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西川 恵
長崎県生まれ。毎日新聞客員編集委員。東京外国語大学中国語専攻を卒業後、71年に毎日新聞入社。テヘラン支局、パリ支局、ローマ支局などを経て、98~2001年外信部長。あわせて皇室外交の取材を一貫して行っている。主な著書に『ワインと外交』新潮新書、『饗宴外交』世界文化社、『歴代首相のおもてなし ~晩餐会のメニューに秘められた外交戦略』宝島新書などがある。公益財団法人日本交通文化協会常任理事(事務局長)、公益財団法人日仏会館常務理事。
知られざる皇室外交 (角川新書)
by 西川 恵
しかしこれから免れているというべきか、政治や外交の論理をあえて排除しているのが皇室なのである。なぜかというと、 「だれに対しても公平・平等に、最高のもてなしをする」 との基本的な考えが皇室にはあるからだ。これを突き詰めると、今上天皇、皇后両陛下の姿勢に行きつく。 「身分や立場の違いにかかわらず、だれに対しても公平・平等で接する」 というのは両陛下のポリシーである。
もちろん最高級のワインのなかでの違いはある。何かの都合で最高級でないワインになったということもある。しかしワインによって意図的に賓客に優劣をつけたり、格付けすることは皇室のありよう、両陛下の姿勢に反することなのだ。両陛下は自分たちの行為や言動が政治や外交の脈絡で見られたり、解釈されることを嫌う。
私の知る限り世界の元首の 館 のなかで、政治・外交の論理を排除しているのは日本の皇室しかない。国の大小を問わず、賓客を公平・平等に、最高のもてなしで遇することは、世界を眺めたとき、ある意味、 稀有 なことなのだ。エリザベス英女王は立憲君主として、政治的には公平性を保持し、政治に介入しないことを旨としている。この点で皇室と似ているが、それでもバッキンガム宮殿での外国首脳のもてなしには国の軽重が反映する。
皇室がどの国の賓客に対しても平等に、最高級のフランスワインでもてなしていることを知った、国際政治や外交に通じた外国人は皆、「すごいことだ」と驚く。日本の元首と見られている天皇が、政治的な論理を排除したもてなしをすること自体、外国では考えられないからだ。皇室は、大統領の官邸とも、王室とも異なることを、外国の賓客はこのもてなし1つを通して感得する。
歌ったというのがどの程度のことか、いまとなっては不明だが、想像するに口ずさんだというのが本当のところではないだろうか。このシャンソンは日本でもよく知られている。この後のことになるが、 宮崎駿 監督のアニメ映画「紅の豚」(1992年)のなかでも 加藤 登 紀 子 が歌っている。
今上天皇は皇太子だった1953年、エリザベス英女王の 戴冠式 に出席するため初外遊をしたが、英国滞在を終えた後、6月9日から 21 日までの約2週間、フランスに滞在した。またその後もスペインを訪れた帰りにパリに戻り、ベルギーに向かうなど、昭和天皇が皇太子時代にパリを拠点に欧州各国を回ったのと同様の旅程を踏んでいる。
このとき、皇太子のフランス訪問は非公式のものだったが、フランス政府は最初の2日間国賓として遇し、オリオール大統領がエリゼ宮で午餐会を催し、外務大臣が晩餐会を開く手厚いもてなしを示した。エリゼ宮の午餐会のとき、ミッテラン大統領は左派政党の国会議員として出席している。当時、 37 歳の若さだったが、すでに閣僚を経験し、将来有望な政治家として地歩を築きつつあった。 41 年後、エリゼ宮の主人として天皇になった皇太子を迎えるとは想像しなかっただろう。
「殿下は…古本屋で、ちょいちょい、古本を買いあさられる。…(お供は) 六時三十分まで三時間半にわたり、殿下もよく本を買われた。時々お金はまだあるかとのお問い合わせ。フランス語の本をこんなに買われ、はたしてどれだけお読みになられるか。ともかく本を蒐集されることはよい御趣味だ、と佐藤氏(同行医師) と話しあった」(カッコ内は引用者)
