「日本初の哲学系YouTuber」による、古代ギリシア哲学への理解を、「学説」のみでなく、「逸話」も交えて捉え直すことで、より深めようとする試み。
この試みによって深められた、それぞれの「哲学者像」と「学説の真意」は、従来からある周知の読み解きなのだろうか?
もし、著者が新たに描き出した「哲学者像」と「学説の真意」だったとしたら、それは本当にスゴイ仕事ではないか!
(わたしには、それを判別できない)
古代ギリシアの哲学者たちなんて、すでに二千年年以上も、あらゆる批評・論考がされつくしているはずである。
YouTuberである著者のネオ高等遊民が、新たな解釈を提示したのだとしたら、まさに「市井の哲学研究者」による偉業ではないか!
著者のYouTubeは、初期のころから視聴していたが、その発信の中核は「哲学の勉強の仕方」であり、著者自身の思索そのものを発信することは、ほとんどなかった。
修士まで哲学を学んだ著者は、哲学の巨人たちによる、膨大な思索の蓄積を目にして、萎縮してふるまっているのだろう。
本書においては、著者自身の思索や探究を深めていく熱意が、しっかりと表現されている。
-----
浅学なわたしには、古代ギリシア哲学の見取り図がないため、まずは「学説」を概観する形で、読み進めることになった。
「学説」であろうが「逸話」であろうが、とにかく、自分自身の思索のインスピレーションを得たい。
それが、愚鈍な四畳半哲学者なりに、入門書を読む理由である。
-----
ストア派の哲学をはじめて知り、衝撃を受けた。
その「学説」ではなく、「逸話(=生き方)」にである。
実践できているかはさておき、わたしの価値観に、驚くほど似ているからだ。
「こうありたい」という、わたしの人生観を、きちんと言語化して整理してくれているようであった。
勇気づけられる一文を引用するだけで、わたし自身が何を求めているのかが、おのずと見えてくる。
p.249 逆に言えば、どれほど病んでいても貧しくても、それは悪ではありません。(…)有用性や利益がないことがポイントです。
p.253 (…)彼らの生がすでに満ち足りていたからです。(…)死は欠損ではなく、生の完了です。
しかし、ストア派とわたしでは、価値観の源泉となるものは、まるで違う。
ストア派の根幹は、「アパテイア」という「無受動」であること、能動である自然の原理に自己の魂を同調させること、であるらしい。
(残念ながら、現代科学を知っている身からすれば、この理論は、ほとんど意味がない)
対して、わたしは、自己の内側の宇宙が充実していることを重視し、それだけが、この世の虚無のなかで、唯一、確かなものだと思っている。
社会的な富や名声、実利的な健康や生命そのものよりも、自己の心の中に、豊かで広大な宇宙が広がっていることに、人間として生きることの意味を感じるのだ。
いっぽうで、そんな孤立的で自己中心的な価値観に釘を刺す一文もある。
p.255 (…)積極的に人々に善をもたらすというより、ただ泰然自若としているだけです。そのせいで「消極的」とか「非社会的」などとネガティブな評価をされることがあります。
これは、まったくその通り。
耳が痛い指摘である。
この論点について考える時、つまり、自分は他者の役に立っているのかを考える時、わたしは、中村哲という人物が気になって仕方がない。
「憧れている」のではなく「敬服している」というほうが正確だ。
我欲を捨て、アフガニスタンに暮らす「まったくの他者」のために命を燃やし、命を落とした、本物の偉人である。
残念ながら、わたしは、中村哲のようには生きられないだろう。
ただ、人類史上でも最も稀な、力強い「善」の存在を、彼に見るのだ。
存在すると思えないものが、本当に存在したことに驚かされるのだ。
そして、情けない自分に苦悶する…いや、苦悶するフリをするのだ…。
-----
「ストイック」の語源である「ストア派」の師匠が、「犬儒学派(キュニコス派)」であることは、示唆に富んでいる。
汚い野良犬を意味する「犬儒学派」という呼称と、わたしが自分自身を「四畳半哲学者」と自嘲してきたことは、どうしたって響き合ってしまう。
これが何を意味するのか?どう解釈すべきか?時間をかけて思索したい事象である。
甕を住居とした、シノぺのディオゲネスは、著者から「はっきり言って異常者です」と評されている。
もちろん、哲学者に対しては、最大の褒め言葉であろう。
ディオゲネスの「逸話」は、世俗の価値観に与しない、野良犬のような「世捨て人」としての魅力だけでなく、もっと挑発的な価値観や思想のインスピレーションになる気がする。
「通貨を粗悪なものに改鋳した」という「逸話」は、テロリズムそのものである。
「おまえの願いを叶えよう」とすり寄ってくる為政者の甘言に対し、「日陰にしないでくれ(そこをどけ)」と返答したという「逸話」は、アナキズムを想起させる。
このような犬儒学派の「逸話」からは、「反権力こそが、究極的な自由を得る道へと導く」というインスピレーションを得られるのではないか。
無論、その結果が、「良くも悪くも」である。
IT起業家の間で、「ストイックに働くための自己啓発書」としてストア派が読まれているのとは、真逆のインスピレーションだと言えよう。
著者のお気に入りという「逸話」には、さらに重要な示唆がある。
弁論の練習中におならが出てしまったことを深く気に病んだ哲学徒に対し、ディオゲネスの弟子クラテスは、「おならが出るのは自然なことだ」と励ましながら、自分もおならを出した。
著者は、この逸話について、
p.240 (…)哲学が人を救う力があることを示す、数少ない実例(…)偉そうに道徳的教訓を語っていただけでなく、他人に寄り添える人間だったことを示していますね。(…)現代で哲学者と呼ばれる人々は、他人のためにおならを出せるのでしょうか。
と書いている。
これは、胸に迫る文章である。
正直に言って、涙が出た。
先述したとおり、わたしは、中村哲のようには生きられないだろう。
利己的で、傲慢で、愚鈍で、劣悪な人格だからだ。
でも、いつか誰かのために、おならを出すくらいならできるかもしれないではないか…。
-----
本書の中で何度も語られており、また、YouTubeでの発言からも推察されるが、著者自身、「哲学を学ぶこと」と「自分の哲学を実践して生きる」ことの間で、もがいているようだ。
これが、現実というものであろう。
本書が引用している数々の「逸話」は、もちろん、後世の「作り話」である。
人間は、自分が考えたとおりに純粋に生きることなどできない。
それでも、自分が生きる道しるべを、自分自身で作るしかないのだ。
p.287 「哲学するふりをするのではなく、本当に哲学すべきである。」
エピクロスの箴言
「本当に哲学する」とは、何だろうか。
そして、わたしは、どこまでできるだろうか。