怪獣映画はガチのリアリズムがないとだめだ。非現実としかいいようのない怪獣を召喚するにはまわりからリアルに固めていかねばならない。某ゴジラ映画には夢オチのが一本あって子供心にもあれは腹が立ったな。しかしまた、映画においてはとにもかくにも怪獣が出てきて、それが「絵」としてよくできていたら、放射能で巨大
...続きを読む化したとかいうしょぼい設定であっても、それだけで説得力を持つ。何しろ人間は視覚をもっとも信じるのだから。
だから視覚を欠く怪獣小説は最初からハンディを負っているのだと思う。
本書は『怪獣文藝』の続編。続編といってもそもそもアンソロジーだから、話がつながっているわけではなくて、第2弾ということである。『怪獣文藝』のほうは読んでないのだが。
で、その夢オチというか、最初から主人公が繰り返し見る怪獣の夢の話で押していくのが有栖川有栖。こういうのもありか。
怪獣小説でリアリズムを追求すると、怪獣対策の行政組織ができて、というようになるだろうが、それは山本弘の『MM9』シリーズ。大倉崇裕は同工異曲の設定で、しかし怪獣の至近距離で迫力ある写真を撮って売る人々「怪獣チェイサー」を登場させたのが目新しい。
その山本弘は別種のリアリズムを、かつてあった冒険物語──映画にもあったような、少年雑誌にもあったような──を復興させることで得ようとする。20世紀半ばの密林、怪しい宗教団体、生け贄にされる半裸の少年、そこに現れる巨大生物。ほらなんだか懐かしい。
冒頭にはいまや特技監督の第一人者である樋口眞嗣が若いころに書いた怪獣映画の企画書が掲載されている。題して「怪獣二十六号」。土木機械で怪獣に立ち向かうのである。
美しかった母親は50歳を過ぎたころから急激に老婆のように老け込み、山に捨ててくれと言い出すようになった。梶尾真治「ブリラが来た夜」。「ブリラ」の名の由来が面白い。
怪獣とは少年の破壊衝動の具現化である。そしてそれが現実化したら世界は破滅する。ということを太田忠司はよくわかっているようだ。黒い虹を出す怪獣というのは『ガメラ対バルゴン』を踏まえているのだろうが、作品の暗い雰囲気に禍々しさを添えていて秀逸。
今度怪獣映画を公開する園子温監督は自主映画時代のエッセイだかフィクションだかわからないものを寄せている。怪獣が登場するのは「怪獣映画を撮った」とほらを吹いているところのみ。
脚本家小中千昭は東京地下の巨大ミミズをカルトに描くが、ちょっとシノプシス調。
もと角川書店社長の井上伸一郎の処女作は、時代劇というか元寇の時代が舞台で、『ガメラ』シリーズへのオマージュとなっている。これだけが二大怪獣対戦である。
以上8編。私は結構楽しんだ。
怪獣というと、破壊される大都会、応戦する自衛隊がステレオタイプでもあり期待されるところでもあるのだが、それは最初に述べたように周囲をリアルで固めていくことである。ここでも多くの作品がありきたりな現代生活に怪獣を登場させているのは、怪獣にリアリズムを持たせる方策かもしれない。だから遠未来を舞台にしたものとか、スペースオペラ+怪獣といった趣向がないのだろう。
ただ、「怪獣文藝」の場合、特撮映画とはやはり違う線を追求せざるを得ないのであろうから、私は本書では第一に太田忠司「黒い虹」、次に園子温「孤独な怪獣」が面白かったとしておこう。