『科学との正しい付き合い方~疑うことからはじめよう』を読んであれこれ考えた。
この本のタイトルは非常に意味深です。
カヴァー帯には「文系目線の、文系のための科学リテラリシー本の決定版」などと書かれているし、確かに本の趣旨と章立て全体の構成は、科学というものと日常の関わり方を解いているものです。
し、しかし、、、この本は誰に向けて書かれたものなのでしょうか。
「文系目線の、文系のための科学リテラリシー本の決定版」??? ですが、ほんとうに文系の人がこの本を手にとって読むのか?私ににそうは思いにくい。そうであれば良いのでしょうが、多くのケースは内田氏のような「科学」普及を考えるひとたちが読むのではないのかと思えます。この本を手に取るのがそのような人だとすると、内田氏のテキストは反発を買うのではないだろうか。
筆者内田氏は文字通りのこのタイトルと論旨全体の中で、いろいろな意味で、科学への想いをこめて書き綴ったのでしょう。ただ、内田氏の戦略なのか、文系の(理系でない?)人に理解を求める形式をとりながら自らを含めて科学技術関係者への反省と警鐘の意を込めているように思うのは私だけでしょうか。
例の事業仕分けの時の科学技術界の反発の様子は記憶に新しい。科学技術を「事業仕分け」のような短時間の検討で片づけていくのは確かに本質的にはなじまないと思う。しかしながら内田氏の素直な感情として謙虚な自省の弁なきまま反発するということへの疑問は同感だ。それで何もかもが許されたままになる時代でもない。科学技術に対する無批判な夢を謳歌する国民感情は昔の話だ。「事業仕分け」という出来事だけを切り取ってみれば、政治の世界の話ではない。国民(総体)感情の問題であるのだと思う。
みんなわかっていると思う。科学技術が特別ではない。芸術も文芸も音楽も、経済も政治も科学技術も「理解してもらいたい」という気持ちは当事者にはあるだろうが、それが決定的な要素にはなりえないと思う。なにもかも理解する人間はいない。皆、先人たちが積み上げてきたものに何らかの形で恩恵を受けている。それが高度な言語と文字を持つ人間という社会性を持つ「いきもの」の大きな力なのだと思います。ただし、それは社会全体をとらえたときに言える総体としての姿であって、個人個人に生きた形で花開くものではない。「見えない」科学技術、生活の中のいたるところに在るはずの科学技術は、内田氏の言うように感じ方によっては毎日を豊かにするものかもしれない。しかし何がその人の毎日を豊かにしてくれるのかは、人それぞれ。私は科学技術が「疑うこと」「 わからないことを、白黒はっきりさせないでペンディングしておく」にするという氏の一貫した科学的思考法は非常に重要なポイントと思う。ただし「科学マニア」な私の感情であって、多くの人にとってもそうかというと正直なところ難しいと思う。
科学技術だけが特別な存在ではない。がしかし「人類」的な危機に科学技術が重要な対抗策となる場合が多いのは事実。(これは時間軸で推論可能な未来将来の問題・仮説設定になじむため。) ただし、上手く機能させるには政治学が要るし、実働させるには経済学が欠かせない。広く浸透させるには社会学や「コミュニケーション論」があり、ひとりに落ちるには、哲学が必要になったりする。
「国家・国民」、「地域」または一定の集団単位、どれ一つ同じでない「私」という範囲レベル
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蓄積学習する「過去」、経験で十分予期判断可能な「現在」「明日」、知識で推論可能な「将来」、望みの束ねられた夢の「未来」という時間ファクター
このヴァリエーションとして、政治や経済や科学技術、哲学が機能している姿や価値があるのだとボンヤリと考えています。
さらに言えば、推論・仮説ということだけでもないと思ったりしてます。非連続で予期されにくい事象は、先の様々な学問の構築的な形の「はずれ」から立ち現われてくることが、往々にしてあるものです。アート、、、科学技術もその一面があって、多様性の大きなうねりをもたらしています。
最初は小さな創造(ずれ)→共鳴振幅(モード)→多様性→選択→関係性(問題化)→構造化(普遍化)→拡大化(浸透化)→安定化(固定化)→(ループ)
これは常に繰り返されている構図で、この大きなうねりに、かつては科学技術が良くも悪くも実際に社会を大きく変化させていく原動力になっていたし、それに対する無批判さへの反省も歴史的には常に行われてきました。
これは大きな・長い時間スケールでの視点ばかりではなくて、個人個人の幸福感、疑問や違和感の集合としての「時代感覚」としてもありますから、内田氏のような人の話が生きてくるのだろうと思っています。
う~ん、考えすぎて、あたまの中がモヤモヤしてますが、何となく感じることがいろいろあった本でした。