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メアリー・シェリー
Shelley, Mary(1797-1851)
イギリスの小説家。無神論者でアナキズムの先駆者であるウィリアム・ゴドウィンを父に、女性解放を唱えフェミニズムの創始者と呼ばれるメアリー・ウルストンクラフトを母に、ロンドンで生れる。1816年、詩人のパーシー・ビッシュ・シェリーと結婚。1816年から書き始めていた『フランケンシュタイン』を1818年匿名で刊行。本作品によって、SFの創始者と呼ばれることもある。ほかの作品に『最後の人間』などがある。
「一方クレルヴァルは、いわば、事物の道徳的関係に熱中していた。忙しい生活の舞台、英雄の美徳、人間の行動、というよう...続きを読む なことがその研究題目であり、仁侠で冒険好きな人類の恩恵者として、その名が物語に記録されている人々の一人となることがその希望であり夢想であった。エリザベートの聖者のような魂は、私たちの平和な家の中で、廟にささげられたランプのように光りかがやき、エリザベートはいつも私たちに同情同感し、その笑顔、そのやさしい声、その天人のような目、それがつねにそこにあって私たちを祝福し活気づけた。エリザベートは人の心をやわらげひきつける生きた愛の精神であって、もしエリザベートがそこにいて私をなだめて自分と同じようにおとなしくしてしまわなかったら、私は勉強のためにきげんが悪くなり、もちまえの熱情で気が荒くなったかもしれない。それからクレルヴァルだが、このたのもしい男ですら、もしもエリザベートが善行の真価をさとらせ、天かける大望の目的は善をなすことにあることを知らせなかったならば、あれほど完全に人間らしくあれほど寛大な考えかたはしなかったであろう――冒険的な仕事をしようという熱情にもえながらもあのように親切であのようにやさしくはなかっただろう。」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「「私は嬉しい」とワルトマン教授が言った、「弟子を一人得たので。で、もしきみの勤勉がきみの才能においつけるなら、私はきみがきっと成功することを疑わない。化学は、自然哲学の中でも、最大の進歩がすでになされていてしかもまだなし得られる部門なんだ、それだから私はこれを私の専門の学問にしたのだが、私は同時に科学の他の部門をおろそかにしなかった。人は人間の知識の一つの部門だけに専念していたならば、化学者としてはなはだなさけないものになるばかりだから、きみが単なるちっぽけな実験家でなくて、ほんとに科学者になりたいと思うなら、数学を含む自然哲学のあらゆる部門を勉強しなさいと忠告したい」」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「この日からして、自然哲学が、とくにそのことばのもっとも包括的な意味においての化学が、私のほとんど唯一の仕事となった。近代の研究者たちがこれらの学問について書いた、いかにも天才と眼識に満ちた著作を熱心に読み、大学の科学者たちの講義を聞き、その人たちと親しむ道を開いた。気がついてみるとクレムペ教授ですら、おおいに健全なセンスと真の知識をもっていて、それにはいやな面相と態度がつきまとっていたが、そのためにそれだけ価値が少ないということはなかった。ワルトマン教授とは真の友となった。教授の紳士的態度には独断のしみがすこしもなくて、その講義ぶりはあけっぱなしでたちがよかったので、衒学的なところはすこしもなかった。さまざまな方法で私の知識獲得を容易にしてくれ、どんな難解な問題も私に明らかにわかりやすくしてくれた。私の勤勉も最初は動揺し不確かであったが、勉強が進むにつれて確固となり、やがてたいそう真剣で、いかにも熱心になり、私がまだ実験室にいるうちに、朝の光で星が見えなくなるというようなこともしばしばあった。」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「こういう驚くべき話を聞いて奇妙な感じがおきてきた。まことに、人間は、かくも力強く、かくも有徳で雄大でありながら、同時にかくも不徳卑劣なのであろうか? 人間はあるときには邪悪な原質の子孫にすぎぬように見え、またあるときには高貴と神性の極致のように見えた。偉大な有徳な人となることが、人間に与えられる最高の名誉だと思われ、記録にいくらも出ているように、卑劣悖徳であることは、最下等の堕落、もぐらや虫けらにも劣る賎しむべき状態であると思われた。人が自分の同胞を殺しにでかけられるわけが、いやいったい法律や政府があるわけが、長いあいだ私にはわからなかったのだが、悪事と流血の仔細を聞くと、そのわけがわかったけれども、私は嫌悪と嘔吐を感じてわきを向いた。」