清水真木の作品一覧
「清水真木」の「これが「教養」だ」「新・風景論 ──哲学的考察」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「清水真木」の「これが「教養」だ」「新・風景論 ──哲学的考察」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
親しい友人がいることは無条件にいいことだと思われている。
友人の数が、すなわちその人間の価値だとみなす風潮がある。
TwitterやFacebookなど、ソーシャルネットワークでも、フレンド数の多さが競われたりする。
名刺の数が「人脈」と称され、仕事の能力とほぼイコールだと考えられている。
確かに、人と人とのつながりは尊い。人間は一人では生きていけないから、人間同士のネットワークが大事なのはあたりまえだ。しかし──。
「あいつは人付き合いが悪い。だからつまはじきにしてしまえ」。
「あいつは友達だから、特別に便宜をはらってやろう」。
「同じ釜の飯を食った友人なのだから、不正にも目をつぶるべきだ」。
「能力のない首相だが、永年のつきあいだから支持しよう」
こうして見ると、社会の不正、停滞、犯罪の根っこに、しばしば「友情」が隠されていることもまた確かではないだろうか。
本書はこうした「友情」の逆理を見据え、「絶対的によきこと」とされている「友情」が、むしろ思想史の中では危険視されてきたことを明かす。冒頭、アリストテレスの末期の一句「友人たちよ、友人などいないのだ」から始まり、ルソー、カントに至るまで、思想家のさまざまな考えが紹介される。「友情」はえこひいき、付和雷同、烏合の衆を生み出しやすい。だから一部の哲学者たちは国会など公的な討論の場における対等のパートナーをこそ友人と呼ぶべきで、意見を同じくする人々の密着した関係を友情とは呼ぶべきではない、とみなしていた。このような議論から著者は結論づける。「少くとも現代の日本では、本当の意味での友情が機能する場所は見い出されないこと、したがって、私たちが『友人』と名付けている知り合いは、本当の意味での友人なのではなく、比喩的な意味で『友人』と呼ぶことができるにすぎない存在であることが明らか」。
「友情」だけではなく「人間関係」全般にまで反省を迫る衝撃の書である。
Posted by ブクログ
201112/
教養とは「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」/
公的な生活と私的な生活のこのような衝突という難問を巧みに解決する能力こそ「教養」とよばれるべきものである/
少し抽象的な言い方をすれば、一人の人間が帰属している複数の社会集団、組織のあいだの利害を調整する能力ということになる/
バラバラになった生活全体を見渡し、複数の相容れない秩序、家庭の秩序、職場の秩序、政治の秩序をいわば「通約」する第四の新しい秩序をみつけることであります。具体的に申せば、職場での役割、家庭での役割、政治の場面での役割の他にもう一つ、家庭内での立場からも独立した、政治的な主張からも独立した、職場での地位からも独立した、つまり、いつ、どこで何をしているときも変化することのない「自分らしさ」なるものを見つけ出すということであります/
古典とは、新しい物を正当化するために現れた古いもの/
ピースミールに問題を解決する決疑論的な能力としての教養、つまり、本来の意味での教養の方は、現代の社会で生き残るでございましょう。生き残るばかりではなく、問題解決の能力を手に入れるために努力する者にとり、私どもの社会-それは確かに鬱陶しく不気味な社会ではございますが-これは、能力を鍛えるためのまたとない練習場ですらあるのではないか、私はこのように考えます。何と申しましても、決疑論的な問題能力-つまり教養ですが-これは一種の「名人芸」であり、手に入れるには、「場数を踏む」ことが絶対に必要だからであります。/
Posted by ブクログ
本文中に何度も現れる「友人とは何か、友情とは何か」という問いに哲学の歴史の中で答えは3通り。
一つ目が、友情とは公共の空間を成立させるための基盤であるとするもの。
二つ目が、本当の友人とは自分の「分身」であるとするもの。
三つ目が、利害の一致などでの親密な雰囲気を友情とするもの。
実感に近い、三つ目の見解はルソーによるものだが、著者はこの考えに嫌悪感に近いモノをあらわにし、徹底的に軽蔑している。「親しさ」と呼ばれるものが如何に「友情」を汚すか、そのことを繰り返す。
「親しい」とは異なる「友情」を考え、著者もまたアリストテレスの遺言に戻ってくる。
「友人たちよ、友人などいないのだ」