宮本武蔵『五輪書』の100分で名著があまりに面白かったので、流れで買って長らく積読にされていたのをようやく読んだ。『風姿花伝』をもっと読み込んだ内容を期待していただけに、個人的には、微妙だった。冒頭、「マーケットを生き抜く戦略論」として読めるとして、ドラッカーの『マネジメント』にも書いてあることが600年以上昔の『風姿花伝』にも書いてあるということが言われているが、書いてあることが同じなら、『マネジメント』を読むかなと思う。現代を生き抜く知恵ではなくて、現代が完全に失ってしまった「能楽論」として読んでほしかった。
それでもやはり、内容として面白い部分はある。「初心忘るべからず」の解釈なんか、特に面白かった。
その時分々々の一体々々を習ひ渉りて、また、老後の風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり。(p50)
筆者も言っている通り、「初心」というと、昔の始めたばかりの頃の若い気持ちを忘れないというようなイメージもちがちだけれども、世阿弥が言っていたのはそういう意味ではない。「老後の初心」という言葉からも分かる通り、生きていれば、常にその時その瞬間が「初めて」なのである。
言われてみれば当たり前だけれども、50歳の誕生日を迎えた人にとって、50歳は初の経験である。世阿弥が言っているのは、今この瞬間は、常に初めてであるという心を忘れるなということなのだ。このあたり、原典を読む価値あるなあ、と思った。
さらに面白かったのは、「幽玄」の説明。
まづ、童形なれば、なにとしたるも幽玄なり。(p75)
「幽玄」といえば、何となく日本の古典の芸能が持つ雰囲気で奥深い感じがする。筆者によれば、古典よろしく、「幽玄」を定義する文というのはなく、何が「幽玄」であるのか、色々な具体例を挙げているらしい。そのうちの一つが上の文。
要するに、「十二、三歳ころの稚児の姿」は、その姿だけで「幽玄」らしい。ちょっとコトバンクで調べてみると、「幽玄」は、「能楽では、初め美しく柔和な風情をさしていったが、後、静寂で枯淡な風情をもいうようになった」とされて、一般的な意味として「物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま」と『デジタル大辞泉』に出てくる。絶対に違うと思う。
世阿弥自身、十二、三歳の頃に足利義満に見初められて出世したという。筆者も男色の話に触れているが、もっと直接的で、視覚的、身体的な感覚を持ったものだったんじゃないかと思う。
この辺り、ものすごく言葉のイメージが変わった。
というわけで、『風姿花伝』は、読んだらきっと面白そうだなぁ、と思うところはたくさんあった。ただ、いかんせん著者の能に対する愛と、現代にも通じるが強すぎて、乗り切れない。ラストの能楽堂に通おうと、能をプロデュースしようのくだりは、さすがに読み飛ばしてしまった。
「珍しきが花」「初心忘るべからず」「離見の見」「秘すれば花」など、一度くらいは聞いたことがある有名な文句を中心に扱ってくれているので、ちょっと詳しくなれる感があっていい。武術をかじっている人間からすると「序破急」とかも面白かった。そういったところだけ、つまみ食いするには、とてもいい本だと思う。