太田浩一の作品一覧
「太田浩一」の「オルラ/オリーヴ園~モーパッサン傑作選~」「感情教育」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
- 作者をフォローする
- フォローすると、この作者の新刊が配信された際に、お知らせします。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで200万冊以上配信中!
「太田浩一」の「オルラ/オリーヴ園~モーパッサン傑作選~」「感情教育」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
小説・文芸
小説・文芸
小説・文芸
Posted by ブクログ
アルヌー夫人に冷たくされてはロザネット(高級娼婦マレシャル)の方へ、ロザネットに愛想をつかしてはダンブルーズ夫人の方へと、フレデリックはまるで「1848年のピンボール」のようだ。
八方美人の高等遊民=フレデリックは二人の女を手玉に取って、いっぱしのドンファン気取りだ。/
【ある日、たまたまフレデリックが自宅にいると、女ふたりがほとんど同時に訪ねてきた。母親が来ることになっているからと言って、マレシャルを外にだし、ダンブルーズ夫人には隠れてもらった。
やがて、そうした嘘が愉しく思えてきた。いっぽうの女に誓ったばかりのことを、もういっぽうの女にくりかえす。双方におなじような花束を贈る。ふたりに同時に手紙を書く。で、ふたりの女をあれこれ比較してみる。─そうしたときでも、もうひとりの女性が脳裡から離れなかった。その女性を自分のものにできないことが、こうした不実な行為を正当化した。しかも、ふたりの女を交互にあざむいていることがいっそう快楽をかきたてる。どちらの女も、騙せば騙すほど、ますます自分を愛してくれる。あたかも、ふたりの女はたがいに愛を煽りたててはげしく張りあい、もういっぽうの女を恋人に忘れさせようとしているかのようだった。】(本書。【】内、以下同様。)/
あくまでも、フレデリックにとってはマレシャルやダンブルーズ夫人はふたりの「女」であり、「女性」と呼べるのは風に靡かぬ花、アルヌー夫人だけなのである。/
◯繰り返される「頭髪」と「塵埃」のモチーフ:
蓮實重彦が『『ボヴァリー夫人』論』で指摘していた「頭髪」と「塵埃」のモチーフが、なんと『感情教育』でも描かれていてびっくり!凄いな蓮實先生!
ひるがえって、映画ではこの「頭髪」と「塵埃」のモチーフがどのように描かれているのかを、がぜん確認してみたくなって来た。/
《ここでの「塵埃」と「頭髪」という主題が初期の習作から後期の傑作にいたるまで一貫して特権的な意味作用の磁場をかたちづくっており、作者も充分すぎるほど意識的にその語彙を選択しているという事態が存在するからである。さらにいうなら、(略)砂漠の隠者アントワーヌや『感情教育』の主人公にとどまらぬフローベールの多くの作中人物が、「塵埃」と「頭髪」という語彙とそれらが喚起するイメージに憑かれており、エンマやシャルルもそうした一人にほかならないからでもある。》(蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』上 Ⅵ 「塵埃と頭髪」 /ちくま学芸文庫/2026年)/
◯「塵埃」のモチーフ:
【たいてい、ふたりは屋外の階段のうえで語りあった。眼前には、秋のおとずれで黄色く色づいた木々の梢が、不揃いな突起となって蒼白い空のへりまでつづいている。並木道のはずれに離れ家があって、そこへいっしょに行くこともある。家具といえば灰色の布張りの長椅子が一脚あるばかり。鏡には点々と黒い斑点がつき、壁は黴くさかった。─ここで、ふたりは自分たちのことや他人のことを、そして、思いつくままにありとあらゆることを、時の経つのも忘れて語りあった。ときおり、鎧戸のすきまからさしこむ陽ざしが、さながら竪琴の弦のように天井から床の敷石にかけていく筋もの線をえがき、そうした光の縞のなかを埃がゆるやかに舞っている。夫人は手をのばし、その光の縞を切っておもしろがった。】/
