そもそも「やさしい」は続かないもの、と分かっただけで何かほっとできた気がする。
やさしいとは
①コントロール権を手放し、相手に委ねること。
②その結果、起こることの責任は引き受けること。
振り返ると、この「コントロール権」をとにかく手放せていないのが自分だと思った。
コントロール権を手放せる「共同的分かち合い」の人間関係を築けていないのかも。
コントロールについて、もっと深く知りたいと思ったり。
以下メモ
・やさしいがつづかないと悩むような場面にあなたが出くわしたとき、ぜひ次のように考えるクセをつけてみてください。
「ああ、私は今この相手に自分のコントロール権を手渡せないのだな」
「私はこの人のことをコントロールしようとしてしまっているが、本当にそれは今、必要なことなのだろうか」
・善意が2回3回とつづいていくと、私たちはその奇跡的な感覚を忘れてしまいます。そして一方で、やさしい行為を行った人は、そもそも相手に貸しを作ろうと思っていたわけではないのに、何度も繰り返すうちに相手に「貸し」ができたと考え、いつかその善意が報われることや見返りを期待することになります。
他方で、やさしい行為の恩恵を受けた人は、1回目はそのことに恩義を感じて感謝をしていても、それ以降は「借り」でも何でもなく、当然のことで、むしろ「相手の義務のようなもの」として受け入れるようになります。
ここで両者ともに共通しているのが、マイクロ・カインドネスのすごさを忘れてしまうことです。
マイクロ・カインドネス:些細なことで困っている人に手を差し伸べる行為(小さなやさしさ)
やさしいの定義のうち、①(コントロール権を手放し相手に委ねること)を満たすもの。
・もしかすると現代社会では、共同的分かち合いが許されるはずのゾーンにさえ「貸し借り」というやさしいがつづかなくなる規範が入り込んでいる可能性があります。
「貸し借りはいずれ返す/返されるべきだ」という規範が現れると、共同的分かち合い関係は一挙に変化していきます。あるいは、その「貸し」「借り」を利用して相手をコントロールしようとする欲望が動き始めるでしょう。
・あなたのやさしいが発揮されるはずの共同的分かち合いの中に「自分は立場的に下にみられているのではないか(権威ランク付け)」「自分だけがいつも物をあげて対等ではないのではないか(平等マッチング)」「価値あるものをタダで渡すのに値する人物なのか(市場価値づけ)」といった思考が入り込んでくると、その関係が維持できず、コントロール権を手放すことが難しくなってくるのが分かってきます。
・たとえあなた自身は誰かをコントロールしたいとは思っていなくても、疲れていたり、忙しかったり、イラだっていたり、不安だったりと心に余裕がないと、他人をコントロールしたくなってしまうものです。
心身の疲労や感情の昂ぶりは、視野を狭くさせ、その瞬間の自分のことだけを第一に考えるようにさせるからです。
・やさしいの土壌(余裕の力)
経済面/時間面/健康面
・むしゃくしゃした気持ちやイラつきなどを、その強さに比例した身体運動として表出すること、例えばものを激しく投げつけたり、してもその怒りは収まらず、むしろ増大することさえあります。
むしろ重要なのは、その怒りを誰かに話して共有したり、瞑想したりすることで、とにかく心を落ち着かせることです。
・私たちは「やさしいがつづかないこと」と「暗い感情がつづいてしまうこと」という2つのとても困難な課題の間に立っています。
最後に、気に入った言葉
マルクス・アウレーリウス「自省録」
自分は何も損害は受けていない、そう考えるようにしなさい。そうすればあなたは損害を受けなかったことになる。