個人的な弱さを受け入れる、あるいは向き合うという「覚悟/決意」を「平熱/日常」の中でしていくこと、その豊かさを情緒豊かに書いたエッセイだった。
読んでいてここで書かれている「弱くある贅沢」はどこか立川談志師匠が言われていた「業の肯定」のようだなと感じた。とてもやさしい視線と人情味がある。
強いか
...続きを読む弱いかで分けてしまいがちの世界。そして社会がグローバル化していって、「強い」ことが以前よりもさらに正しいことになっていくとどうしても息苦しさが出てきて、「弱い」ことがダメだったり悪だということになってしまう。
そういう世界では一度負ければ終わりだし、正しさを証明するためには勝ち続けなければならない(尾崎豊の歌詞みたいだ)ので、一度でも勝ったり成功してしまうと、弱さを人前では出せなくなって失敗ができなくなる。プラスSNSによって一度の失敗で人生全てが終わる錯覚を植え付けられてしまう。これは現在の呪いのひとつだと思う。
エッセイでも取り上げられている遠藤周作の『沈黙』のキチジローはいろんな示唆を与えてくれる存在だ。はっきり言って僕らの先祖はキチジローみたいな人が多かっただろう。戦場で勇しく戦って殺しまくって、殺されている人間ばかりならば後世に血は繋がっていかない。僕が自分の目的や使命もなく無理やり参加させられたら逃げると思う。
談志師匠は「業の肯定」で、赤穂浪士の四十七士ではなく、その他大勢の逃げたやつや参加しなかったやつが主人公なのが落語だって言われていた気がする。これって「何者」にもなれなかった人たちのことだ。そう、すごい親近感。35歳問題にも通じる。
「強さ」ってベクトルがわりと進むべき方向がちょっとしかないから実は不自由だと思う。逆に「弱さ」は個々人やコミュニティで全然違うから多様性があって、ある種自由なんじゃないかなって思う。もちろん問題も多様だからぞれぞれの難しさもあるんだけど。