あらすじ
新しきが「花」である
室町時代、芸能の厳しい競争社会を生き抜いて能を大成した世阿弥の言葉は、戦略的人生論や創造的精神に満ちている。「秘すれば花」「初心忘るべからず」など代表的金言を読み解きながら、試練に打ち勝ち、自己を更新しつづける奥義を学ぶ。テキスト時にはない新規図版、ブックス特別章なども収載。
[内容]
はじめに マーケットを生き抜く戦略論
第1章 珍しきが花
第2章 初心忘るべからず
第3章 離見の見
第4章 秘すれば花
能と世阿弥 関連年表
ブックス特別章 能を見に行く
あとがき──テレビの後で
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Posted by ブクログ
「風姿花伝」は「初心忘れるべからず」という言葉の元になった本なので、内容を知りたくて読んだ本。世阿弥の考えが、ドラッカーのイノベーションの理論と共通しているという話が印象に残った。この本を読んで「勝負事には切り札を用意しておく」というところが参考になった。「風姿花伝」は能について書かれた本だが、仕事や他のことにも応用できることが書かれていて読んで良かった。この本を読んで、能の世界のことを知ることができて良かった。
Posted by ブクログ
『風姿花伝』には、能役者としての稽古の積み方や年の重ね方が、一つのシステムとして極めて具体的に書かれています。その背景に私は、「才能はありのままに任せればよいのではない。才能は作られるものだ」という世阿弥の信念を見ます。
天性の才能というものはもちろんあるでしょう。世阿弥もそれを認めていました。しかし一方で、努力することでつくられる才能もある。正しく稽古すれば才能は開花する。そう世阿弥は書いていました。
このことを思うと、近代の小説家正宗白鳥の逸話をいつも思い出します。白鳥はある編集者に小説家になるようにすすめます。その編集者は、「才能がないので」と答えました。白鳥はそれに対して「才能なんて」とつぶやいたというのです。才能で小説を書くのか、と言いたいのでしょう。それではどうやって小説を書くのか。
この話につながることで、直接聞いた話で、唸りたくなる話もあります。画家の入江観さんは現在の画壇を代表する一人ですが、師として仰いだのは、今も多くのファンがいる近代画壇の重鎮中川一政でした。入江さんは、神奈川県真鶴にある「中川一政美術館」の美術館運営審議委員です。ある時、入江さんが手を怪我して、そのために絵が描けないと中川一政に言ったそうです。その時に中川一政が言ったセリフが凄い。「君は手で絵を描くのか」。この話を入江さんから聞いた時は、本当に唸りました。才能とか技術ではない。他の何かがあって、小説も絵もできる。世阿弥が稽古を重視し、傲慢になるなと言い続けて、能役者となるためのシステムを考えた時、正宗白鳥や中川一政と同じ問題を提起しているに違いないのです。
おもしろいことに、日本の芸能では、しばしばおじいさんが孫に芸を教えています。お父さんは忙しく働いているため教える時間がないのですが、おじいさんは時間がある。これが実はいいのです。父親は子供に教えるのは初めてですから、できない息子に「どうしてできないのか」と厳しく言ってしまう。すると息子も反発します。一方おじいさんは、自分の息子(孫の父親)も最初はできなかったことを知っている。だから、「お前のお父さんもできなかったけれど」とワンクッション入るわけです。そうやって教えるので、孫も教えを受け入れやすい。こうして芸の伝承はなされてきたのです。
自分がいったいどういう位置にあるかを、心を後ろに置いて把握する。世阿弥にとってこのことは、ひとえに能の問題ではなく、人生の問題であったと思います。世阿弥は、自分たちがやっている大和猿楽以外の芸能を非常に冷静な目で見ていました。実際に世阿弥は、近江猿楽や田楽など、大和猿楽以外の芸能がやっていることを自分たちの芸に取り入れました。自分の周りで起こっているさまざまなことを、自分とは関係のないものとして考えるのではなく、それも引き込みながら自分の芸能をつくり上げていった。自分から突き放すというよりは、常に自分もそこに関わっていくという態度です。
たいていの場合、ある人の人気が出れば、自分は違うことをやろうと思うでしょう。ところが世阿弥は違いました。なぜそれが人気があるのかを見極めた上で、それも自らの中に取り入れた。普通なら、相手を妬んだり、あえて無視しようとするのではないかと思うところですが、考えてみるとこのクールな世阿弥の視点、すなわち「我見」ではなく「離見」こそ、本来私たちが人間や社会に対して持つべきものなのではないか。そう思えてもくるのです。
よき劫(こう)の住して、悪き劫になる所を用心すべし(『花鏡』却之入用心之事)
自分はもうこれでいい、満足した。そう思っている人は、この言葉にさらにさらにドキリとさせらるのではないでしょうか。成功は、実は、次の失敗のもとになると言っているのですから。
世阿弥のこの戒めは、現代の企業活動などにもすぐ当てはめることができます。大ヒット商品を発売した企業が、その成功体験に安住して次の一手を打ち損じ、結局、他社にどんどん追い抜かれてしまう。一度成功したのだから、しばらくは同じことを繰り返していけば大丈夫だと思うことが、まさに命とりになるわけです。これを打破しようと、組織の中で何か新しいことをやろうとする人が出てきたとしましょう。しかし上司は、自らの成功体験から、「いや、これでうまくいったのだから、もうこれ以上のことはやる必要はない」と言う。まさに、よき却が悪き却になるという世阿弥の言葉を同じように、成功者が組織の成長を阻害してしまうのです。
うまくやってきた上司というものは、自分の成功体験をコピーしてやればよいという意識にどうしてもなりますから、組織にとっては下手をすると有害な存在になります。むしろその成功体験を否定して、「いや、違う方法がある」という人が出てこなかったら、その組織はうまくいかないでしょう。新たな方法というものは、それまでの成功を否定するものであるかもしれない。でもそれを認めなかったら、組織の成長は止まるのです。それをどうしても認めない人が伝統的な価値観を主張する場合は、安定や和を保ちたいというより、今までの枠の中で既得権益を守りたいだけかもしれません。
過去の成功体験を否定し、違うことをやる者が出てこないと、企業であれ能であれ、その次はない。そのことを世阿弥は、一つの場所に安住してはならない、成功体験こそ危ないと言って警告しているのです。
では、世阿弥自身にとっては、自分のスタイルを壊すとはどういうことだったのでしょうか。これはやはり、他のジャンルの芸能がやっていることを自分たちの芸に取り入れるということだったと思います。世阿弥は、自分を重用してくれた足利義満から足利義持に治世が移って以後、義時が贔屓にした田楽の芸にある「冷えに冷えたり」という、つまり渋い芸風を取り入れるという改革を行いました。他の流派がやっていることを大胆に取り入れる。それは、今までの自分たちのやり方を壊すに他なりません。世阿弥は、自分の成功体験に寄りかかってはいないのです。生き残るために他の人間のやっていることを真似しても、自己模倣はしていないのです。