜に移住し、早稲田大学に進学した。卒業後は、早川書房に入社し、日本語版「エラリークイーンズミステリマガジン」の創刊準備に携わり、その後編集長に就任した。彼は1963年からハードボイルド小説を書き始めた。大沢在昌が、東海中学生の時に、生島治郎に手紙を書いたら、売れっ子だったにも関わらず、8枚の返事を書いた
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Posted by ブクログ
1956年、『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』日本版(EQMM)創刊準備が進んでいた早川書房に入社、編集者として『EQMM』を支えた生島治郎の自伝的な小説。当時早川書房の出版部長だった詩人・田村隆一の悠揚迫らざる立ち居振る舞いや、都筑道夫や福島正実、常盤新平ら同僚との日々、結城昌治、佐野洋、陳舜臣ら担当作家との共闘のありよう、小松左京や半村良のデビュー当時のエピソードなど、生き生きとした筆致で飽きさせない。一気に読み終えてしまった。
光文社の『EQ』がこの雑誌の後継誌だったとは知らなかった(恥ずかしい)。勉強になった。
早川書房で生島が活躍した1950年代後半~1960年代 -
Posted by ブクログ
生島治郎『黄土の奔流 冒険小説クラシックス』光文社文庫。
過去に刊行された傑作冒険小説の再刊企画の第1弾。第2弾の胡桃沢耕史『天山を越えて 冒険小説クラシックス』を読んでみたら非常に面白かったので、本作も読むことに。
1965年刊行の紅真吾シリーズの第1作。これぞ冒険小説のお手本というようなワクワクするストーリーに心が踊る。今の時代に読んでも面白い、このような優れた作品が1960年代に日本で刊行されていたことにも驚かされた。
頭脳明晰で将来を期待されていた紅真吾は父親の事業の失敗により中国に渡る。父親と共に上海に小さな商社を立ち上げたが、父親の死後に事業は傾き、倒産。破産した真吾はある日