このくだりから、「後光」を想起した。
・「後光」:
暗い環境、たとえば厩や納屋、森などで、木漏れ陽や戸の隙間から漏れ入る光などを背にした対象人物を、その人物と光の来る方向に向かって仰ぎ見れば、空気中に散乱する埃によるチンダル現象で、その人物に後光が出現するだろう。/
これに対して、『ボヴァリー夫人』の「塵埃」のモチーフを描いた文章は次のとおりである。
《エンマはまた腰をおろして縫い物をつづけた。白木綿の長靴下をつくろっているのだった。彼女はうつむいて針を運んだ。黙っていた。シャルルも黙っていた。ドアの下から吹き込む風が石畳の上にかすかなほこりを立てた。シャルルはそのほこりが床を走るのを見ていた。彼の耳には、こめかみが脈を打つ音と、遠くの庭先で卵を産む雌鶏の鳴き声しか聞こえなかった。エンマはときどき両方のてのひらを当てて頬を冷やし、それからこんどはそのてのひらを大きな薪掛けの鉄の頭で冷やすのだった。》(前出の蓮實『『ボヴァリー夫人』論』より。/フローベール『ボヴァリー夫人』(山田? 訳/河出文庫/2009年))/
◯「頭髪」のモチーフ:
【夫人は母親のようにフレデリックの額に接吻した。
それから、夫人はなにかを探しているようなそぶりを見せ、鋏を貸してほしいと言った。
櫛をはずすと、白い髪がばさりと垂れた。
夫人は荒あらしく鋏をいれ、長い髪のひと房を根もとから切りとった。】/
次に『ボヴァリー夫人』の「頭髪」のモチーフを描いた部分を引用しよう。
《翌日、シャルルは青葉棚の下のベンチへ行って腰をかけた。日の光が格子のあいだからふりそそぐ。ぶどうの葉は砂利の上に影を描き、素馨の花はかおり、空は青く、咲き乱れた百合のまわりに芫菁(はんみょう)が羽音をたてている。そしてシャルルは、そこはかとない恋の香に切ない胸をふくらませ、まるで青年のようにあえいだ。
七時にベルトが夕飯に呼びに来た。昼過ぎから父親の顔を見ていない。
父親はあおむけに頭を塀にもたせ、目を閉じ、口をあけて、長い黒髪のひと房を両手に持っていた。
「おとうさま、いらっしゃいな!」
そして父親がわざと聞こえないふりをしているのだと思って、ベルトはそっと突いた。
彼は地面に倒れた。死んでいた。》(同前)/
フレデリックはやっとのことでアルヌー夫人との逢引きの約束に漕ぎつけるも、
アルヌー夫人は訪れず、なんと革命が勃発してしまう。/
【突撃の太鼓が打ち鳴らされた。するどい叫びがあがり、勝利の歓声がわきおこる。群衆は波うつようにたえまなく揺れうごいている。びっしりとおし寄せる人の波にはさまれ、フレデリックは身動きできずにいたが、こうした光景にすっかり魅了され、われを忘れてうち興じていた。負傷して倒れる者がいても、死者がそこかしこに横たわっていても、ほんものの負傷者、ほんものの死者とは思えなかった。まるで芝居でも観ているような気がしていた。
─中略─
歩兵部隊は姿を消していて、衛兵隊だけで詰所をまもっている。向こうみずな連中が玄関まえの石段にどっとおし寄せた。これらの人びとが倒れると、たちまちべつの一団がやってくる。
─中略─
建物のいたるところから煙が噴きだした。(略)欄干の小柱のあいだから、するどい音をたてて大きな炎がたちのぼる。パレ=ロワイヤルの二階にはいまや国民衛兵があふれていた。広場に面した窓という窓から、銃が火を吹く。弾丸が空を切ってとびかい、壊れた噴水からながれだした水が血と入りまじって、地面に水たまりをつくっている。】/
