あらすじ
若き科学者ヴィクター・フランケンシュタインは、生命の起源に迫る研究に打ち込んでいた。ある時、ついに彼は生命の創造という神をも恐れぬ行いに手を染める。だが、創り上げた“怪物”はあまりに恐ろしい容貌をしていた。故郷へ逃亡した彼は、醜さゆえの孤独にあえぎ、彼を憎んだ“怪物”に追い詰められることになろうとは知る由もなかった――。天才女性作家が遺した伝説の名著。
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無責任に産み出された命の苦しみを描く。いつまでも親を恨み、同時に親の愛を求め続ける怪物は、現実に存在するアダルトチルドレンや、愛に飢えた子どもたちを想起させる。命を産み出す以上は、どんな子であれ幸せにしようと尽くし、溢れんばかりの愛を注ぐ覚悟を持つべきだ。でなければ、出生への恨みと愛に飢えた、恐ろしくも悲しい怪物と化す。作者本人が、愛に飢えた幼少期を過ごし、命を産み出す能力を持つ女性だからこそ、描けたのだろう。不朽の名作、ここにあり。
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芹澤恵さんの美しい訳に導かれるように、久しぶりに夢中になって読んだ。
最後まで自分のことしか考えないヴィクター・フランケンシュタインと、ただ愛されることだけを望む「怪物」。
怪物のような愛への渇望が、他者への興味が、ほんの少しでもヴィクターにあったなら、結末は変わっていたと思う。
姿かたちで人の内面を判断する軽薄さが最後まで悲劇をもたらすところも秀逸。
「人を見た目で判断してはいけません」なんていうつまらない教訓ではなく、そうした軽薄さがどれほど深く人の心に巣食っているかを描き切る冷徹さがかっこよかった。
さまざまな作品の下敷きになるのも納得の、不朽の名作。
前人未到の場所への好奇心、名誉欲と傲慢、愛への渇望。
作者と話してみたい~~~~~~~!面白かった~~~~~~~~!
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フランケンシュタイン博士という科学者が、外見が醜く、身体能力が高く、感情と知性を持つ「怪物」をつくる。しかし、博士は、その外見を見て恐ろしくなり、逃げてしまう。怪物は、人間と関わろうとするが、その外見からひどい目に合う。そこで、自分と同じような醜い伴侶がいれば、自分の孤独も癒えるだろうと思い、博士につくってくれと頼むが、博士は二人が協力して人類に危害を加えるのではと考え断る。博士の周りの人間から始まり、最終的に怪物も含め全員死んでしまう。
フランケンシュタイン=怪物のことだと思い込んでいたが、つくった博士の名前だったとは驚いた。
博士は無責任だと思った。自分がつくったものを放り出し、噛みつかれたから被害者面。無責任にペットを捨てることとやってることは同じだと思った。
怪物は善行をしても醜いから人間から嫌われ、孤独になる。怪物はできることを全てやって、どうしようもないから博士に伴侶をつくってくれと頼んでいるのに、梯子を外すのはいくらなんでも酷いと思った。
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小学生時代、学校の図書室にあった児童向け版を読んでから、20年以上ぶりに読み返したら、胸に迫る原作の緻密な描写に改めて圧倒されました。
人間の立ち入ってはいけない「禁忌」の境界線、自分という存在は一体何のために生まれてきたのかという人間の命題、外見から起こる差別など、200年以上前に書かれた作品であることが信じられないくらい、現代にも通じるテーマが多く取り上げられた文句なしの名作です。
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青ざめた四角い顔に目の上のコブ、醜い図体、というのがフランケンシュタインのイメージで漫画のキャラクターぐらいの印象しかなかった。 ところが英語の本の愛読書のランキングに必ず出てくる。 ??ということで本を読んでみることにした。
結果、誤解していたことが一つ、フランケンシュタインは怪物の名前ではなく、怪物を創造した科学者の名前だった。 そして意図してつくった人工人間が意図せず怪物となったことによる、とんでもない悲劇が展開していくことになる。 悲劇と言ってしまえば一言で終わってしまうけれど、愛と憎しみ、欲と虚栄心、など深いテーマが隠されている。 そして、何よりもAIブームの入り口にいる現代人に、自分で制御できないものを作ってしまった結末みたいなことも警鐘されていると感じた。 二百年前に書かれたとはいえ、普遍のテーマを扱っているので全く色褪せた感じがしなかった。 ハイティーンの若者にも、大人になってしまった人にもおすすめです。
