すさまじい傑作!
毎日出版文化賞らしいが、そんなことより、もっと話題になって、大ヒット作になるべき!
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まず最初に、本作の先見性について指摘しておく。
本作では、「わたしたち」という主語が多用される。
「わたしたち」が指す対象が、一文ごとに、変化したり、二重・三重の意味があったりする。
その表現手法により、現在の日本社会に、鋭い問題提起をしている。
2025年7月の参院選において、なぜか突如として"外国人"が焦点となった。
「わたしたち」の健康保険制度や生活保護制度を、外国人が悪用している。
「わたしたち」の町の治安を、外国人が悪化させている。
といった、排外主義のデマを喧伝する政党が、議席を大きく伸ばした。
日本人ファーストを掲げる政党に、多くの有権者が投票した。
多くの日本人が、同じ町で暮らし、働く外国人を「わたしたち」ではない、と思っていたのだ。
「わたしたち」には、だれが含まれ、だれが排除されるのか?
本作が、独特の表現技法で、何度も問いかけた問題が、まさに顕在化した。
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本作は、テーマを抜きにしても、文章表現に携わる人、関心のある人は絶対に読んだほうが良い。
まずもって、日本語表現として、すさまじいレベルにあるからだ。
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句点で、ほぼすべて改行される、詩的な文体であるが、ふと、たどり着いた一文に、何度も涙をこらえたり、ゾッとしたりして、深いため息をつきながら、天を仰ぐ。
それは、パンチラインと呼ばれるような強烈なものではなく、消え入りそうな淡いニュアンスのものである。
本来なら、自分の苦手なタイプの表現なのだが、とにかく、その水準の圧倒的な高さに困惑し、頭がクラクラするほどだ。
例えるなら、萩尾望都や岡崎京子などの超一流の少女マンガを読んで、感動はしても、どこか、男の自分には、感性的にしっくりこないところがあるのだが、本書の表現には、納得しかないのだ。
なぜ、この表現が自分に響くのだろうと考えると、本書は著者の空想力で描いたものでなく、本当に「史実」しか書いていないからだろう。
表層的には、詩的で私的な表現に見えるが、それは、取材に基づく「史実の羅列のみ」で作られている。参考文献の量からもわかる通り、学術研究書としての側面もあるほどなのだ。
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本作の表現の根幹であり真骨頂は、「わたし」「わたしたち」「少女たち」という主語の採用である。
「わたし」は、1935年(昭和10年)春に、東京の小学校に入学した女生徒、どこかのだれか(というより、だれでも)を指し示すために使われる主語である。
彼女たちのその後を、一年ごと(春が訪れるたび)に見ていく、という構成である。
「わたしたち」は、基本的にはそれらの女生徒の群像を指す。
しかし、文脈により、「日本人」「臣民」「庶民」「女性」「植民地における皇民」と違った人々の立場があることを暗喩している。
そして、七三一部隊に関する場面において、「わたしたちの兵隊の男が、わたしたちではない男を、女を、子どもを〜」という記述がはじめて訪れる。これには、唇を噛みしめる他ない。
「わたしたち」とは、なにを指すのか。その恐ろしさと切なさが、一気に溢れだすのが、本作の最重要ポイントである。
「少女たち」は、宝塚少女歌劇団を指す。
「わたしたち」のあこがれの存在である。
固有名詞で語られる、小夜福子や天津乙女などのトップスター達は、作中で30代・40代と歳を重ねていくが、それでも、複数形の人称は「少女たち」である。
なぜなら本作において、少女という概念は、無垢であること・無力であること・無知であることの、美しさと罪深さを象徴する重要なモチーフであるからだ。
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為政者・権力者・将校の、実名は記されず、「男」と記載される。
宝塚少女歌劇団を創設した、小林一三の名前さえ記されず、「男」と記載される。
これらの表現にも、微細なニュアンスが忍ばされている。
「わたし」「わたしたち」=「女性」の立場から見れば、戦争も政策も企業経営も、すべて「男」が勝手に決めてやっていることなのだ。
そもそも「わたしたち」には、選挙権さえ無かったのだから。
若い女性である「わたしたち」の、まだ自覚されていない怒りが、この表現から滲み出てくるのだ。
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「〜かもしれない」という表現も多用される。
まず、先行きの見えない時代に、何が起こるかわからない、という聞き馴染んだ意味での使用がある。
いっぽう、極めて特殊な表現方法として、「調査した史実の羅列」で編まれる本書において、「史実の具体的な記載は発見できなかったが、当然、そのようなことであったろう」という場合に、「〜したかもしれない」という表現が使われるのだ。
この表現方法は、「歴史を調査する難しさ」や、「記憶が曖昧になっていく切なさ」や、「だれにも知られることなく失われていく庶民の記録のはかなさ」を重層的にはらんでいる。
そして、逆に「現実にはなかったが、ありえたかもしれない美しい瞬間」を想起させる効果もある。
