栄一の歩んだ道は非常に華々しく映るだろう。
実際に作中においては、まるで半沢直樹のような下剋上シーンも組み込まれており、見るもの全てが栄一の明晰さや痛快さの虜となるはずだ。
とりわけ栄一の生家が百姓の家であったことはある種、非常に大きな意味を持っている。彼が算盤を愛用し、数字や勘定に大きな理解があったことはここの影響が大きい、また商売が持つ影響力と良いものを生み出せば、信頼を得ることができるといった努力による成功体験も彼の人生に大きな影響を及ぼしている。
またフランス留学中に新たな知識を取り入れたことはそれ自体に大きな価値があることもさることながら、それをいち早く理解する力、理解するための下地が整っていたこと、新政府において海外経験のある人物を重宝していた点など、この留学は彼が名誉を得る機会を多分に含んでいたと同時に、そのチャンスをモノにする力をそれまでに併せ持っていたとも言える。
冷静な分析力も光る、しかし徳川家康の御遺訓にある一説「及ばざるは過すぎたるよりまされり」に代表されるように、時に栄一は及ばないことも多くある。
パリ、駿府、大蔵省。それ以前にも攘夷、幕臣として、など。
それでも我々読者は決して物足りなさを感じない。
いや感じさせない、本来は道半ばと悔やんだりするようなことも、ほんの僅かな間で新たな何かを見つけ、そして挑む。
千代が言い放った「何度でも生まれ変わる」栄一だからこそ、これほどの側面を併せ持ち、ストーリーに溢れた人生を歩んだのだろう、しかしそんな中にも一本の軸がある。父からの「道理を踏み外すな」との助言を間違えなく守った栄一、一本の軸とはすなわち道理そのものと言えよう。
輝かしいストーリーの裏には悲劇もある。
我々は栄一のストーリーの影に、5年もの歳月を待ち続けた千代や娘のうた。また、平九郎という恋人を養子に出されたことで失ったてい、また喜助や長七郎、惇忠も含め、栄一が輝く側で影となっていた人物たちが多くいることを忘れてはいけない。
慶喜の近くにもまた影があるだろう、中盤からは自身も影としての側面を強めながらも、大政奉還の決断は多くの層に影をもたらした。英断の背景には悲劇がある。
そうした事実を認識しつつも、
栄一の輝かしい歴史の終盤を次巻で触れたいと思う。
以下、ストーリー解説。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
パリでの道中から、大政奉還、そして新政府の役人として。
立身出世を果たす栄一と彼を取り巻く歴史の大転換、
それでも栄一は「物申し」、そして己の道を行く。
日本の代表として幕府よりパリ万博への参加のためにフランス・パリへ渡った栄一。
慶喜の弟である民部公子のフランスでの教育を兼ねた旅は早速様々な難題に直面する。
特に特筆すべきは「薩摩藩」の動きである。かねてより幕府はフランスと新政府(薩長)はイギリスとの結びつきが強かったことは歴史でも習ったことであるが、パリ万博に「琉球王国」として薩摩藩の旗を掲げ参加を画策するなど、国内での情勢以上に雄藩の力が幕府を脅かしていたことが明るみとなる。
また1巻では遠い位置にあった栄一と日本史の大潮流が2巻において急激に接近し、3巻においても当然栄一自身は大潮流の中にいながらも、フランスと日本という物理的な距離がその位置を遠ざけていたことは、ストーリー性としてはもちろんのこと、栄一自身の人生において、これまで周りにいた人物たちと道を違えることとなった主要因である。
その後、フランスから予定されていた借款の見込みがなくなると、結果として栄一はその後の人生に最も大きな影響を与える要素を知ることとなる。
