エコノミストの河野龍太郎氏と、みずほ銀行チーフマーケット・エコノミストの唐鎌大輔氏による対談形式の経済書。
タイトルからは「世界経済の分析本」という印象を受けるが、本書の主題はむしろ「日本社会の構造変化」にある。そして、単なる経済分析を超えて、政治哲学や文明論にまで踏み込んでいく。
本書で繰り返し論じられるのは、「なぜ日本人は働いても豊かになれなくなったのか」という問題提起。
著者たちは、単純な「日本人の努力不足」や「生産性の低さ」を原因としていない。日本企業は90年代の金融危機以降も長期雇用を維持しようとし、そのために人件費を変動費化し、非正規雇用への依存を強め、ベースアップを抑制してきたと説明される。「雇用を守る」ことの代償として、働く側が静かにコスト調整弁になっていったという構図。
また、実質賃金を決める要素として、労働生産性だけでなく「交易条件」が重要だと指摘する。日本では、生産性自体はそれほど悪くないにもかかわらず、円安や輸入物価上昇によって交易条件が悪化し、それが実質賃金を押し下げているという。
株価やGDPの数字よりも、「普通に働く人々の生活が実際にどうなっているのか」を重視していることが伝わってくる。企業収益が改善しても、それが家計の豊かさに結びついていないという問題意識は一貫している。
後半では、AIやグローバリゼーション、移民政策の問題にも議論が広がる。
特に興味深かったのは、「収奪的イノベーション」と「包摂的イノベーション」という概念。蒸気機関が導入された初期には労働者は低賃金で酷使されたが、その後、鉄道網の整備や労働者保護法制の発展によって、技術革新が広く社会を豊かにする「包摂的」なものへ変化していった。著者たちは、AIによる自動化も放置すれば再び「収奪的」な方向に向かう可能性を示唆している。
ここで重要なのは、「技術進歩そのもの」が人々を幸福にするわけではない、という視点である。どのような制度や分配の仕組みを社会が持つのかによって、イノベーションは包摂的にも収奪的にもなりうる。
グローバリゼーションそのものに対してもかなり批判的である。
とりわけ印象的だったのは、「資本移動の自由化によって本当に人々は豊かになったのか」という問題提起だ。著者たちは、国境を越えた資本移動の自由化によって恩恵を受けたのは主として金融関係者やグローバル企業であり、その一方で、各国の中間層は賃金抑制や雇用不安にさらされてきたと指摘する。
資本が瞬時に世界を移動できる現代では、国家は常に市場から「評価」され続ける。財政悪化や通貨不安が生じれば、資本逃避や通貨安が起こりうる。その結果、民主国家であるにもかかわらず、各国政府は市場の顔色を見ながら政策運営をせざるを得なくなっている。これは、グローバル資本主義が国家主権そのものを変質させている、という見方でもある。
移民政策に対する反対的立場も、かなり明確である。
低スキル移民の流入が、教育水準の高くない自国労働者の賃金に下押し圧力を与えている可能性が論じられる。そして、その恩恵を最も受けているのは、高度専門職や企業、高所得層ではないかと指摘される。
この論点は非常にセンシティブであり、扱いを間違えると単純な排外主義に接続しかねない。しかし著者たちは、移民そのものを敵視しているというより、「グローバル化のコストを誰が負担しているのか」という分配の問題として論じているように思える。
「本来、古典的な経済学は、労働力や資本が国境を越えて自由に移動しなくても、財やサービスの自由貿易によって十分な利益を得られると考えていた」という指摘である。ところが現代では、資本も労働力も自由に移動しなければ豊かになれない、という“教義”に変わってしまった。この問題提起には、かなり考えさせられた。さらに本書は、「所有権的個人主義」への批判的考察にまで踏み込む。
近代以降、「自分が生み出した価値は自分のもの」という考え方が強くなったが、それが行き過ぎることで共同体意識や世代間の責任感が失われたのではないか、という問題提起。エドマンド・バークや鷲田清一の議論を参照しながら、「所有」を単なる権利ではなく「受託」として捉え直す可能性も語られる。
また、「自由」の定義そのものについての議論も展開される。古代において自由とは「欲望に振り回されないこと」を意味していたが、現代では「欲望を最大限追求できること」へと変化した。経済成長や消費拡大を至上命題とする現代資本主義への違和感は、こうした価値観の転換とも関係しているとされる。
ただし、本書には読んでいてモヤモヤする部分もあった。
収奪的イノベーションや知識エリート中心社会を批判している河野氏・唐鎌氏自身が、まさに高学歴でグローバル金融の中心におり、いわゆる「勝ち組」に属する層ではないかと思えるからだ。
彼らの問題提起には強く共感する一方で、本書は、その構造のどこに立って論じているのかという問いも浮かんでくる。教育や金融知識によって一部の人を“上側”に引き上げることはできるかもしれない。しかし、競争社会そのものが続く限り、どこまで行っても取り残される人々は存在し続ける。
本書は、その問題に明快な答えを与えているわけではない。
しかし、少なくとも「自己責任」や「努力不足」といった単純な言葉では説明できない構造が存在すること、そしてそれが単なる経済問題ではなく、人間社会の設計思想そのものに関わる問題であることを、非常に鋭く言語化している。