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原題も"Frankenstein"、初出は1818年。
フロストシリーズで毎度テンポの良さとユーモアに富んだ訳で唸らせてくれる芹澤恵さんによる新訳。芹澤恵さん、こんな古典ものの翻訳もされているのねー、これからも色々と読みたい訳者さん。
書かれたのが200年前というのがまず驚くし、作者は執筆当時、20歳の女性だったということにまた驚く。ちなみにメアリーは17歳のときに妻のいる男性と駆け落ちし、駆け落ちの旅行中で本書を執筆した。その妻が自殺して20日後に結婚したらしい。スキャンダラスすぎるし、今の時代からみても倫理的にどうなんだと思う。しかし本書の序文には、「筆者の主な関心は…(略)、家族の愛情の尊さと普遍的な徳の素晴らしさを示すことにある」なんてあったりもする。前妻が聞いたらキレそう。
そういえば確か、ミドルマーチやジェイン・エアの女性作家たちもなかなかの経歴だった。当時の女性作家たちが、常識の枠にとらわれず、想像の翼を広げる人たちだったからこそ世に出た作品群なのかもしれない。
メアリーのことはおいといて、フランケンシュタインである。これが、驚く完成度の高さ。古さを全く感じさせない。めちゃくちゃ面白くてびっくりする。人造の怪物として名前は知られているけど、実は怪物に名前はなく、フランケンシュタインは、この怪物を生み出した科学者の名前である。
北極点到達のため、船で探検の旅に出ていたロバートは、北極海で瀕死の青年を救出する。その青年がフランケンシュタイン。彼は何故北極海を彷徨っていたのか、その理由を語るのだ。
彼は生命の謎を解き明かし、人間のように複雑で素晴らしい生き物を作り出すという研究にのめり込む。しかし自ら作り出した人工の肉体に生命を吹き込み完成させたい結果、あまりにも醜い異形の怪物だった。
恐れをなしたフランケンシュタインは体調を崩す。怪物がいつのまにか研究室から抜け出ていたのを野放しにしたまま、故郷のスイスに逃げ帰る。
しかし、故郷では愛しい弟が何者かに殺される事件が起きていた。さらには、家族のように接してきた善良な娘が捕まっていた。あの怪物の仕業だと思うフランケンシュタインだが、恐ろしい研究のことを言い出すことができず、無実の娘が死刑になることに苦悩する。
そしてついに邂逅することとなったフランケンシュタインと怪物。創造主から見捨てられた怪物は、苦難の旅を続けながら、ある一家の暮らしをつぶさに観察して言語や愛情を学ぶものの、その容姿ゆえに人間には受け入れられず、孤独感を募らせていた。怪物は、フランケンシュタインに、自分の伴侶となる異性をもう一人作って欲しい、この願いが叶えばもう二度と人前には現れないと約束する。
もう一人の怪物を作る手筈を整えるフランケンシュタインだが、土壇場で、人類に禍をなすことを恐れて破壊する。怒った怪物は、フランケンシュタインの大切な者を殺していく。
怪物を退治するために追っていたフランケンシュタインは、ついに北極海に辿り着いたのだが…。
色々なところで見聞きしたことのある怪物の恐ろしげな容姿が脳裏にあるのだが、私が一番感じたのは、この名もなき怪物が可哀想だなということ。
生まれたての子供のように純粋で、知性もあり、愛情を欲しているのに、誰からも受け入れてもらえない怪物の孤独感、「自分は何者か」という苦悩、唯一の理解者たり得るはずの創造主からすら見捨てられたという絶望感。
大切な者たちを殺されたフランケンシュタインの怒りはもっともでもあるけれど、怪物を創造したことで彼が感じているのは人類に禍を引き起こすことの責任だけで、怪物の未来への責任などではない。禍々しいと断じ、死しか望んでいない。これでは本来的には怪物でなかったとしても怪物になってしまうよね。
最後まで息つかせぬ展開。はっきりとした描写ではなく、読者の想像に委ねられている部分もあるラストだった。
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見た目、才能、コミュ力、収入、学歴、親ガチャ、、