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「あるいは」という接続詞の多用も独特だ。
これは、「わたしたち」という主語において、並列して存在する女性たちの、それぞれ個別の置かれた環境・行く末・胸に秘めた思いに、想像をめぐらせるために使用されている。
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たった数行で、美しく躍動感のあるビジュアルを想起させる表現力が冴える。
p.53
秋雨がぱらつくたびに埠頭に色とりどりの和傘や洋傘が花みたいに開く。
少女たちは船が進むのと逆方向に甲板の上を駆ける。
ファンの少女たちはそれを追いかけるように埠頭の突端まで駆けた。
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毎年、繰り返される、
春が来る。
桜の花が咲いて散る。
をはじめとして、
なにかが現れ、消えるイメージ。
なにかが浮いて、落ちるイメージ。
が、リフレインする。
それは、はかなく消えていく時間や、夢や、生命の象徴である。
そして、浮遊と落下のイメージは、風船爆弾と響き合う。
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昭和二十年、敗戦。
本作の中盤から、テーマの色が濃くなりはじめる。
読んでいて、怒りに震える。または、涙をこらえられない場面が多数ある。
「わたしたち」=女性が、愚かで傲慢な男たちに、どれほど踏みにじられてきたのかが、ハッキリするのだ。
p.274
… わたしたちの戦争に敗けたわたしたちの国が、わたしたちの政治家の男が、まずはじめにやったのが、わたしたちのうちの女を、少女を、連合国の兵隊にさしだすことだった …
そして、翌年の衆議院選挙。
p.292
これまでわたしたちの国は、男だけのものだった。けれどこれからは、女も投票することができるようになったのだった。… わたしが、わたしの手で、わたしの国をつくることができるようになる。
日本国憲法の公布。
p.297
わたしは、これからは男だけでなく女も、わたしも、人として自由に生き、行動し、幸せに暮らす、権利を持つことができるのだと知る。
わたしは、いま、その権利を、生まれてはじめて手にする。
日本国憲法に関しては、現在では、9条のことばかりが取りざたされるが、「女性の人権の獲得」が、どれほど重要なことだったのかを思い知らされる。
しかし、「わたしたち」に沖縄は含まれない。
p.306
わたしたちの国は、わたしたちの政治家は、わたしたちの街を、わたしたちの沖縄を、奄美諸島を、小笠原諸島を、わたしたちを、置き去りにした。
そして、朝鮮戦争、冷戦構造を通じ、
p.313
わたしたちの戦争をおこしたものたちが、ふたたびわたしたちのもとへと戻ってくる。
… わたしは、かつてわたしたちの天皇陛下のためと謳った大人たちが、アメリカのためと謳うのを、見る。
欺瞞のかたまりである権力者の男たちが、のうのうと帰ってくる。
天皇も含め、奴らは、反省などしていない。
戦中も戦後も、ずっと嘘ばかりをつくことで、のさばり続けるのだ。
p.315
わたしたちのいまは、もはや戦後ではない、ということだった。
わたしの戦後は、終わらない。
では、本当に、自分自身を見つめ、戦中の自身の行為について向き合い続けたのは、誰なのか?
その答えこそ、風船爆弾にまつわる物語の、もっとも美しく心を揺さぶる点なのだ。
風船爆弾を作った女学生たちは、誰からも追求されなかった。誰からも罪を指摘されなかった。
当たり前だ。
未成年であり、学生であり、女性であり、なにひとつ決定権を持っていなかった。
なにを作っているかも知らず、なにに使うものかも知らされなかった。
ただ、過酷な環境で、一生懸命に働いただけだ。
むしろ、誰がどう見ても、軍事国家の中での被害者だった。
それでも、彼女たちは、自身の行為の加害性と、正面から向き合ったのだ。
風船爆弾という秘密計画の全体像を調査し、6人の被害者の遺族と10年間手紙のやり取りをし、アメリカへ渡って謝罪したのだ。
風船爆弾について調査し、まとめたのは、すべて民間グループであり、日本政府は総括していない。
本当に、内省を行ったのは誰なのか?
本当に、人間の尊さを示したのは誰なのか?
それは、当時、幼い10代だった女学生たちではないか。
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「夢見ること」と「その罪」
「空想すること」と「現実」の断絶。
本作は、「無垢であるがゆえに、無知で、無力だったこと」を断罪するという、ものすごく厳しいものを突きつけている。
もちろん、それは著者が傲慢に始めたことではない。
本作の終盤、「わたし」という主語で紡がれてきたストーリーに、著者が接続される。
そして、エピローグでは、令和を生きる読者も接続され「わたしたち」となる。
そこでは、大空襲の遺体と瓦礫の上に整備された町を歩く「わたしたち」の姿が描かれる。
そして、それは、関東大震災の遺体と瓦礫の上を歩く、昭和10年の「わたしたち」と、円環して繋がる
p.369 p.10
わたしたちは、かつてそこにあったものたちのことを、もう滅多に思い出したりしない。
歴史は繰り返す。
「わたしたち」が振り返らなければ。
しかし、振り返るとは、なにをすることか?
そう、この物語は、風船爆弾を作った女生徒たち自身が「他者はだれも追求しない過去を、自覚し、自分から真相究明する」ことから始まったのだ。