【感想・ネタバレ】NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝のレビュー

あらすじ

新しきが「花」である

室町時代、芸能の厳しい競争社会を生き抜いて能を大成した世阿弥の言葉は、戦略的人生論や創造的精神に満ちている。「秘すれば花」「初心忘るべからず」など代表的金言を読み解きながら、試練に打ち勝ち、自己を更新しつづける奥義を学ぶ。テキスト時にはない新規図版、ブックス特別章なども収載。

[内容]
はじめに マーケットを生き抜く戦略論
第1章 珍しきが花
第2章 初心忘るべからず
第3章 離見の見
第4章 秘すれば花
能と世阿弥 関連年表
ブックス特別章 能を見に行く
あとがき──テレビの後で

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珍しきが花。新しいものを取り入れていく、新しいものこそおもしろい。
初心忘るべからず。人生にはいくつも初心があること。老いてこそ、基本に忠実に、規範から自由になることができる。
離見の知。目は前を見て、心は後ろに置く。客観的に自分を見ること。
秘すれば花。勝負の波をつかむため、常に準備すること。自分を模倣しないこと。自分を壊していく勇気。乗り越えていく期待を持つこと。自己の更新を続けること。

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2023年08月12日

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世阿弥かっこいい。晩年の父親の姿を観て「これぞ」と評せる親子、あるいは師弟の関係もかっこいい。
著者の能への熱量も凄い。読んだら一回能を見に行ってみるか、となる。NHKオンデマンドには放送回がアップされてなさそうでした。残念。
ところで風姿花伝は世に出ましたが、世界にはまだ世に出ていない『先祖伝来の書物』みたいなのが脈々と受け継がれていたりするのでしょうか。ロマン。

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2022年12月17日

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ネタバレ

「風姿花伝」は「初心忘れるべからず」という言葉の元になった本なので、内容を知りたくて読んだ本。世阿弥の考えが、ドラッカーのイノベーションの理論と共通しているという話が印象に残った。この本を読んで「勝負事には切り札を用意しておく」というところが参考になった。「風姿花伝」は能について書かれた本だが、仕事や他のことにも応用できることが書かれていて読んで良かった。この本を読んで、能の世界のことを知ることができて良かった。

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2019年10月03日

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宮本武蔵『五輪書』の100分で名著があまりに面白かったので、流れで買って長らく積読にされていたのをようやく読んだ。『風姿花伝』をもっと読み込んだ内容を期待していただけに、個人的には、微妙だった。冒頭、「マーケットを生き抜く戦略論」として読めるとして、ドラッカーの『マネジメント』にも書いてあることが600年以上昔の『風姿花伝』にも書いてあるということが言われているが、書いてあることが同じなら、『マネジメント』を読むかなと思う。現代を生き抜く知恵ではなくて、現代が完全に失ってしまった「能楽論」として読んでほしかった。

それでもやはり、内容として面白い部分はある。「初心忘るべからず」の解釈なんか、特に面白かった。

その時分々々の一体々々を習ひ渉りて、また、老後の風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり。(p50)

筆者も言っている通り、「初心」というと、昔の始めたばかりの頃の若い気持ちを忘れないというようなイメージもちがちだけれども、世阿弥が言っていたのはそういう意味ではない。「老後の初心」という言葉からも分かる通り、生きていれば、常にその時その瞬間が「初めて」なのである。
言われてみれば当たり前だけれども、50歳の誕生日を迎えた人にとって、50歳は初の経験である。世阿弥が言っているのは、今この瞬間は、常に初めてであるという心を忘れるなということなのだ。このあたり、原典を読む価値あるなあ、と思った。

さらに面白かったのは、「幽玄」の説明。

まづ、童形なれば、なにとしたるも幽玄なり。(p75)

「幽玄」といえば、何となく日本の古典の芸能が持つ雰囲気で奥深い感じがする。筆者によれば、古典よろしく、「幽玄」を定義する文というのはなく、何が「幽玄」であるのか、色々な具体例を挙げているらしい。そのうちの一つが上の文。
要するに、「十二、三歳ころの稚児の姿」は、その姿だけで「幽玄」らしい。ちょっとコトバンクで調べてみると、「幽玄」は、「能楽では、初め美しく柔和な風情をさしていったが、後、静寂で枯淡な風情をもいうようになった」とされて、一般的な意味として「物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま」と『デジタル大辞泉』に出てくる。絶対に違うと思う。
世阿弥自身、十二、三歳の頃に足利義満に見初められて出世したという。筆者も男色の話に触れているが、もっと直接的で、視覚的、身体的な感覚を持ったものだったんじゃないかと思う。
この辺り、ものすごく言葉のイメージが変わった。