本来なら他人を傷付けることなんてないはずの優しい人でも、社会からの孤立や孤独、貧しさ、わびしさ、絶望を感じ続けた結果、恐ろしい怪物になる。
昨今の「無敵の人」を連想せずにはいられない。
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恐ろしくも美しく、身勝手で哀しい物語。
最期の怪物のセリフは、心からの叫びとして胸に突き刺さる。
俗っぽい言い方をするなら…、
「ただし、イケメン(≒容姿普通以上)に限る」。
作中幾度となく人間のもつ性善説的な描写に出くわすけれも、それも相手の容姿ひとつで簡単に翻ってしまう。
心地よい登場人物たちの交流が、怪物の存在から途端に軽薄なものにも見えてしまう。
ここまで性善説的な美徳と、偽善的な見方と、迫害される側の哀しみが同居しているのはある意味面白い。
風景描写はとにかく美しい。それがまた怪物の容姿や恐怖、悲哀を際立たせる。…この手法、むごい。
それにしても…。
怪物に対して「フンガー!」(cv.兼本新吾)と、西洋妖怪軍団の脳筋キャラを植え付けてしまった日本アニメの罪は大きい…。
(藤子先生、水木先生のせいばかりじゃないけどさ)
これほどかわいそうで、かなしくて、時に優しくて、魅力的なキャラはいないのに~。
さて、こうして読破して原作勢となった今。
原作準拠の怪物を日本アニメでも出すことを強く要望する!
根は優しくて、力持ち。
さらに西洋文学にも通じた、読書家で勉強家。
戦えば強いけど、物事を論理的に考えられる。
でも自暴自棄になると手がつけられない、過激な寂しがり屋。毒親を憎みつつも、彼から親としての愛情をほしいと思っている…。
ん?主人公キャラ?
なんにせよ、彼ならば、西洋妖怪軍団のよき参謀役となるでしょう。
そして、奇妙キテレツな容姿の日本妖怪に馴染みのある日本の子供達とは、きっと仲良くなれるでしょう…。
…という、夢想をついしてまうくらい、いいキャラです。
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怪物誕生は何を意味するか。『フランケンシュタイン』は、子供を産むことに対する母親の不安を描いた「出産神話」であるとする考察がある。確かに、作者メアリは、自身の誕生により母親を亡くし、彼女自身も度重なる流産を経験していることから、出産に対するトラウマを怪物誕生のドラマとして具現化したと考えることも十分可能であろう。そのような観点から見ると、他の小説には無い独創性を持つ作品だと感じられる。
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外見はともかく、内面の醜さは圧倒的にフランケンシュタイン本人が勝ってた。
悪意なくただ純粋に繋がりを求めたバケモノが荒んでいく回想は胸が締め付けられた。
交渉するための対話も、終始バケモノの言い分が筋が通っているように感じる。
関係ないけど、Fate Apocryphaのフランケンシュタインは原型を留めていない程に美化されているなあと。
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フランケンシュタインは、怪物を造った科学者の名前である。常軌を逸した熱情に駆り立てられて墓場から掘り出された死体をつなぎ合わせ、電気ショックによって生命を与え怪物を誕生させてしまう。怪物は姿は醜いが思慮深い。しかし最後まで名前もない。可哀想なのだ。言うなればこの科学者は、誕生させた赤ちゃんをネグレクトしたのではないか。などと次々と本書のテーマがあるように考えられる。
旅行記のようにヨーロッパ中を壮麗な光景が眼に浮かぶように描写してあることも読み応えたっぷりである。文学的であり芸術的である。
もしかして心優しいエリザベスが怪物のよき理解者、友、母親的になったかもと思うのだ。ヴィクターの対処がよければ。
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怪物がどんなに「愛されたい」と望んでも、誰にも愛してもらえないということが胸に突き刺さった。
何も悪いことをしていなくても、そのおぞましい見た目のせいで憎まれてしまう。
もし博士に仲間を作って貰ったとしても、やっぱり人間に復讐しようと思う可能性は否定できない。
生まれた時から憎まれる運命にあった怪物。
人間の愚かさを突き付けられた。
怪物が博士の死を見届けた後、最後は自分で炎に身を投げてやっと苦しみから逃れられるのだと思うと本当に切ない…。
人に勧めたい本。