なにせフランス革命という圧倒的なスペクタクルがあるので、たしかに面白さでは断然『感情教育』の方かもしれないが、僕の心にいつまでも刺さって抜けないのはシャルル・ボヴァリーの「痛み」の方なのだ。
Posted by ブクログ
小説自体は読むのは三度目(新潮文庫の生島訳と河出文庫の山田訳は既読)。この翻訳はとても読みやすかった。
読み終えるのに1ヶ月ほどかかった。中盤の農業共進会までに5日くらい、その後しばらく放置してたまに少し読み、ロドルフと懇ろになって以降最後までを3日で。
集中すればもっと早く読めただろうが結果的にはこのペースでよかった気がする。エマの死後、シャルルの回想に現れる、まだ結婚する前のエマを彼と同じように懐かしむことができたのは時間が空いたからこそ得られた効果だったと思うから。
覚えているところと、すっかり忘れていたところがあった。
中盤まではよく覚えていた。ロドルフの逃走やレオンの尻込みは、忘れていたけれどまあそうなるよな、と予想の範囲内。
すっかり忘れていて度肝を抜かれたのが、服毒後のエマの様子。嘔吐、痙攣、せん妄。長々と続く苦悶の描写は鬼気迫る。軽くホラー入ってる。醜い盲人の歌を聞きながら事きれるのは残酷。エマと仲よくしていた女中が、死んだ彼女の衣装を盗んで男と駆け落ちするのにリアリズムを感じる。
シャルルは死に、両親を失った娘は生活のため工場勤めに出る。寒々しい終わり方。一方で、ボヴァリー家以外の人たちの生活はエマの死に何の影響も受けず淡々と続いていく。シャルルの落胆と比較してロドルフは平然としているし、登場しないレオンも結婚でもしてうまくやっているのだろう。
エマの死は悲劇だったけれど、世界に何の影響も及ぼさないし痕跡も残さない。彼女の死にも悲劇にも、意味なんてない。そういう冷徹さが、露悪的でなく、不快に転じず、現実的な説得力を持って描かれているところがこの小説のすごいところだと思う。
Posted by ブクログ
読み終えるまで大分時間がかかったが、読み終えて読んで良かったと思える本だった。エマのシャルルに対する背信的な情事がいつ発覚し結末を迎えるのかと思いながら気の重さを感じながら読み進めるのだった。やはり読後はやるせない寂しさがどうしても残る。
しかし多彩な描写や豊富な語彙に引き寄せられ読書本来の楽しさや学び、恩恵を感じ取る事が出来た。
後書きで参考となる実話が存在した事を知り、この小説が発表された時、フランスの品位を貶めるのではないかと裁判沙汰になる程センセーショナルな存在になったと、それも理解出来そうである。
フランスにはフローベールという偉大なというか特異なというか作家がいて、その代表作を読んだという満足感や達成感みたいなものを感じた次第である。
Posted by ブクログ
やっと、『ボヴァリー夫人』にたどり着いた!
これも、「『ボヴァリー夫人』のここが読みどころ! 訳者・太田浩一さんを迎えて」のイベントのおかげだ。/
だいぶ前にサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の一、二巻を読んだが、実はそのときはフローベールの作品を一作も読んでいなかった。
今思えば、なんてでたらめな読書をしていたのかと悔やまれるが、そんなわけで、今度『家の馬鹿息子』を最初から読み直すにあたっては、どうしても事前にフローベールの作品を読んでおきたかった。
以前、『三つの物語』だけは読んでいたのだが、やはりそれだけではなんだか足りないような気がしていた。
ちょうどそんなところへ、今回のイベントの情報を耳にしたので、渡りに船と飛び乗ったわけだ。/
この圧倒的な読み心地の良さはいったいどこから来るのだろう?
