紫式部や清少納言の活躍した平安中期—よりも後。
平安前期は、あまり資料もなく、よくわからないというイメージがある。
一方、平安後期は、やたらに人がたくさんいて(裏を返せば「キャラ立ち」する人がいない)、入り組んでいて、とかく複雑、というイメージ。
さて、私の典型的な平安イメージ=西暦1000年ごろを起点に、その後を描いているのが本書。
西暦1000年ごろを境に、中世という歴史区分がはじまる。
では、筆者は中世の専門家かというと、実は古代だというので、また驚いてしまうのだが、そこは斎院・斎宮を専門としている研究者であるとのことで、女院や内親王など、高貴な女性たちが「権門」となっていく状況を説明していく。
中宮や皇后が文化サロンの中心となる時代は彰子の後徐々に終わり、その後は内親王や女院たちのサロンが中心になるのだそうで、言われてみれば、と思う。
冷泉・円融の二系統に分かれていた皇統を一つに束ねることになる、三条天皇皇女にして後朱雀天皇皇后の禎子内親王。
頼通の養女嫄子(敦康親王の娘)との間で、どちらから皇太子が出るかという争いを制したのは、禎子。
禎子所生の皇子、尊仁親王即位により、摂関政治が終わる。
禎子と夫の後朱雀との夫婦仲は冷え切っていたとあるので、歴史の偶然も皮肉な感じがする。
しかし、このあたりの話は、他の本でも読める内容。
著者ならではなのかな、と思うのは、第四章の斎王密通事件を扱った部分。
花山朝の斎王に選ばれ、嵯峨の野宮で潔斎中の済子女王が、滝口武者平致光と通じたといううわさが流れたという事件だそうだ。
この件、直後に起きた寛和の変により、結局うやむやになったというが、この致光が十年後の長徳の変(伊周兄弟が失脚する事件)、伊周兄弟と一緒に逃亡していることもわかっているとか。
この致光は、坂東平氏に属し、この一家の一世代上で、あの将門の乱がおこっている。
この人物は、筆者の推測によれば中関白家とかかわりがあり、それゆえ、道長の金峯山詣での暗殺計画での実行者として噂されたり、長徳の件でも一緒に逃亡したのではないか、といい、更に斎王の滝口になれたのも、そのコネクションによるものだったのでは、とする。
かつ、相模の例を挙げ、武人の娘が貴人の女房になる可能性も示唆し、女房の手引きで致光が済子に近づくことができ、その背景に中関白家の意向があったのでは、と指摘する。
この推測の妥当性を判断することは自分にはできないけれど、「やりかねない・・・」と思えてくる。
六章以降は女院が権力を得ていく状況を描いていて、これも面白かった。
白河天皇が制度をかき回す。
例えば鍾愛の内親王媞子(やすこ)が、三歳で斎王となり、准三宮の地位を与え、息子の堀川天皇が八歳で即位するときには退下していた媞子を准母とする。
そして堀河の後見人として、なんと未婚のまま中宮の地位を与えられる。
その後「郁芳門院」という女院になるのだが、ここまでくるともはや驚かない。
十一世紀前半にはそれほど内親王が高位であることを求めてこなかったのに、後三条朝あたりから、天皇の権威を演出する存在として高位内親王、高位斎王を利用し始めたそうだ。
その帰結が、未婚立后であるとのこと。
こうして、中宮彰子=上東門院とは違う形で、高位の女性が「権門」となっていく。
とはいえ、権力構造は複雑。
女院は軍事貴族やら、院やら、力を持つ男性の手ごまの一つとなり、衰退する。
斎王は源平の争乱の中で制度が途切れ途切れになり、やはり衰退する。
北条(平)政子など、女性家長も生まれはするが、貴族・武士の間での女性の存在感は失われる。
雑にしかまとめられないが、こんな趣旨の話だった。
著者の語り口は、序盤はそうでもないのだが、だんだんこなれていくのが面白い。
白河院を「第二のいきあたりばったり」と呼んだり、「〇〇氏の説に激しく同意する」といった言い回しをしたり。
系図や表をまめに掲出してあるので、だいぶ読みやすいのだが、それでもたくさんの人名に翻弄される感はある。
最後まで読み通した自分を、とりあえず誉めてやろう。