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誰しも一度はその名を聞いたことがあるであろう、まさに「不朽の名作」である本作。「生命の創造」をテーマの中心に据えて綴られる物語は、科学及びAIが急速に進歩する現代に対し、まさしく警鐘を鳴らしているように感じられる。つい最近のニュースで、いわゆるデザイナーベビーの誕生を防ぐための法整備が行われたことを知った。今作における博士と怪物のように、生命を創った側も創られた側も不幸に陥ってしまうことを考えると、この世に悪鬼が誕生しないことを心より願わんばかりである。
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『フランケンシュタイン』を読んで特に印象に残ったのは、孤独と禁忌のテーマ
ヴィクターは生命を創り出すという禁断の行為に没頭するあまり、家族や友人から離れ、精神的に孤立
一方で、モンスターはその姿のために人間社会から拒絶され、深い孤独を抱える。
この二人の孤独は悲劇を生む原動力となっており、人間の倫理や他者との関わりの大切さを考えさせられる。
孤独や禁忌がもたらす悲しみと、人間としての責任の重要性を強く実感
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悲しい話だった。
医療が発達していろんな延命治療がある世の中と重なり、どこまでが良い治療なのか、エゴなのかってそのうちわからなくなりそうだなぁとぼんやり思った。
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1994年にロバート・デ・ニーロ主演で公開された「フランケンシュタイン」
公開当時に劇場で観た後に原作を読んだ記憶
30年前に読んだ内容は記憶から綺麗に消えて、まるで新しい本を読んだ気分
映画と本がかなり違う印象を受けた事だけは記憶していた
世の中に溢れるフランケンシュタインのイメージは造られた怪物
しかし本当はフランケンシュタインとは怪物を造りあげた博士の名前
なぜこのような間違いがこんなにも世の中に浸透してるのかが不思議で仕方ないけど、きっと映画のせいですね
命を創り上げたい熱情に浮かされたフランケンシュタインは運悪く、奇跡的に成功してしまう
フランケンシュタインの物語は「命を創造する」事に対する警鐘と責任の重さを現代のクローン問題に当てはめる事ができる
作家が物語を生み出した時代になかった科学技術を人類はすでに手にしてしまった
表には現れずに人知れず産まれ、すでに存在しているだろう新しい生命
彼らが怪物と同じ思いをしながら生きている事を想像する
科学者の偏狭的な情熱がなければ新しい技術はけして生まれないだろうし、その技術が人類を進化させる
進化に伴う痛みと悲劇
産まれた技術を使う者達は、その技術で悲劇をけして産まない覚悟をもって挑めているのか
否
新しい技術を使った結果、導き出される未来が見える者などいないのだ
神の視点を持たない人間が生み出す新しい技術
それは常に悲劇を伴う
オッペンハイマーのように
#映画化
Posted by ブクログ
伝説的怪物の出る、フランケンシュタインを読み終えました。好きな漫画家がこの作者を題材に作品を書いていて、友達も読んだというので読んで見ました。内容は悲しみに満ちていて、色々な歯車の掛け違いが最終的な結末になるのだなと思いました。恐怖というより、悲壮。フランケンシュタインは怪物の想像主で、このフランケンシュタインの作者は女性であるということに驚きました。漫画を読んだ時に驚きました。
Posted by ブクログ
全てが詰まってたし、新しく感じる。
古典はすげぇなぁ。
映画と全く違う。
・再生の構造は伏せられてる
錬金術を求めていたフランケンシュタインが科学に行き着く過程は時代によって信奉される基軸が変わっていく成り変わりを表現
そもそも別の主人公がフランケンを見つけ出すという過程の語り。幽霊譚。ラストで怪物が合流して初めて目視する。
名前さえもない怪物はここが元ネタになっていたし、彼が言葉を段々と覚えていく過程は『哀れなきものたち』の意味がよくわかるパート。
・めちゃくちゃ喋るのだけど、めちゃくちゃ喋れるからこそ切ない!1人目の少女は濡れ衣だったり、自分がどのような人生を送っていたか?を語るのが…