「私が初めてフランスの大統領として日本を国賓として訪問したのは 12 年前です。それ以来、何度も日本を訪れましたが、その度に皇后陛下は心温まるおもてなしを私に示されました。皇后陛下は6日間のフランス国内旅行中、 大袈裟 な表現で決してなく、わが国民がいかに皇后陛下のおでましを誇りに思っているか、お感じになるでしょう」 大統領がわざわざ美智子妃に触れたのは、同妃の細やかな心遣いに感銘を受けていたからにほかならない。美智子妃が抜群の記憶力をもっていることは知られている。前に会った人のことは細部に至るまで覚えていて、再び会ったときにそのことに触れ、すっかり忘れていた当人を驚かせるということがよくある。
後にミッテラン大統領を引き継いだシラク大統領夫妻も美智子妃の心遣いに魅せられている。ベルナデット・シラク夫人がフランスで第三者に美智子妃のことを語るとき、「ミチコが、ミチコが」と親愛の情をこめて呼んでいた。
オランダの反日感情を融和した両陛下
国王はこの前年2013年4月 30 日、ベアトリックス女王の退位に伴い新国王に即位した。オランダ王室は長年、女王が続いており、国王の登場は1890年以来だった。首都アムステルダムの教会でとり行われた即位式には、王室を 戴く国の王族や、各国政府代表が出席し、日本からは皇太子と雅子妃が参列した。雅子妃の公務での外国訪問は2002年のニュージーランド、オーストラリア公式訪問以来 11 年ぶりだった。
この晩餐会は日蘭の皇室と王室の交流の、新たな出発を画すイベントでもあった。天皇と美智子妃にとって、当時 47 歳のアレクサンダー国王は我が子も同然だった。両陛下がベアトリックス王女(まだ女王ではなかった) と交流を始めたとき、王女はまだ独身で、その後、クラウス殿下と結婚し、アレクサンダー皇太子が誕生した。
ベアトリックス王女は昭和天皇をどのように見たのだろう。初めのころ、王女は必ずしもいい印象をもっていなかったのではないだろうか。欧州で 巷間 伝わっていた戦争の最高責任者「ヒロヒト」のイメージは当然あっただろうし、インドネシアから引き上げてきた植民者たちから乱暴な日本軍の話も聞いていたはずだ。 それが訪日を重ね、昭和天皇のもてなしを受け、皇太子夫妻と親交を重ねていく過程で、日本や昭和天皇に対する認識を変えていったのではないかと私は想像する。日本の発見と言っていいだろう。その最たる証左は、王女が頻繁に日本を訪れ、皇太子夫妻と交流を深めるようになったことである。関心を持たなければ、そんなに来ることはない。
オランダ人はプラグマティックで、論理的で、自分の思ったことや好き嫌いはキチンと口にする気質だ。情緒的になったり、相手に悪感情を与えるからと、オブラートに包んだもの言いになる日本人とは異なり、できないことはできないとハッキリ言う。 両夫妻がいろいろ考えや意見を交わしただろうと想像するのは、王女の「良きことのためにはどうしたらいいか」というオランダ人のプラグマティックな思考方法が、両夫妻の会話をより突っ込んだものにしただろうと思うからだ。とくに王女は 完璧 主義者で知られていた。 曖昧 にごまかしたり、うやむやにすることが嫌いな性格だ。
オランダ人引き揚げ者の日本に対する恨みに日本人が気づいたのは、先に触れた1971年の昭和天皇のオランダ訪問のときだった。この年、昭和天皇は欧州7カ国を歴訪した。英国、デンマークなどでも抗議行動やデモがあったが、一番激しかったのがオランダだった。『昭和天皇実録』がその様子を伝えている。
「お召自動車が(オランダの) ハーグ市内に入った午後4時 30 分頃、車体に液体入り魔法瓶が投げつけられるという事件が起きる。魔法瓶はフロントガラスに当たるが、防弾ガラス付きのものであったため外側に 亀裂 を生じさせたにとどまり負傷者はなかった。…同夜、日本国大使公邸にお立ち寄りの際、…この度の事件は大したことではないが、大きく取り扱われて両国関係に悪い影響を与えることのないよう同行記者団によく話しておくようにとのお言葉がある」(1971年 10 月8日。カッコ内は引用者)
日蘭の歴史問題の特徴は、相互の認識ギャップである。日本にとってオランダは、 江戸 の鎖国時代、世界への窓口となって文物や知識、情報をもたらしてくれた国であり、チューリップと風車の国でもあり、土地は海抜より低いところにあることも知っている。日本人は好印象をもっている。 しかしオランダの普通の人たちは、江戸時代に両国の間で通商関係があったとはほとんど知らない。人々が日本の存在をハッキリと認識したのは、第二次大戦の緒戦で、オランダの植民地だったインドネシアが日本軍に占領されたのがきっかけだった。 占領中、オランダの婦女子を含む約9万人の民間人と、約4万人の戦争捕虜と軍属が強制収容所に収容されたが、食糧不足や風土病で約2万2000人が亡くなった。死亡率は約 17%に上り、これはシベリア抑留で亡くなった日本人捕虜の死亡率(約 12%)より高い。
