本書は、加藤登紀子の「まえがき」とともに、第一章『人間はこの時代に生きられるのか』、第二章『農的幸福論』、第三章『僕の少年時代は幸せだった』、第四章『藤本敏夫が残したもの―加藤登紀子』、第五章『農村回帰の時代―甲斐良治と加藤登紀子の対談』で成り立っている。読み応えがあり、文字には活力が感じられる。藤本敏夫という人物を多面的に描き出す編集は、加藤登紀子の編集力によるものである。肝臓がんで亡くなる間際の文書やインタビューも収められており、藤本敏夫の遺書とも言える内容である。
三派全学連委員長であった藤本敏夫が有機農業を営み、大地を守る会を立ち上げたことは知っていたが、加藤登紀子による本であることは知らず、読んでみることにした。農業に関する本は多く読んでいると思っていたが、まだ読んでいない本がたくさんあることを知った。
第一章 『人間はこの時代に生きられるのか』
この章は、学生運動家だった時代の名残を残す藤本敏夫のアジテーションである。藤本は27歳の時に論文を執筆し、それは1971年のものである。地球や自然を征服することはできず、機能性重視の生活はさまざまなストレスを生むことになる。人間らしい生き方とは、自然とつながることによって心の平穏や感謝の気持ちが生まれることである。機能性の追求は、常に人間らしい感情、喜びや悲しみを大切にし、それを表現することで自己の心の安定を得ることができる。また、そこで生まれるアートや音楽に触れ、新しい生活スタイルを創り上げることによって、自己の内面的な充実感を得ることができる。ある意味では「人間らしさ」を再評価し、人間の生き方や価値観と結びつける必要があると藤本は述べている。彼の文章には説得力がある。
機能性が重視されるようになった時代は、特に20世紀中頃以降の産業革命と技術革新の影響が大きい。1950年代から1960年代にかけて、家庭用電化製品や自動車、家具などの製品において、単にデザインや見た目だけでなく、実用性や性能、効率性が重要視されるようになった。大量生産・大量消費の時代は、効率性と機能性を追求する時代であった。
1970年代以降は公害問題などの環境破壊が進行し、生活様式の変化や消費者の意識向上に伴い、機能性だけでなく環境問題や持続可能性も考慮されるようになった。特に21世紀に入ってからは、テクノロジーの進化により、機能性への要求がさらに高まり、スマートフォンやスマート家電などの高度な機能を持つ製品が求められるようになった。情報があふれる中で、機能性や効率性は常に追求されるものとなった。このような時代背景の中で、「農的幸福」を語る前章がつづられる。
藤本敏夫は、人間の思い上がりが恐竜やマンモスと同様に絶滅することを危惧している。藤本は恐竜の絶滅が繁殖の過多、およびマンモスの牙の過剰成長が要因であると述べているが、これは一般的な見解ではない。恐竜は約2億年前から約6500万年前に地球上に存在していたものであり、人類は約200万年前に出現したため、恐竜と人間は同じ時期には存在しなかった。恐竜の絶滅原因については諸説あり、確定しているものではない。
また、マンモスは約40万年前から生息しており、最後の種であるムースマンモスは約4000年前まで生存していた。初期の人類はマンモスと同じ環境で生活し、彼らを狩猟し、肉を食料とし、毛皮や骨は道具や衣類の材料となった。マンモスは主に草食性の動物であり、草や葉、枝、樹皮を食べていた。特に寒冷地に生息していたため、ツンドラや草原に生える植物を食べることが多かった。マンモスの体の大きさと長い牙は、氷や雪の下にある植物を掘るのに役立っていたと考えられている。絶滅の大きな要因には気候変動や人間の狩猟、生息地の破壊がある。マンモスの滅亡は、人間が食物連鎖の頂点に立ったことを意味するかもしれない。
「生物には全て発展と死が交互に支配しており、環境と平衡を保ちながら生を続けた後に滅び去り、新しい個体がそれに代わる。生命とは無生物界から独立したものではなく、それといわば交流するものである。」
第二章 農的幸福
21世紀型ライフスタイルとしての農的生活が提唱される。消費者から生活者へ、そして農的生活へと移行し、平和の三原則として都市解体、農工一体、簡素生活を掲げる。生命連鎖のある共同体づくりを目指す。「ナニナニすべき」という思想ではなく、「なるようになっていく」「なるべくしてなる」という日本固有の古からある思想の復権が求められる。それは農的生活の復権であり、生活の農業化、農業の生活化に他ならない。エコファーマーとウェルネスファーマーの連携、多様就労型ワークシェアリングが進められる。
それは、簡単に言えば楽しいことをやろうということに他ならない。楽しくなければ人生ではない。藤本敏夫は「自分のポジションがわかれば、次に自分のミッションがわかる」と述べる。食の本当の意味とは、食べ物に対する感謝である。生き物を殺してこそ人間は生きてゆく。植物が酸素を生み出し、植物が食べるものを生み出し、それを動物が食べる。その連鎖の中に人間の食がある。人間は生き物を殺さなければ生きてゆけない罪深い存在である。
有機農業は大変である。稲を植えるときは人海戦術を要し、草取りほど身体を使うものはない。また、稲刈りの際、黄金の稲穂が垂れていることの喜びは、厳しい労働があって初めて訪れる。そこに農的幸福がある。
第三章 少年時代
身近に自然があり、食べるものがあった。目の前にはいちご畑が広がり、皆で金魚取りを楽しんだ。時には見つかることもあり、その際にはビンタを受けることもあった。食は常に身近な存在であった。
第四章 藤本敏夫の残したもの
藤本敏夫は、革命に至るには時代の成熟が足りないとし、その中途半端さに苦悩していた。刑務所から出所した時、当時の学生運動は内ゲバで混乱状態にあった。党派の本部がめちゃくちゃに壊され、すべての運動から離れる決心をする。そして、食と農に関心を持ち、農民になる決意を固める。1976年3月、無農薬栽培の野菜を直売する「大地を守る会」を設立する。藤本は「私たちは野菜を売っているのではなく、文化を売っているのです」と述べる。1981年には「自然生態農場鴨川自然王国」を設立する。
藤本敏夫は、今西錦司に会い、「いつも若い人に言うんやが、わからなくなったら現場に聞くんやな。京都府警のおまわりさんもおんなじやけど。話が混乱して、つじつま合わんようになったら、野っ原に出て、ウロウロ歩くことやな。それでもわからん時は、日暮前に山に登ることやな」と教えを聞き、その言葉を胸に刻む。生命連鎖、食物連鎖の中にアイデンティティが凝縮されている。
なるほど。まるごと藤本敏夫である。見事であった、加藤登紀子さん。