・自分が生み出してしまった怪物が周りを殺していくという呪い、はエイリアン3の元ネタにも近いし。地縛霊だし、これが呪い。浦沢直樹『モンスター』にも通じてくる。パクったとかじゃなくて、この物語構造はこの時代にもうすでにやってたという。
怪物からしたら父親殺しの物語。
父親が子を殺すためにひたすら追いかけ続けるというこの構図は再映画化してもらいたい。
Posted by ブクログ
フランケンシュタインとは、怪物のことではなかったのか。
怪物を生み出したのだから、人間であり、怪物でもあるのか。
周りはこうなのに自分はどうだ、
それは不幸の道に足をかけてしまっている証だ。
Posted by ブクログ
フランケンシュタインや怪物が登場するたびに読書スピードが上がり、止められなくなる。
怪物の、「理解されたい」「愛されたい」という感情は本当に切実に胸に迫る。マイノリティどころではなく、ただ一人、生み出された怪物なのだから。
フランケンシュタインの、どうしようもなく利己的なところに憎しみと共感を覚える。自分のしでかした罪の深さと、自分の愛する人たちの死は別物に思え、自分のしたことは棚に上げて、悪魔を葬り去ることこそ使命だと復讐に燃える。
自分が「命さえ創造することが出来るのではないか」と思った時、自分で自分を止められるだろうか。
取り返しのつかない失敗をしてしまった時、自分も現実逃避してしまうだろう。
「相手を殺して自分も死ぬ」と他人事のように言えばしない。
怪物は最後、愛されているわけではないと知りながらも、どこまでも追いかけてくるフランケンシュタインに愛情を感じたのではないか。
フランケンシュタインが失敗したのは実は外見だけだった。ということに気が付かないのか。
全体的にリーダビリティが高くグングン読まされる話だったが、新訳にしては訳文が少々古臭い。華燭の典とか、伝わるか?中学生にも読ませたいけど、そこだけが難点。
Posted by ブクログ
映画未見。断片映像でちょっとみたことあったくらいだから読んだときにこんなに怪物に知能があるのかと驚いた。
愛されない怪物かわいそ…勝手に映画の映像でB級ホラーかと思っていたが全然違う
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廣野由美子著『批評理論入門』を読むために、まずテクスト『フランケンシュタイン』を。創造者フランケンシュタインの身勝手によって、不幸な生を生きることを強いられた怪物の姿が哀切。北の氷原を犬橇を操りながらフランケンシュタインの追跡から逃れている日々こそ、誰からも愛されず関心を持たれなかった怪物にとって幸せな日々だったのではあるまいか、と思わされた。こんな傑作を弱冠二十歳の女性が書いたのか! さあ『批評理論入門』読むか。
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「知識を得るのがいかに危険なことかを知っていただきたい。人間として許された以上の存在になろうという大それた野心を抱くよりも、生まれた町が全世界だと信じて暮らしている者のほうが、はるかに幸せだということを理解してほしいのです。」
Posted by ブクログ
読んだらガラッと印象が変わりました。こんな話だったんだ!と結構な衝撃。少しの愛情さえあれば全然違った方向に進んでいたのではないか。救われる方法が何かあったのではないか。モヤモヤが拭えなくて心揺さぶられる。読んだそばから再読したくなる素敵な一冊。
Posted by ブクログ
読もうと思ったきっかけは
「女の子のための西洋哲学入門」
第9章「技術一経験と媒介された現実」にて
引用されていたから。
まず、さきに挙げた本に照らして読むのであれば、人工知能がもたらす害(善として行われる中にある害というべきかも)についての警鐘のように読むことができる。
無邪気にそれを手足のように用いることについてや、ヴィクター側、つまり産み出した側の「倫理観」の欠如など。
現代であればクローン技術や、豚の内臓をヒトに移植すること、今では当たり前に行われる人工授精、AIのアルゴリズム。
また、ルッキズムと差別の極致でもある、といえるかもしれない。美しい内面には美しい容姿が備わって然るべき、という書かれ方。そもそも「怪物」なのだから恐れられるのだが、「違う見た目」への強烈な偏見としても読める。知性も感情も、人間と同じくらいかそれ以上に成長していくのに、ただただその醜さゆえに迫害される怪物は、あらゆるもののメタファーとなり得る。自分が怪物に出会ったら?もしくは産み出された側だとしたら?周りの人と「違った」ら?