というわけで、『風姿花伝』は、読んだらきっと面白そうだなぁ、と思うところはたくさんあった。ただ、いかんせん著者の能に対する愛と、現代にも通じるが強すぎて、乗り切れない。ラストの能楽堂に通おうと、能をプロデュースしようのくだりは、さすがに読み飛ばしてしまった。
「珍しきが花」「初心忘るべからず」「離見の見」「秘すれば花」など、一度くらいは聞いたことがある有名な文句を中心に扱ってくれているので、ちょっと詳しくなれる感があっていい。武術をかじっている人間からすると「序破急」とかも面白かった。そういったところだけ、つまみ食いするには、とてもいい本だと思う。

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2025年07月24日

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世阿弥の有名な金言「珍しきが花」「初心忘るべからず」「離見の見」「秘すれば花」に絞って、現代人にも通じる人生論がまとめられている。実際のところ、4つの金言のうち2つは「風姿花伝」ではなく「花鏡」からの言葉なので、注意が必要。

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2024年04月21日

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ネタバレ

『風姿花伝』には、能役者としての稽古の積み方や年の重ね方が、一つのシステムとして極めて具体的に書かれています。その背景に私は、「才能はありのままに任せればよいのではない。才能は作られるものだ」という世阿弥の信念を見ます。
 天性の才能というものはもちろんあるでしょう。世阿弥もそれを認めていました。しかし一方で、努力することでつくられる才能もある。正しく稽古すれば才能は開花する。そう世阿弥は書いていました。
 このことを思うと、近代の小説家正宗白鳥の逸話をいつも思い出します。白鳥はある編集者に小説家になるようにすすめます。その編集者は、「才能がないので」と答えました。白鳥はそれに対して「才能なんて」とつぶやいたというのです。才能で小説を書くのか、と言いたいのでしょう。それではどうやって小説を書くのか。
 この話につながることで、直接聞いた話で、唸りたくなる話もあります。画家の入江観さんは現在の画壇を代表する一人ですが、師として仰いだのは、今も多くのファンがいる近代画壇の重鎮中川一政でした。入江さんは、神奈川県真鶴にある「中川一政美術館」の美術館運営審議委員です。ある時、入江さんが手を怪我して、そのために絵が描けないと中川一政に言ったそうです。その時に中川一政が言ったセリフが凄い。「君は手で絵を描くのか」。この話を入江さんから聞いた時は、本当に唸りました。才能とか技術ではない。他の何かがあって、小説も絵もできる。世阿弥が稽古を重視し、傲慢になるなと言い続けて、能役者となるためのシステムを考えた時、正宗白鳥や中川一政と同じ問題を提起しているに違いないのです。

 おもしろいことに、日本の芸能では、しばしばおじいさんが孫に芸を教えています。お父さんは忙しく働いているため教える時間がないのですが、おじいさんは時間がある。これが実はいいのです。父親は子供に教えるのは初めてですから、できない息子に「どうしてできないのか」と厳しく言ってしまう。すると息子も反発します。一方おじいさんは、自分の息子(孫の父親)も最初はできなかったことを知っている。だから、「お前のお父さんもできなかったけれど」とワンクッション入るわけです。そうやって教えるので、孫も教えを受け入れやすい。こうして芸の伝承はなされてきたのです。

 自分がいったいどういう位置にあるかを、心を後ろに置いて把握する。世阿弥にとってこのことは、ひとえに能の問題ではなく、人生の問題であったと思います。世阿弥は、自分たちがやっている大和猿楽以外の芸能を非常に冷静な目で見ていました。実際に世阿弥は、近江猿楽や田楽など、大和猿楽以外の芸能がやっていることを自分たちの芸に取り入れました。自分の周りで起こっているさまざまなことを、自分とは関係のないものとして考えるのではなく、それも引き込みながら自分の芸能をつくり上げていった。自分から突き放すというよりは、常に自分もそこに関わっていくという態度です。
 たいていの場合、ある人の人気が出れば、自分は違うことをやろうと思うでしょう。ところが世阿弥は違いました。なぜそれが人気があるのかを見極めた上で、それも自らの中に取り入れた。普通なら、相手を妬んだり、あえて無視しようとするのではないかと思うところですが、考えてみるとこのクールな世阿弥の視点、すなわち「我見」ではなく「離見」こそ、本来私たちが人間や社会に対して持つべきものなのではないか。そう思えてもくるのです。