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「「私はよく談合するつもりだった。この熱情が私にとっては破壊的だ、あなたは自分が熱情の過剰をつくりだした原因であるということを反省しないんだから。もしだれかが私に対して慈悲心を感ずるならば、私はそれをなん万倍にもしておかえしする――その一人の人のために、私は全人類と和解する! しかしそれはいま実現され得ない至福の夢にすぎない。私があなたに求めていることは合理的でひかえめなもので、私と性は違うが私と同じく醜い被造物をもとめているのだ。その満足はささいなものだが、私が受け取ることのできるのはそれだけのものだから、それだけで私は満足する。いかにも私たちは全世界から切りはなされた怪物とはなるだろうが、そのために私たちはよけいにお互いに結びつくだろう。私たちの生活は幸福ではないだろうが、それは無害で、私が今感じている苦悩からはのがれられるだろう。おお! 私の創造者、私を幸福にしてください、一つの思慮でもって私にあなたに対する感謝を感じさせてください! 私も人間の同情を得ることができる、ということを私にわからせてください、私の要求を拒まないでください!」 私は動かされた。私は私の同意から生じ得る結果を考えて戦慄したが、怪物のいうことにもいくぶんの正義があることを感じた。その身の上話といま表現した感情とで、りっぱな知覚をもった者であることがわかった。そしてその創造者としての私は、私の力で及ぶ限りの幸福を与えてやる義務があるのではなかったか? 怪物は私の感情の変化を見てとって言った――「もしあなたが同意してくだされば、私はあなたにもほかの人間全体にもまたとお目にかからないようにします、南アメリカの広大な荒蕪地へゆきます。私の食物は人間の食物とはちがう、私は食欲を満たすために子羊や子山羊を殺しはしない、どんぐりや木の果で栄養には十分です。私の相棒は私と同じ性質でしょうから、同じ食事で満足するでしょう。私たちはかわいた木の葉で寝床をこしらえましょう、太陽が私たちの上を照らし、私たちの食物をみのらせるでしょう。私が描く絵は平和的で人間的です。だからあなたは、それを否定するには、無暴な力と残虐によるほかはないと感じられるはずです。あなたは今まで私に対して無慈悲だったが、今あなたの目に同情があらわれていることがわかる。この好意をもっていられる瞬間に、私が熱烈に望んでいることをしてやると約束してください」」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「そこからオックスフォードへ行った。私たちはオックスフォードで相当長い期間を過ごし、その近郊を散歩して、英国史のもっとも生気のあった時期に関係のある地点を見て歩いた。有名なハンプデンの墓と、この憂国の士が倒れた戦場をおとずれた。私の魂はしばしばそのみじめな危惧から高められて、これらの光栄が思いださせる自由と自己犠牲の気高い思想のことを瞑想した。しばしば私も敢然と自分の鎖を断ち切り、自由な高潔な精神をもってあたりを見まわしたが、その鎖は私の内に食い入っていたので、私はまた、戦慄し絶望してもとのみじめな自分にかえってしまった。 私たちはいやいやながらオックスフォードを去り、つぎの休息地マトロックへ行った。この村の近隣の地方は、大いにスイスの風景に似ていたが、何もかも規模が一段小さく、緑の山々にはアルプスのような雪をかぶった遠山がない。私たちはそこの珍しい洞穴へ行ってみた、それは小さな博物学の陳列台みたいなものに、いろんな珍しいものが、セルヴォやシャモニーの収集と同じように配列してあった。アンリがシャモニーという地名を口にすると、私はふるえあがった、そしてマトロックを去ることを急いだ。」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「「ぼくはここのぼくの知らないスコットランド人といっしょにいるよりは、きみの一人旅について行きたいんだ。それでは早く帰ってきてくれたまえ、ぼくはまたここですこしくつろいだ気持になりたいんだが、きみがいてくれないとだめなんだ」」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「二人がヨーロッパを去って新世界の荒蕪地に住むにしても、この怪物が渇望している同情の第一の結果は子供のできることであろう。そして悪魔の一族が地上に繁殖し、それが人間の存在そのものをあやふやな恐怖に満ちた状態にしてしまうだろう。私は自分の利益のために、この呪詛を永久に相つぐ世代にこうむらせる権利をもっているだろうか? 私は前には、自分が創造した者の詭弁に動かされていた。その悪魔的な威嚇に打たれて意識を失っていた、しかし今にしてはじめて、私の約束の悪いことがわかってきた。私は将来の人間が私をその害毒として呪詛するかもしれぬと考えて戦慄した。 私はふるえて、気がめいった。