穏やかな内容の本を読めるということは、自分の心の状態が穏やかだということ。
自分の苦手分野を主題とした内容の本を読めるということは、苦手を克服したいという願望が芽生えてきているということ。
今、このタイミングでこの本に出会えてよかった。
主人公は、商社の激務で身体を壊して退職し、家事代行サービスで働き始めた津麦(つむぎ)。
幼い頃から、毎日取り憑かれたように家事にのめり込む母親に手厳しく教育されてきた影響で、一通りの家事はこなすことができるようになっていた。
彼女が新しく受け持つことになった織野家には、シングルファーザーと、五人の子どもたちがいた。
部屋の床一面は家族全員分の洋服で埋め尽くされ、見たこともない光景に津麦は呆然とするが、要望は片付けではなく、予想外にも「食事を作ってほしい」。
自分が織野家のためにしたいと思うことと、織野家から求められることとの間に乖離を感じた津麦は、悩みながら、そもそも家事とはなんなのか、何のために人は掃除や料理をするのか、考えるようになる。
津麦がご飯を作るシーンが何度か出てくるのだが、その料理がどれも本当に美味しそうで、心があったまって、不覚にも急に涙まで出てきてしまった。
食材も、調味料も、手順も至ってシンプル。
誰でも、どこのスーパーにでも売っている食材で、ぱぱっと作れるメニューばかりだ。
それなのに、読んでいると、フライパンで熱されている食材の香りがふんわり漂ってくるような、油がパチパチいう音が聞こえてくるような、あったかくて、穏やかで、どこか切ない気持ちになった。
その切なさの根源は何だろうと考える。
わたしは家事が苦手で、中でも料理が絶望的にできないので、夫や息子にいつも気を遣わせてしまっている。
何品か作っても全体的にイマイチで徒労感だけが残ったり、美味しいと言ってもらえたものを繰り返し作って飽きられてしまったり、わけのわからない高い調味料を買ってみるも、慣れない味に全員で顔をしかめることになったり、そんな苦い記憶ばかりだ。
「名前のある料理を作るのが間違いないよ」
「◯◯の××風、というようなレシピは、だいたい味が複雑なことになるから避けた方がいいね」
というのが、夫から来る定番のアドバイス。
名前のあるもの。肉じゃが。生姜焼き。カレー。筑前煮。照り焼き。そうね、間違いなさそう。
でも性格が捻くれたわたしはつい、基本の味が確立されていないのにふらふらっと脇道に逸れて、隠し味とか言ってバルサミコ酢とかフレーバーのついたオイルとかなんか珍しい種類のよく知らない野菜とか、そういうものを入れてしまう。
自分でも、絶対にそれが間違っていると思う。
津麦が作る料理の数々を見て、やっぱり夫の言うことは正しいな、と、改めて反省したのだった。
結婚してもう15年になるけれど、年々、夫の言葉に対して反射的にシニカルな対応を返してしまうことが増えてきた自覚がある。
いやでもこれ入れたら味に深みが出るって聞いたし。あなたがこないだもうこれ飽きたって言ったから仕方なくちょっと変えてみたんだし。旬の食材がいいって言われたから今が旬の(この見たことも聞いたこともない野菜だか何だかもわからない)これ、買ったんだし。
わたしにだって言い分はいくらでもある。
でも、どちらが正しいのかは明白だ。
最近は、スーパーやコンビニで売っているお惣菜の類もクオリティが本当に高くなった。
種類も豊富で、どんどん新商品も現れる。
手間はかからないし、洗い物もいらないし、野菜や米の価格が高騰していることを考えれば、下手したら自分で作るよりも安上がりでさえある。
日々そういうものに甘え、頼りまくっているわたしは、この本を読みながらあたたかい気持ちになれたけれど、同時に、切なさも感じずにはいられなかった。
便利さや楽さを追求した食卓には、やはり何か足りないものがあって、わたしはそれを今からでも、少しずつでも埋めていきたいと思った。
鶏肉とキャベツのトマトカレー。
ブロッコリーのバター醤油炒め。
二度目に織野家を訪れた際に津麦が作ったメニューの一部だ。
ちょうど今日はスーパーで鶏肉が特売日で、戸棚にトマト缶もあったので、真似をして作ってみた。
食材や調味料の細かい分量は記載がないから、苦手な目分量で、しょっちゅう味見をしながら。
たぶん、美味しくできたと思う。
今夜は夫が出張でいないので、息子と二人の食卓になる。
美味しいって言ってもらえたらいいんだけれど。