それこそが「国債」、あるいは「株式資本(Social capital)」である。フランス人エラールが彼に伝えたそれらの知識は日本で生かされることとなる。
栄一らがフランス滞在中、日本では「大政奉還」が起こる。大政奉還を巡っては、慶喜が幕府を支持するもの、朝廷を支持するものが乱立している状況を脱するため、国が一つとなって諸外国へ対応していくための最善策として判断、決して自身のためではないという心のうちが慶喜の頭脳明晰さを示す。
一方で徳川に信奉してきた物達の心のうちは厳しく、大奥に在籍していた多くの女性が自ら命を絶とうとした。
人々の拠り所というものは何にも変え難い。
そういったことを咄嗟に判断できるような栄一や慶喜は一見、大英断を下す人物として称賛されることもあるだろうが、その陰に多くの人物の苦労や苦悩があることを忘れてはいけない。
薩長は慶喜が朝廷による政治に参加し、その中心を徳川によるものとされることを恐れた。彼が集める厚い信頼を協議で崩せなかった彼らは戦を演出し、「官軍」として慶喜ら旧幕府との戦い、「戊辰戦争」を起こす。
慶喜は当然、これを予見し、反撃をしないよう指示をしていたものの、実らず。
「鳥羽伏見の戦い」に敗れたのちに、上野の寛永寺で隠居することを選択する。
慶喜が戦うことを選ばなかった理由は、「朝敵」となることを恐れたため。彼の父である徳川斉昭の教えが大きかったであろう。
パリの栄一らはこうした状況から帰国の途に着く。
一変する日本の状況を数ヶ月遅れで、その上新聞で知るしかなかった彼だったが、その都度の状況についてある程度の見立てを立て、幕府の大政奉還さえもある程度の予測をしていた。
先の戊辰戦争は終結を迎えておらず、
喜助もまたその戦いに参加、加えて養子としていた平九郎や尾高家の惇忠も加わり、彰義隊を結成。
上野で新政府軍との戦いを繰り広げるものの、あえなく敗北、平九郎はその後命を落とすこととなる。
また舞台を戦いの終焉の地である北海道、函館、五稜郭の戦いに移した戊辰戦争もいよいよ終結。
京都で顔を合わせた土方歳三はその戦いにおいて命を落とす。喜助はまたも目の前で大事な人の命を失うこととなる。
栄一は久々に血洗島へ帰宅、家族と団欒の時を過ごし、最愛の妻千代や娘うたとも再開する。その後、民部公子のフランスでの様子を慶喜へ報告するため、駿府を訪れる。栄一はそこで駿府藩の財政状況を耳にし、フランスで得た知識「株式資本」を、商人の財力と藩士の労働力を使って、強大なコンパニー(会社)のような組織の設立を模索し始める。
順調に進んでいた駿府での仕事、千代やうたを静岡に移住させた矢先、新政府より奉仕せよとの命が下る。固辞する気満々の栄一は後の総理となる大隈重信に口説き落とされ、呆気なく新政府の役人として新たな仕事を始めることに。
大久保利通、岩倉具視らの中心人物達や
伊藤博文、大隈重信など大蔵省の面々が新政府としてすべきことを散々に話し合うもまとまりもなければ、人材も少ない。
まさに「会議は踊るされど進まず」状態の新政府だったが、栄一はその中で改正掛といったいわゆる「明治維新」の中心となった政策を省庁横断的に進める部署で活躍、郵便制度、税制制度、鉄道制度、戸籍制度、あるいは廃藩置県に至るまで、また栄一はこのほかにも生糸に関する政策にも関与、のちに官営富岡製糸場の初代工場長を純忠に託すなど、栄一が当時の国策に大きく関与していたことがわかる。
そして何より、栄一が力を入れたのが「銀行(National Bank)」である。
政府が主導し、三井と小野による株式保有、そして民間人からの投資によって民間による国立銀行を発足させたのである。
しかし栄一は三野村からの一言、「江戸幕府と何も変わらない。」の皮肉がいよいよ最後の決断の後押しとなり、彼は政府の役人を辞職するのである。