特攻の街として知られる知覧。私は未だその地を訪れた事はないが、いつかはこの目で飛行場跡地や開聞岳を見てみたいと思っている。様々な映画や小説、戦争、特に特攻を扱う書籍等で取り上げられた事から、その地の名前を知らないものは少ないだろう。もし、知覧を知らずとも、特攻『特別攻撃隊』を知らないという事はまず無いと思う。因みに本書にある「知覧」の街は特攻の中でも、帝国陸軍が編成した攻撃隊の出発基地にあたる。現在の南九州市の地名である。陸軍は特攻隊に万朶隊、振武隊、富嶽隊などの名称と数字で名前をつけており、世に言う『神風特別攻撃隊』は帝国海軍の特攻の呼び名で、こちらは同じ九州鹿児島県でも鹿屋基地から主に飛び立っている。いずれにしろ太平洋戦争でフィリピン、沖縄を辿ってきたアメリカ軍が日本本土に上陸する恐れが最も高い九州の最南端に位置していた。更にここで付け加えると、特攻の中でも航空機を用いた戦法がよく知らなれているが、モーターボートや潜水兵などの航空機以外の特攻もあるから、本書で扱う特攻とは、「大日本帝国陸軍の航空機による『航空特攻』並びにその出発基地(前線基地)となった知覧」について記載されたのが本書である。作者はインパール5部作を記した、元従軍報道記者の高木俊朗氏で、終戦前後はこの知覧に滞在し、多くの特攻隊員やその周辺に生きる様々な人々との交わりを持っていた。それは特攻隊員の身の回りの世話をする女学生、特攻隊員たちが頻繁に訪れた旅館や食堂の関係者、そして特攻隊員との最後の別れを惜しむ親や妻などの家族にまでインタビューは及んでいる。
また本書が描かれたのは戦争終結からそう日が経過していない昭和30年代であり、最初は朝日新聞への連載として開始されている。聞き取りを行った多くの人の記憶には、まだ終戦間際に多く実行された特攻の記憶も新しく、多少の記憶の美化や歪曲などがあったとしても、月日が流れる事による記憶の衰退や錯誤の影響も受けにくい時代であった様だ。何よりそうした人々との直接交流により生まれた文面や文字には高い信憑性が与えられ、今なお多くの文人が、特攻について記す、語る際のバイブル的な存在であるとも言える。
その内容であるが、多くの特攻映画の起点となる様な様々なエピソードが語られる中、一貫して繰り返される主張は、生きながら神となった特攻兵たちも、生身の人間であるという事に尽きる。そこには十死零生の作戦として死に向かう若者(多くは十代から二十代だが、中には三十を過ぎた者もいる)達の悲痛な叫びであり、それは国の為に自らの命を捧げるといった崇高な気持ちだけで無い、恐怖に苛まれるごく当たり前の感情も存在する。多くの隊員達が記した遺書には、最後に名を残すという意味合いの文字とそれまでの人生を授けてくれた親兄弟、妻などへの感謝の言葉が綴られる。一方で出撃から何度も出戻ってくる隊員が、果たして機体の故障からなのか生への執着、または恐怖からであったかはわからない。だが仮にそれが恐怖であったにしろそれを責めたり誹謗する事など後世の平和な世に生きる我々に出来ようがない。いや当時の上官や国民ですら、自らが離陸後の状況に置かれていないものが、操縦桿を握る特攻兵と同じ気持ちを理解する事など不可能だなはずだ。本書はそうした周囲の人々から見た特攻を中心に語られており、更には歳も近く最後まで同じ時を過ごした女学生達の言葉が多く出てくる事から、彼女たちに見せる特攻兵の姿が、最もリアルな若者の表情として窺えてくる。
特攻について、本書の様な書籍を見る時、常に自分の今の姿と重ねてしまう自分がいる。決して日常生活の中に「絶対の死」が訪れる事など、寿命以外ではそうそう無い時代。仕事で苦しい想い、苦い想いをしてもそれが直接的な要因となって死ぬ事など滅多に無い。ダメなら諦めたり、会社を辞めたって構わない。それはある意味我々に許された逃亡手段でもある。だが特攻兵に逃げ場はない。それが自らの意思であれ、上からの指示であれ、彼らに死から逃れる方法はほぼ無いに等しい。その比較が頭の中をよぎる時、果たして今私自身が味わってる苦しさなどは大したことがない問題なのだと片付けることができてしまう。決して彼ら特攻兵をダシに、自らの境遇の慰めに使おうという意味ではなく、彼らが目の当たりにした苦しさなど自分には想像もつかず、それは前述した様に本人たち以外では、絶対に理解のできない境地にあるのだ。だから、自分の境遇を苦しいとか辛いなどと決めているのは今の自分であると逆説的な気づきを得ることができるのである。
今なお特攻隊についての評価は定まらない。作戦としては当初より外道と言われ、敗戦後は特攻兵に対して無駄死にという意見も多くあった様だ。今の世に生きる平和しか知らない若者、私を含め戦争体験の無い世代だけになるのは時間の問題だ。だが決して彼らの存在とその様な時代があった事を忘れてはならないし、死を決められた若者達の気持ちについて、考え続ける事は、平和な時代を続ける為には必要だと感じる。痛みや悲しみを忘れて仕舞えば、人はまた過ちを繰り返す。こうした優れた書籍を読み、涙を流せる人が絶えてはいけない。