 よき劫(こう)の住して、悪き劫になる所を用心すべし(『花鏡』却之入用心之事)
 自分はもうこれでいい、満足した。そう思っている人は、この言葉にさらにさらにドキリとさせらるのではないでしょうか。成功は、実は、次の失敗のもとになると言っているのですから。
 世阿弥のこの戒めは、現代の企業活動などにもすぐ当てはめることができます。大ヒット商品を発売した企業が、その成功体験に安住して次の一手を打ち損じ、結局、他社にどんどん追い抜かれてしまう。一度成功したのだから、しばらくは同じことを繰り返していけば大丈夫だと思うことが、まさに命とりになるわけです。これを打破しようと、組織の中で何か新しいことをやろうとする人が出てきたとしましょう。しかし上司は、自らの成功体験から、「いや、これでうまくいったのだから、もうこれ以上のことはやる必要はない」と言う。まさに、よき却が悪き却になるという世阿弥の言葉を同じように、成功者が組織の成長を阻害してしまうのです。
 うまくやってきた上司というものは、自分の成功体験をコピーしてやればよいという意識にどうしてもなりますから、組織にとっては下手をすると有害な存在になります。むしろその成功体験を否定して、「いや、違う方法がある」という人が出てこなかったら、その組織はうまくいかないでしょう。新たな方法というものは、それまでの成功を否定するものであるかもしれない。でもそれを認めなかったら、組織の成長は止まるのです。それをどうしても認めない人が伝統的な価値観を主張する場合は、安定や和を保ちたいというより、今までの枠の中で既得権益を守りたいだけかもしれません。
 過去の成功体験を否定し、違うことをやる者が出てこないと、企業であれ能であれ、その次はない。そのことを世阿弥は、一つの場所に安住してはならない、成功体験こそ危ないと言って警告しているのです。

 では、世阿弥自身にとっては、自分のスタイルを壊すとはどういうことだったのでしょうか。これはやはり、他のジャンルの芸能がやっていることを自分たちの芸に取り入れるということだったと思います。世阿弥は、自分を重用してくれた足利義満から足利義持に治世が移って以後、義時が贔屓にした田楽の芸にある「冷えに冷えたり」という、つまり渋い芸風を取り入れるという改革を行いました。他の流派がやっていることを大胆に取り入れる。それは、今までの自分たちのやり方を壊すに他なりません。世阿弥は、自分の成功体験に寄りかかってはいないのです。生き残るために他の人間のやっていることを真似しても、自己模倣はしていないのです。

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2022年10月11日

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世阿弥が、能の変換期に属した人間だったために、風姿花伝が必要だったということが面白かった。
それまでの神社に属する、年功序列的な価値観ではなく、貴族にいかに気に入られるかの人気商売であり、なおかつ実力のあるものが評価される、その不安定な時代に、生き抜くために、自分の子孫のための秘伝の書(ある意味今の日本の年功序列がくずれ、実力主義に変化してきている(将来が保障されない)サラリーマンにたいするノウハウ本のようなもの)と解釈すると面白かった。
実際この本では、シュンペーターやドラッカーなどを引き合いにだし、当時のイノベーションを起こしたという解釈をしている。

また、能を新たに作る際に、複式夢幻能という構造をつくったことで、量産が可能になったということも面白い。夢と舞、リアリティーがありながら美しさを至上とする価値観など、エンターテイメントとしての側面が当時は色濃くあって、現在感じている難解で少し眠い伝統に凝り固まったお芸術ということからはかけ離れているという切り口が良かった。

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2016年12月08日

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■珍しきが花
・「花=おもしろさ=珍しさ」は同じこと
・住する所なきを、まず花と知るべし
 →常に更新し続けろ。自分の成功体験を再現しようと思うな。
・古い文学作品を能の「舞台」で演じた。これは当時の日本では革命だった。
・能に「夢」と「旅」のパターンを取り入れた。

■初心
・時分(一瞬)の花、まことの花

7歳:型にはめず、のびのびと(自分のコピーを作るな。子供の個性を引き出せ)
12・13歳:存在自体が花。しかし時分の花。
17・18歳:最初の難関(声変わりとか)
24・25歳:初心(声も安定し、体も安定する)


・初心忘るべからず
3つある。「是非」「時時」「老後」

老後の初心
=その歳に合った生き方をする。若ぶるな。
 満開の花は無理でも、老いた木の一輪の花を目指す。

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2016年12月04日

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