タイトルが秀逸。
タイトルだけだと、「キラキラネームにはこんなんありますよ。ひどいでしょう。世も末ですね。」みたいなことが書いてあるように思えるが、実際は非常に真面目で、キラキラネームへの偏見が消失してしまったほど。
これが、内容に即して「読めない名前の近代史」みたいな真面目タイトルだったら、自分含めて誰も買わなかっただろうな。どこでこれを買ったか全く覚えてないが、自分も絶対タイトルに惹かれて買ったんだろうし。
自分もキラキラネーム、DQNネームはクソだなと思ってたし今もそう思ってるけど、単に流行りとかそういう話じゃないんだなと気づいた。
今だけ起きてる問題というわけではなく、理由はもっと根が深く、しかも長い歴史がある。
そもそも大昔の神代の時代から、神様の名前が完全に読ませる気のないものばかりだった。確かに。
木花開耶姫命とか当て字にも程がある感じがするし。
また、いわゆる難読名字である小鳥遊、月見里(やまなし)、八月一日(ほづみ)、子子子(ねこし)など、落語かな?と思うようなエピソードで名付けられたものも多く、キラキラネームと大して変わらないと言えばそう。
明治時代にも英語名を漢字で表したようなキラキラネームが多かったらしい。
亜幌(アポロ)、亜歴山(アレキサンドル)、丸楠(マルクス)など。
森鴎外も子どもたちが於菟(おと・オットー)、茉莉(まり・マリー)、杏奴(アンヌ)、不律(ふりつ・フリッツ)、類(るい・ルイス)という完全に外国かぶれと言えそうな名前をつけている。ただ、今見てもそこまでキラキラしているわけではないのがさすが森鴎外というところか。
於菟は漢文が元ネタらしく、この頃の知識人たちは漢字の見た目や音ではなく、きちんとした知識に基づいて名付けをしているのがほとんどとのこと。
まあ、自分としては考えがあろうがなかろうが、読みにくければどれも大差なくダメだと思うけど…
また、和子という普通の、しかも今では古い感じの名前も「和」を「かず」とは普通読まない名乗りの一種だったとか、そういう話は幾らでもあるため、光宙と書いてピカチュウはネタが極端なだけで似たような名前は昔から存在していた、つまりキラキラネームは今だけの問題ではない、と。
そこそこ最近の話で言えば、発端は第二次世界大戦の敗戦。
GHQの方針で漢字がまずなくなりかけた。なんやかんやでなくならなかったが、教育をしていくためにも教育しやすくするためにも常用漢字というものが作られ、その過程で漢字の本来の意味がかなり失われたまま人々に覚えられてしまった。
そして教育のおかげで人々の漢字知識水準が上がり、同時に漢字への敬いも減ってしまい、漢字を気軽に扱うようになってきてしまった。
更に最終的なきっかけであるインターネット。これで漢和辞典なんて見なくても簡単に漢字を検索できるようになってしまい、意味はそっちのけで見た目や音だけで漢字を選ぶことができるようになってしまった。
また、世代的にちょっと前から親になりはじめた人たちが緩くなってきた漢字教育で育った直撃世代であり、子供の名付けのために使う漢字の自由度が半端なくなっていて、それが変だとも思っていない。
つまり、今後これは加速していき、キラキラネームが常識になっていくだろう、とのこと。
だが、やはりこれは日本語の大切な要素である漢字、そしてその意味を失っていくことではあるので、キラキラネームが悪いとかではなく、それと別の話として漢字という伝統を守るためになんとかしなければいけない。
途中で漢字が中国から入ってきた時代まで遡り、戦前戦後の話になってしまい、内容は大変面白かったもののどうやってキラキラネームという話題に戻ってくるのだろうかと心配していたら、とてもきれいに結ばれていた。
あとがきで作者自身も非常に苦労したと書いていたが、確かにそんな感じの内容だった。それをこんな上手くまとめた良い本にしたのはすごいし、非常に面白い内容だった。意識が変わるのでオススメ。