積読をしていたら、何と文庫化されてしまった。というわけで、読み始めたのだが、これが滅法おもしろかった。
ベートーヴェンといえば、いかつい目つきにモジャモジャ頭…。小学校の音楽室に必ずといっていいほど飾られた肖像画を連想する。そして、授業や書籍で語られてきた印象的な数々のエピソード。「運命はこうして
...続きを読む扉を叩く」という台詞は、音楽に疎い私でも知っている。ところが、そうしたエピソードは、ベートーヴェンの秘書アントン・シンドラーによる伝記に由来し、実はそのほとんどが捏造されたものだった。
ベートーヴェンが若くから難聴を抱えていたことは有名で、コミュニケーションはノートへの筆談に頼っていた。ベートーヴェンは失語ではないので、書くのは相手側のみである。そのノート約400冊は全て保管されていたのだが、シンドラーは伝記を書くにあたり都合のいい部分だけを残し、他は燃やしてしまったという。しかも、残した約140冊の至るところに改ざん処理を施した。
こうして書き上げられた伝記は1840年に初版が刊行され、2度大幅改訂されている。当時から内容に疑義が寄せられていたもの、その後の楽聖ベートーヴェン像の確立に大きな影響を与えることになった。
ところが、1977年の国際ベートーヴェン学会で、シンドラーの捏造が改めて大々的に指摘され、一大騒動に発展するのである。ある研究家はシンドラーが関わった情報は一切信用できないと述べ、今後正確なベートーヴェンの伝記を書くことは不可能だとまで言う。
作者はシンドラーを“プロデューサー”だと評する(決して褒めてはいない。ここ重要)。天才作曲家ベートーヴェンは、人間的にはなかなか厄介な方だったらしい。シンドラーはそれらの醜聞をもみ消した。そして、自分とベートーヴェンとの関係性を「盛った」のである。
本書はかなり砕けた文体で、面白おかしく書かれている。スラスラ読める徹夜本である。シンドラーさん、なかなかにゲスい。すると妙な気になってくる。大筋はこの通りなんだろう。捏造も間違いなくしたのだろう。でもこの本に書かれていることを、正確にシンドラーが言ったり考えたりしたかはわからない。では、これ「捏造」なのでは?
シンドラーの嘘は綺麗さっぱり淘汰されたのかといえば、そんなことはない。「運命」のエピソードのように、捏造報道があった後も多くのテキストで紹介されている。我々は今なおシンドラーの描いたベートーヴェンを見ているのである。