そのときふと目をあげると、月あかりで怪物が窓のところにいるのが見えた。わりあてられた任務を果たすためにそこに腰かけている私を眺めたとき、その唇にものすごい笑いがひらめいた。そうだ、私の旅のあとを追ってきたのだ、森林の中をうろついたり、洞穴に隠れたり、広い荒蕪地にのがれたりして、いま私の仕事の進捗ぶりを見、約束の履行を要求しにきたのだ。」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「「イギリス人の風習がどんなもんだかおれは知らないね。ところが悪人を憎むのがアイルランド人の風習だよ」 こういう奇妙な会話の進行中に、群衆がどんどんふえてきた。その群衆の顔は好奇心と憤激のまじり合った表情をしていたので、それが私の気になり、いくぶんかおそろしくなった。私は宿屋へゆく道をたずねたが、だれも答えなかった。それから私が歩みだすと、私のあとからついてきたり私をとりまいたりする群衆の中から、ぶつぶついう声がおきてきた。そのときいやな顔をした男が近づいてきて、私の肩をたたいて言った、「さあ、あなたは私のあとについてミスター・カーウィンのところへ来て、身許を証明してもらいます」」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「フランケンシュタインを自分の友だというあんたは、おれの犯罪とおれの不運のことを知っているようだね。しかしあんたに話した一部しじゅうの中に、フランケンシュタインは、おれが耐えてきた苦悩の年月を算入することができなかったようだ。おれはこの人の希望を破壊しながら、自分自身の願望を満足させたのではないから。その願望はいつも熱烈で切実だった、おれは愛と友情を切望してしりぞけられた。これは不正当ではなかったろうか? 全人類がおれに対して罪を重ねていたのに、おればかりが犯罪者と考えられるのがほんとうだろうか? その友を自分の家の戸口からたたきだしたフェリックスをなぜ憎まないのか? 自分の子供を助けてくれた者を殺そうとした田舎者をなぜ憎まないのか? それどころか、こういうものが有徳無罪な人間なんだ! おれのような、みじめな見すてられた者は、できそこないで、はねつけられ、けとばされ、ふみつけられるのだ。今でもあの不正義を思うと血がたぎりたつ。」
—『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著
「メアリー・シェリーの名前は、もっぱら『フランケンシュタイン』の作者として人々の記憶に残っている──と言いたいところだが、作品名ほど彼女の名前が有名ではないのも事実である。何しろ英文学科の学生でもフランケンシュタインは知っているが、メアリー・シェリーとは誰のことという顔をするのが昨今の実情である。おまけにフランケンシュタインは怪物のことだと思っている人が多い。フランケンシュタインとは、怪物をつくった博士の名前だと言うと、「そうなんだ」と納得するのがこのところの学生である。」
—『フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)』シェリー著
「しかし、創造主である神に代わって生命を生み出す試みは、現在ではますます現実のものとなりつつあるのも事実だろう。いやそれどころか、すでにクローンが次々につくられている今日では、人間を人為的に生み出すことも夢ではなくなっている。その試みがいかなる結果を招くか、それはまだ誰にも想像がつかない。ただしその一端を知りたければ、日本生まれの小説家カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』( Never Let Me Go、二〇〇五年。邦訳は土屋政雄訳、二〇〇六年、早川書房)を読むことをお勧めしたい。 いずれにしても人造人間の誕生が現実に近づいている今日、『フランケンシュタイン』という作品はますます現代的な小説となりつつある。だとすれば、こうした時期にこの作品の新訳を出すのはまさにタイムリーなことではないかと、少なくとも訳者は考えている。」
—『フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)』シェリー著
「一七九七年ウィリアム・ゴドウィン、メアリー・ウルストンクラフトの娘として、八月三〇日にロンドンで生まれる。父ゴドウィンは、自由主義思想を唱え『政治的正義』などの著書を持つ思想家であり、小説家としてもゴシック小説『ケイレブ・ウィリアムズ』を書いたことで知られる人物。母のウルストンクラフトは女性の権利拡大を訴えた急進的思想家で、『女性の権利の擁護』などを出版した文筆家だったが、メアリーを出産後に死去。」
—『フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)』シェリー著