日仏関係のこの 20 年を取り上げると大きなアップダウンがあった。1995年に大統領に就任したシラク大統領はこの上ない日本理解者で、2007年までの2期 12 年、日本の対欧州外交の軸はフランスにあったと言ってもいい。
同氏が日本を含めた東洋の文化に目を開かれたのは中学生時代である。東洋の仏像に興味を持っていた同氏は、中学校が 退けると、パリ中心部にある東洋美術品のコレクションでは名高いギメ美術館に入り浸って仏像を眺めていた。監視員の使い走りでカフェからコーヒーを運ぶなど職員に気に入られ、チケットなしの入館もお目こぼしされていた。
「そんなに仏像が好きなら、この近くに東洋美術の専門家がいるから行ってみたら」 と教えてくれた。訪ねてみると、ロシア革命後、フランスに亡命した帝政ロシアの元外交官だった。当時 60 代のこのロシア人は、毎日のように自宅にやってくるこの若者を気に入り、サンスクリットやロシア語を教え、語学の合間にインド、中国、日本など東洋文明の素晴らしさを講義した。 「サンスクリットとロシア語はものにならなかったが、東洋文明について学んだことは私の血となり肉となった」とシラク氏はのちに語っている。
1960年代初め、同氏は日本を旅行し、奈良の法隆寺で 百済観音像と対面した。このときのことを「ひと目見て私は衝撃を受け、たちまち日本に魅了された。これをフランスに持ってくるのがわたしの夢になった」と語っている。 シラク大統領時代の1997年、この百済観音像は「フランスにおける日本年」の企画の目玉として、ルーヴル美術館特別会場で展示された。 朋友 の橋本龍太郎首相が日本国内の反対を押し切ったのだが、シラク大統領はこの返礼として1999年、「日本におけるフランス年」にルーヴル美術館所蔵のドラクロワ作「民衆を導く自由…
シラク氏の日本文化理解は素人の域を超えていた。 「『万葉集』は世界で3指に入る詩集の最高傑作だ。日本は世界に誇る文学をもっている」 と、『源氏物語』とともに高く評価していた。また「精神性の極めて高い伝統競技」として相撲の大ファンでもあった。来日するときはなるべく大相撲の場所に合わせ、2000年には優勝力士に贈呈…
出されるワインと料理を安倍首相が説明し、両首脳の話題は両国の農産品の用いられ方やその経済効果、また農産品からみた両国の結びつきへと広がったという。ふだんあまりアルコールを飲まない安倍首相が積極的に口をつけ、オランド大統領はもっぱらミネラルウォーターだった。この後、国会での演説、宮中晩餐会と続く予定を考えれば当然のことだった。
「皇居は実に印象深い場所です。雰囲気、伝統、引き継がれてきた外交儀礼の重みと、歴史のなかにいるような思いでした。禅にも通じる精神性が満ちています。美智子妃とは2回、通訳を入れて話しましたが、私が恵まれない子供たちの人道支援団体の代表をしていることや、アフリカに関心をもっていることなど、私がやっていることを実に詳しくご存じで、よく準備していただいていると感じました。 皇后は本当にお優しく、私にとっては夢のような時間でした。確かに『ヴァレリーとファーストネームでお呼びしていいですか。私のこともミチコと呼んでください』と言われました。しかしとても失礼に思われてできませんで、私は皇后とお呼びしてお話ししました。相手に対する思いやりと、温かみ、深い配慮をお持ちの方だと感じます」
抜群の記憶力をもっていることは前述のとおりだ。ずっと前に1度だけ会った人のことも覚えていて、当時交わしたちょっとした話に触れられたので驚かされた、ということも聞いたことがある。
「皇室は日本にとって最高の外交資産」というのは外交に携わる者が異口同音に言うことである。日本の首相が何度訪問しても成し得ない和解や友好関係の強化を、両陛下が訪問することで可能にした例は少なくない。 なかでも日本の皇室は世界でも 希 な、長い一貫した系統を保持しており、これに匹敵するのはバチカンのローマ法王ぐらいだ。これによって皇室は多くの国の敬意を集め、国際社会における皇室の尊厳と権威をより厚いものにしている。その天皇の訪問は、迎える側にとって自国の立場を国際社会で高めることに 繫 がるため、一目も二目も置くことなのである。皇室外交のポテンシャルと言えるだろう。
