『しかし、たいていの人は、古池がどこかの古寺にでもあって、その周囲にうっそうとした木々が生えている景色などを思い浮かべてしまう。そして、その静謐な雰囲気のなかで蛙が生んだ水の音が聞こえてくる、と想像する。つまりは、蛙の音は古池の周囲に広がる静寂を際立たせる仕掛けのようなものだと見なしてしまう。だが、本当の主役は蛙の音であって、古池の静けさではない。人が主客を取り違えてしまうのは、推論による分析をするからだ。つまりは、「意識の尺度」でこの句を測ろうとするからだ。そう鈴木は断じる。むしろ、この句の本当の狙いは、そんな意識の尺度自体を破壊することにある。人を意識の外側へ、思考不能の領域へ、あるいは無...続きを読む 時間のある場所へと連れ去ることだという』―『第3章 バナナとリンゴ』
ちょっと長い前振りになるが、中学生の頃に大塚博堂が「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(1976年発表)という曲を歌っていたのを思い出した。歌はテレビで「ジョンとメリー」(ダスティン・ホフマンとミア・ファロー主演)をやっていたのを見た、と始まるのだが、なれなかった、と回顧しているのはそちらの映画ではなく二番の歌詞に出て来る「卒業」の方だ。余りにも有名な教会から花嫁をさらっていくラストシーンに自分の過去を重ねて、ダスティン・ホフマンみたいに君を奪いさればよかったのにと後悔している男の歌だ。卒業は1978年のテレビ初放映なので、まだテレビで見たよとは言えなかったことになるのだが、歌の主人公はかつての恋人と映画館に観に行ったことがあるという設定になっている。日本での公開は1968年。歌は1976年なので8年程が過ぎた計算だが、かつての恋人には既に子供が二人いるということ知って落ち込んでいるのだ(計算は一応合う)。しかし、ご存じの通りラストシーンで流れるのはサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。二人の未来は明るいと決して予感させてくれる曲ではない(何しろ、Hello darkness, my old friend と始まるのだから)。実際、満面の笑みでバスに乗り込んできた二人は最後尾の座席に着く頃には周囲の人々の奇異の目に押し潰される様にして(何しろエレーン(キャサリン・ロス)はまだ花嫁衣裳のままなのだ)押し黙り、やがて互いに目を逸らすようにして真顔になったところで映画は終わる。これは何かあるなと誰でも思う筈だ(えっ、思わない?)。
映画をじっくり観ると、ベンジャミン(ダスティン・ホフマン)を誘惑しねんごろの仲になるエレーンの母親ミセス・ロビンソン(アン・バンクロフト。サウンドトラックのLP盤ジャケットにはその何とも淫靡な脚が写っている)は結婚前にベンジャミンの父親と付き合っていたらしいことが解る。それにエレーンと付き合いたいと言うと、それだけは絶対に駄目だと頑なに反対する。そう言いながらベンジャミンが父親の若い頃に似ているとか言ってみたり、そもそも何故ベンジャミンを誘惑したのか曖昧だし、エレーンの両親の結婚が今から思えば妙に慌ただしかったという第三者の証言も出て来る。この辺りの状況証拠を整理して、仲の良かった「ぴあ」友にエレーンとベンジャミンは異母姉弟なのではないか、という説を熱く説いた。その友人は納得していなかったけれど、自分としてはそう読み解いてみた後で再放送された映画をもう一度観てやっぱりと腑に落ちたことを覚えている。こういうのは、因果関係を解いていく推理小説みたいな話で面白いし、この映画に限らず小説や歌詞に秘かに込められた意味を探る話は枚挙に暇がないだろし、サリンジャーというある意味謎の小説家の作品に関しても同じような解読を試みる人々は多いだろうことは理解できる。この本は、そんな本の一つだが、シャーロック・ホームズばりに細かな証拠を拾い集め、思ってもみなかった深い読みが披露される。その件[くだり]は、コロンボか古畑任三郎(あるいはポアロと言うべきか)が見せるような種明かしのようで、戦慄的で刺激的だ。