「「フランケンシュタイン」の名前は多くの人々に知られているが、この小説を実際に手にとって読んだ人はそれほど多くはないかもしれない。解説でも触れたように、フランケンシュタインの名前が人々の記憶に残っているのは、もっぱら映画の影響によるところが大きいからだろう。」
—『フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)』シェリー著
「フランケンシュタインの怪物は、身長八フィート、つまり二・五メートルにも近い黄色い肌の怪人として描かれているが、これは、そうしたユダヤ人への恐れを象徴化したものであるという説があるのだ。本書の中でフランケンシュタインの友人であるアンリ・クレルヴァルは「無名のまま人生を終えてたまるかと思い立つや彼は東洋へと目を向け、そこにおのが冒険心の躍動の場を見出した」と書かれているが、この東洋という世界は英国人にとって、まだまだ開拓すべき未知の世界だったわけである。 こうした異人種への畏怖については、『フランケンシュタイン』と並んでゴシック・ホラーの名作に挙げられる『吸血鬼ドラキュラ』にしても変わらない。ドラキュラ伯爵は作中で、英語を身につけてロンドンに上陸しようとする得体の知れない東洋の怪人として描かれており、自らの英語の学習については「ロンドンで外国人だと思われることがないように」と、物語の筋道からは不必要なのではないかと思えるほど、自分が話す英語の発音や言い回し等々を気にかけている。これは、同じく言語を習得して人間社会に入り込もうとするフランケンシュタインの怪物と、よく似た構図であるといえるだろう。ドラキュラ伯爵は「言語を身につけてロンドンでなにを企むか」という不気味さが、そしてフランケンシュタインの怪物は「言語を身につけて創造主になにを訴えるか」という謎めきが、読者にページをめくらせる。」
—『新訳 フランケンシュタイン (角川文庫)』メアリー・シェリー, 田内 志文著
「いわば、この両作品においては言語の壁というものが、大きな鍵になっているのである。それを踏まえれば、やはり異文化への畏れがこうした怪物の姿となって読者たちを震え上がらせたのに違いない。無論、この二作が、反セム主義のプロパガンダ作品として書かれたなどとは断じて思わないが、この時代の「恐怖」の雛形としてそれがあり、それが怪物たちの特徴や造形にまで及んだということは大いに考えられる話であるし、多くの読者を得たことの裏にはそうした恐怖を大衆が共有していた時代背景があったと見るのが自然だといえるだろう。」
—『新訳 フランケンシュタイン (角川文庫)』メアリー・シェリー, 田内 志文著
「次に面白いのは、本作品が単純なホラー小説であるだけでなく、当時の最先端である科学知識がふんだんに盛り込まれた SF小説でもあることだ。作中に、電気とガルバーニ電流について熱く語る自然科学の権威が登場するが、電気と生命現象との関連が強く指摘されだし研究が進んだのは、本書が書かれる直前の、一七〇〇年代末のことである。その天啓を受けたフランケンシュタインが「人間創造」という偉業への熱意を燃やすことになるのだが、これは同時に、イートン校在籍時代から生理学に強い情熱を抱いたメアリー・シェリー自身の夢想でもあったのだろう。本書には、稲妻に関する記述が多く見受けられるが、これもまた、十八世紀から十九世紀にかけて大きな飛躍を遂げた「電気」という新たな研究分野とその神秘に対する、メアリー・シェリーの関心と憧れの表れなのではないかと思える。そういう意味では、非常に実験的かつ冒険的な意欲に富んだ、画期的な小説だといえる。」
—『新訳 フランケンシュタイン (角川文庫)』メアリー・シェリー, 田内 志文著
「 この、互いに無自覚のうちに刻みつけてしまった一点の深い憎悪の亀裂ゆえに、相手の理屈は分かっても永遠に溶け合おうとしないふたりが描く人間模様は非常にリアルで切ない。だが、フランケンシュタインの亡骸の前で「ああ、フランケンシュタインよ! 寛容と献身の人よ! 俺が今さらお前に許しを請うて、いったい何になろう?」と怪物が涙を流したのは、やはり本心からなのだろう。それを欺瞞だと断じるウォルトンに対し「それは違うぞ」と怪物が応える場面が終盤にあるが、これは、第三者には決して理解することのできない愛情が、怪物とフランケンシュタインの間には──少なくとも怪物からフランケンシュタインに対しては──あったということなのではないかと思え、非常に切ない気持ちにさせられた。フランケンシュタインと怪物との間には、創造者と被創造者という、他者が決して立ち入ることのできない絶対的かつ神聖な繫がりがあり、だからこそ、ふたりは強烈な憎悪の炎を燃やし合うのである。ここには、すべての人間関係に対する普遍的な問いかけが横たわっているのではないだろうか。」
—『新訳 フランケンシュタイン (角川文庫)』メアリー・シェリー, 田内 志文著