文章に若さを感じる。
それは、昨今の若者言葉を使って若ぶっているとか、若さに媚びているとかいうのではない。
おそらく、ご自分の40年前の若さをもう一度追体験することに成功しているのだろう。
そして、確かに歩まれてきた40年もまた同時に感じる。
一見かけ離れているかのような、猫たちにまつわる3編と
...続きを読む40年前留学したボストンを訪れる2編であるが、互いが互いの外伝のようとも言える。
猫たちとの日常を綴るエッセーは、留学から帰って後の筆者の家庭や大学人としての苦闘を立体的に描くし、『小次郎がいい』で小次郎の喪失が描かれた後に読むから、『シーギー』が一層哀切を帯びる。
ことばをもたない猫が世界を切り取り把握することができないように、40年前の自分と、その後ことばを(従って観念を)更に獲得してきた40年後の自分とでは、世界の切り取り方が違う。違っていなければ、40年の重さがなくなってしまう。
「捨てたもの、失ったもの、行方の知れないもの、姿を消したもの」ーーそうだろう、友人も夫も猫も物も。そういうことの繰り返しだったろう。
40年はそういうもので満ち満ち、失うことで、それらへの愛惜を懐かしさを得てもきただろう。
昨今の日本の小説やエッセーのことばの軽さを、まざまざと思い知らされる。
決して重いわけではないのに、ただきちんとした日本語であるというだけで、きちんと沁み入ってくる。こんなにも落ち着く。
巷にあふれるキャッチーな設定、烈しいストーリー展開、軽い言葉の文章が、なにほどか虚しく感じられる。