訳者:フローベールは、音読にたえるような文章を理想としたので、訳文もそれを心がけた。登場人物の性格を反映したセリフ。
これぞ、ミシェル•ビュトールが『レペルトワール』で言っていた「それぞれの声が聞こえて来る文章」だ。/
【シャルルとしては、なぜ自分がいそいそとレ・ベルトーへ通うのか、深く考えてもみなかった。
─中略─
エマ嬢はいつも玄関の階段のいちばん下の段まで見送ってくれた。馬がまだ用意されていないときには、その場に立って待っていた。別れの挨拶を交わしてしまうと、たがいに話すことはなかった。戸外の空気が彼女をつつんで、うなじのほつれ毛を乱したり、腰の上でエプロンのひもをなびかせ、吹流しのようによじれさせたりした。あるとき、ちょうど雪解けのころで、庭の木々の樹皮は水を滴らせ、屋根の雪はとけだしていた。エマ嬢は戸口に立っていたが、日傘をとってきてそれを開いた。玉虫色の絹の日傘に陽光がさし込んで、顔の白い肌がゆらめく反映で染まっていた。暖かい陽気に、傘の下で娘はほほえみを浮かべている。日傘の、ぴんと張ったきらめく絹地の上に、ぽつりぽつりと滴の落ちる音が聞こえていた。】(本書。【】内、以下同様。)/
◯ロシア・フォルマリズム の異化と恋愛:
《生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、》(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』)/
上に引用したのは、ロシア•フォルマリズムのシクロフスキーの「異化」の方法だが、日常生活を「異化」して生の感覚を蘇らせるもう一つの方法がある。恋愛である。/
【ロドルフは少し先にある小さな池のほとりにエマを連れていった。青浮草が池の面に緑の色をひろげていた。枯れた睡蓮が藺草のあいだにじっと動かずに浮いていた。(略)
「ああ、ロドルフ!‥‥‥」男の肩に身をもたせかけて、若い女はかろうじてそう言った。
ラシャのドレスが男のビロードの上着に絡まった。エマはため息を押しころして白い首筋を反らせた。そして意識が薄らぎ、泣きぬれて長ながと身を震わせながら、手で顔を覆って身をまかせた。
宵闇が迫ってきた。枝のあいだからもれる沈みかけた夕陽がエマの目にまぶしかった。(略)あたりは静まりかえっていた。(略)エマは心臓がふたたび鼓動しはじめ、血があたかも乳の流れのように体内をめぐるのを感じた。】/
エマはひたすら情人に愛を求め、着飾り、装飾品を買い集めては、ついに破滅に至り服毒する。
もちろん、すべてエマが悪いのだ。
だが、そんなことを言ってみたところでいったい何になるだろう?
エマはこのように生きてしまったのだ。
フローベールは、死にゆくエマの最後の瞬間を異様な熱心さで描写する。
まるで、彼はこう言っているかのようだ。/
《もちろん生涯はひとつの崩壊の過程である》(フィッツジェラルド「崩壊」/フィッツジェラルド作品集 (3)/渥美昭夫、井上謙治訳/荒地出版社/1981年)/
【シャルルが入ってきたが、ふたりは目をさまさなかった。妻に最後の別れを告げにやって来たのだった。
─中略─
月の光のように白い繻子のドレスの上で、きらめく波紋が震えていた。エマの姿はその下に隠れていた。シャルルには、エマが自身の外へ拡散していくように思われた。そして、周囲をとりまく事物のなかに、夜のしじまのなかに、吹きすぎる風のなかに、たちのぼるしっとりとした香気のなかに紛れ込んでいくような気がした。
やがて、ふいにエマの姿が目に浮かんだ。トストの家の庭の、茨の生垣のそばのベンチに腰をおろしている。かと思うと、ルーアンの街なかに、いまの家の戸口に、レ・ベルトーの庭にその姿があった。(略)
こうしてシャルルは、長いあいだ、過ぎ去ったすべての幸福を、エマのおりおりの物腰、しぐさ、声音を思いうかべていた。悲痛な思いは、あたかもおし寄せる上げ潮のように、次から次へと際限もなく胸につきあげた。】/
おかしい。何か変だ。
普通の恋愛小説なら、ヒロインの悲劇的な死で物語は終わるはずだ。
フローベールは、なぜエマの死後のシャルルや人々の後日譚にページを割いたのだろうか?
物語は、シャルルの死を待ってようやく終わりを告げる。/
ゴキブリ亭主としては、悲劇のヒロイン:エマよりも、エマに裏切られても、そんなこととはつゆ知らずエマを愛し続けるシャルル•ボヴァリーの姿に、どうしても身につまされてしまうのだ。
「シャルル•ボヴァリーは私だ」。/
ここに至って、シャルル•ボヴァリーの姿は、奥様の娘ヴィルジニーを愛し、甥っ子のヴィクトールを愛し、おうむのルルを愛して死んでいった『三つの物語』の「純な心」の女中フェリシテの相貌に酷似してくる。/
これでようやく、サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』を読む資格を得たような気がする。