「ミクロネシア地域は第一次世界大戦後、国際連盟の下で、日本の委任統治領になりました。パラオには南洋庁が設置され…移住した日本人はパラオの人々と交流を深め、協力して地域の発展に力を尽くしたと聞いております。クニオ・ナカムラ元大統領はじめ、今日貴国で活躍しておられる方々に日本語の名を持つ方が多いことも、長く深い交流の歴史を思い起こさせるものであります」
「しかしながら先の戦争においては、貴国を含むこの地域において日米の 熾烈 な戦闘が行われ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を勧める等、安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います」
天皇がパラオを訪れたいと念願していた理由に、慰霊ということはもちろんある。ただ同時に、以上のようにこの地域が歴史的に日本とかかわりが深く、日系人がいまも多くいることとも無関係ではない。ナカムラ元大統領の名前を答辞で挙げたことにもそれが 窺える。 天皇は世界に散らばる日系人に深い思いを抱いている。カナダを旅したとき、ブラジルを訪れたとき、日本人の移住者やその子孫が活躍していることに大きな関心を寄せてきた。その国の日系人と日本の縁を大事にしたいとの思い、また日本の文化が残っている地域と日本の縁をつないでいきたいとの願いがあるのだろう。
パラオの街で両国の旗を振って迎える人々に、両陛下は車を徐行させ、窓を開けてにこやかに手を振った。これは後日、駐パラオの田尻和宏大使が現地の知人から聞いた話だが、 80 代の日系の老人が「天皇は神様だと教えられていたからどんなに 畏れ多い、威厳のある方かと思っていた。あんなに優しい方だとは知らなかった」と言ったという。
日本政府は太平洋・島サミットなどを通じて、ミクロネシア地域との関係強化を図ってきた。ただ日本に招くという一方的関係で、日本の首相が訪れたことはない。そこに初めて両陛下が訪れた。何か具体的な政治的、経済的な課題を達成したわけではない。しかし政治や経済ではできないことを皇室外交はもたらした。
天皇、皇后はパラオ訪問から2カ月後の6月、宮城県 蔵王 町 を訪問した。戦時中にパラオで暮らし、終戦で引き揚げてきた人々が開拓した集落「 北原 尾」で、この訪問は両陛下の希望だった。「北原尾」の名前は「パラオを忘れない」との住民の思いからつけられた。「北のパラオ」という意味だ。高齢となった引き揚げ者たちと懇談した両陛下は、パラオでの生活や入植した当時の模様を聞き、戦中、戦後の苦労をしのんだ。
「空から見たパラオ共和国はサンゴ礁に囲まれた美しい島々からなっています。しかしこの海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでにはまだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います」
「当時、私は生後8カ月だった。改めて当時の新聞を繰ると、日本に対する怒りが少なからずあったのがわかる。しかし皇太子とミチコ妃はフィリピン人を魅了した。国立フィリピン大学では夫妻の訪問に抗議行動を起こそうとの動きがあったが、抗議はなされず、逆に夫妻は学生たちの大歓迎を受けた。ロムロ学長は『ミチコ妃の美しさにフィリピン人は武装解除された』と述べている」 夫妻が行くところ、ミチコ妃の美しさが人々の話題になったという。オカンポ氏は寄稿のなかで、当時のマニラ・タイムズの次のような記事を引用する。 「フィリピンの人はミチコ妃の繊細で磁器のような美しさに魅了された。小さな形のいい貝のような耳たぶにはイヤリングはなかった。…肌の色は自然で、お化粧をしていないのかとさえ思わせた」
皇室外交という言葉に、宮内庁は「皇室には外交はありません」と言うだろう。確かに天皇は政治には関わらない。しかし本文でも触れたが、日本の国益や、政治、外交の脈絡からまったく遊離した両陛下の外国訪問はあり得ないし、外国の賓客を日本に迎えた場合も、皇室と政府は巧みな補完関係と役割分担でもって賓客をもてなす。