「まえがき」から「序章 シーモアの予言」に至るまでの著者竹内康浩と朴瞬輝の読み解きは、まさに推理小説の探偵が読み解く殺人事件(最初の事件は「バナナフィッシュにうってつけの日」のシーモアと思われる若い男の拳銃による自殺事件)に対する推理のようだ。サリンジャーが仕掛けた細かな伏線が見事に回収されていくのを聞かされるのは爽快ですらある。サリンジャーを読む時にいつもつきまとっていた「解らなさ」はそんな風にして読み解かれ得るのかと衝撃を受ける。しかし「第2章 両手の音」でサリンジャーと禅の関係が語られ始める(えぇっ、芭蕉ってバナナのことなの?)と、そんな「因果」に基づく読み解きに対する強烈な否定が示され、ことは一気に形而上学的な「時間」あるいは「存在」問題へと発展する。論理的な展開の爽快さに身を任せていると、ここで一気に置いてけぼりな気分を味わうことになってしまう。しかもその理屈は簡単には呑み込めない類の、禅の境地を基にしたものなのだ。
ここでふと、そんな風に解釈することの是非を考えてしまう自分もいる。例えば、天才と称されるスタンリー・キューブリックの撮った「シャイニング」にも多くの謎かけがあると言われるけれど、その話題を物凄く掘り下げた「ROOM237」という映画では、何人かの熱心なキューブリック教徒が細かな設定に隠された意味を読み解いて見せる。もちろん、キューブリック自身は何も語ってはいないし、何が真実か(そもそもそんな隠された意図があるのかどうか)は判らない(そこにはキューブリック程の天才が何かを「うっかり」置いたり計算間違いするようなことはない、という前提が置かれている点に注意。同様にサリンジャー程の作家がうっかり何かを書くとは思えないという暗黙の前提が本書にもある)。何より、同じ場面を観てもそれが何を意味するのか解釈は分かれるのだ。確かに多分に思わせぶりなところがあるとは思いつつ、サリンジャーが何を意図していたのか、そしてそれを読み取れないことが決定的に個人の読みを破壊するものなのかと問われると、答えに窮するだろう。もちろん「卒業」に対する自分の解釈は今でも変わらないけれど、そう読み取らずに観る人にとって「卒業」は無意味であるとは自分はとても言えない。そこから何を読み取るか、それはウンベルト・エーコが主張した「開かれたテキスト(作品)」という考え方に示されるように自由な筈だ。もっともそう言いながらエーコの作品には知識を前提(鍵)とした読み(扉)が幾つもあったりはするけれど。
『一生懸命に的に狙いを定めるようなことはしない。目をほとんど閉じてしまっている。それは人間的な意図を排した射である。だが、ここで阿波は、単に狙わないことを説いているのではなく、その先の出来事も語っている。的は次第にぼやけ、ついには射手である自分と的が一つになるという。つまり、自己と対象の距離がゼロになるという境地である。射手と的が一体なら、射手が的を射貫くとき、射手は自分自身をも射貫くことになる。阿波はそのような射を「一射絶命」と表現したという。この境地に達したとき、射る者は同時に射られる者になる。当然そのとき、射手から生と死の区別は消えてなくなる。それを阿波は、生きながらにして仏陀と一つになると言ったのかもしれない』―『第2章 両手の音』
「射る者は射られる者になる」という言葉からは、たちまち蜂飼耳の詩集「食うものは食われる夜」が思い起こされる。その詩集に「鹿の女」という詩があるのだけれど、それはまさに阿波研造の言う「一射絶命」の境地を詠ったものだ。著者らの読みは推理小説のように因果関係に基づく「尤もらしさ」を越えて、作家サリンジャーの志向する禅による「悟り(半眼、隻手の音を聞く((聴く、ではない))、などの境地)」へと進んでゆく。それは、読解を現実の世界に落とし込む時の軋みも歪みも呑み込んでこそ辿りつく新天地ということなのだろう。確かにその読み筋は刺激的ではあるものの、シュレディンガーの猫の存在のように雲をつかむような話でもある。もっとも、アインシュタインの相対論を突き詰めるなら事象の前後の解釈すら相対的であるのだから、因果律にどこまでも拘るべきではないのかも知れないが。ただし、しょせん光に比して止まっているかの如く低速な我々は、ニュートン力学に囚われ、仏陀にも白隠禅師にもなれないのではあるが、、、。
『あたしは鹿のうちがわにその鹿皮のうちがわに/はいり とどまり はしりましょう/あたしはあした矢をえらび弾をえらんでとんでいく/そのとき ひゅいと笛がなり/(ひとはそれを仕留めるといい)/(あたしはそれを抱きとるという)/いきもののながれのはてへひきずられ/地下にむすぶ水密の汗 ここがあたしの新天地』―『鹿の女』より