アメリカでは移民排斥によるデモが過激化。トランプは彼らを「動物」と呼んだ。イスラエルのガラント国防相は、パレスチナの人々を「人間動物」と呼んだ。
怪物は作中、「人間はどうしてわざわざ仲間を殺しにいくのか」と思っていた。この辺りのニュアンス、今までもこれからも読まれていく所以なんだろう。
純粋に物語として読むと、古典なのでストーリーは今となってはありきたりではある。
初めて原作を読んでみてびっくりしたのは、構成の面白さで、
⚫︎ウォルトンが姉に宛てた手紙
⚫︎ヴィクターの独白(をウォルトンが聞き書き)
⚫︎ヴィクターの独白のなかの怪物の独白
およそこの三つで成り立っていて、それがこちらに語りかけるような感覚を与えてくれて良かったし、特に怪物がヴィクターに拒絶され、ひとりで彷徨う様子、言葉や感情を本や善良に思える人々を観察することで獲得していく過程が非常に丁寧で一番好きな場面だった。そのぶん、後半の圧倒的な哀しさが増す。とにかく、哀しい。
完全な孤独、自分で自分を一番憎む心の有り様は、怪物が言うように怪物にしか絶対にわからないんだろうと思う。
「おまえの憎しみなど、おれが自分を見つめるときの気持ちに比べたら、何ほどのものでもない。」
Posted by ブクログ
作者の自分語りに始まり、フランケンシュタインでも怪物でもない第三者の話が延々続くかと思ったら、お二方が犬橇で登場。当時としては妥当な移動手段なんだろうけど、怪物が犬橇ってのは気が抜ける。
自己中心的で異様に考えの浅いフランケン、冗長な観光描写、面白くなりそうな怪物創造過程は「頑張ったらできました」程度。
こんななのに、排斥され追い詰められた怪物の独白だけが異様にリアル。ほんとに20歳で書いたのか?
Posted by ブクログ
『世界こわい話ふしぎな話傑作集1イギリス編ーーフランケンシュタイン』
山主敏子訳・文
『危険な世界史』から読みたくなって。
いのちを与えたことでなく、それが醜いものであったことで招いた悲劇。
そう、ただの容姿の問題。
つくった"それ"は恐ろしいことをしでかしたが、そうさせた考えは、先天的なものでなく、つくられた後に不幸であったから。
醜く、誰からも愛を受けなかったから。
それはビクター・フランケンシュタイン、つくった本人も認めているのに恐怖や怒りに負け、ヤツとの約束も破る。
そして悲劇が加速されてしまったのだった。
Posted by ブクログ
1818年出版ってことにまず驚いた、そんなに昔の作品なんだ。翻訳がいいのかそこまで古さは感じないで読めた。
古典モンスターホラーのイメージだったけど、それは映画版のイメージのようで、原作は怪物に同情しかできない悲劇だった。
怪物を作ったフランケンシュタインがメンタル弱弱のくせに無駄に行動力はあって、でも自分の事しか考えていないから周りに不幸を振り撒くのが最悪。
むしろ怪物の方が冷静でフランケンシュタインに正論を吐いて説教し、更には建設的な提案もする。それでも見た目の醜さから全てを否定され結果として誰もが損をする展開に至る。
生命を創造することの責任、差別と偏見の愚かさなど現代でも通じるテーマを描いてるから、古典として残っているのも納得。