生活の叙述の中で、ベトナムの人の物の考え方や大切にしていることも感じられたし、筆者のベトナム観にも大いにうならされた。
ベトナムの人々の強さ、生きる力を見せつける数々の実話と、その背景にあると思われ歴史・風土的背景。
国際社会の中での、外交的あるいは文化的な立ち位置。
ベトナムの風土がもつ資源や自然の豊かさ、食の写しさ。
そして、翻って、日本が心がけるべきこと。
ベトナムを知るための一冊として必須だろう。
以下、印象に残った記述(一部、簡略化して転記)
・妻は一家の家長で、働きもので、大家族制の名残を残す国では、一般に家長依存の風習が強い、しかも相手の稼ぎがいいとなると遠縁とか昔馴染みと称する連中が次から次へと群がる。持てるもものが持たざるものを助けるのは当たり前、という仏教上の通年も影響している。
この辺の感覚はこの国の外交態度にも表れている。サイゴンもハノイもそれぞれ諸外国からしこたま援助をもらいながら、めったに「ありがとう」といわない。(p.16)
・この国で生きていくための金科玉条は、腹を立てても特にならないとわかっているときは、絶対に腹を立てないことなのだ。たしかに長い間波乱の歴史にふりまわされ、現在も戦争のおかげで乱暴な権力や金力が幅をきかせているこの国では、少々のことに腹を立てていては下々のものはとてもやっていけない。(p.26)
・(結婚にあたって、)「お釈迦様は(凶などという)意地の悪いことをいわない。たくさんお礼を払いますって先に言っておいたから。」(p.49)
・本格的に東京での生活を始めた。妻は、私よりもむしろ平然と、この大都会の生活になじんでいった。
(日本国籍を取ったことで)ベトナム国籍を離脱するにさいしての心境を聞いたら、「書類の国名が変わっても、私自身が永久にベトナム人であることに変わりはないでしょう」と、特別の感慨を示さなかった。(p.57)
・彼女が気に病んだのは、家も収入も失った一族が先祖の祭りもろくにできなくなったのではないかということだった。そこで浅草の観音様を、「私のお寺」に選んだ。「アシタアサクサイコウナ」と。(p.59)
・この国での付き合いの鉄則として、「常に相手の名誉心を重んじよ」といわれた。
この国の人々がときには以上に思えるほど「メンツ」にこだわり、現実にそれへの配慮が日々の身の持し方の一基盤をなしていることをしばしば実感した。
単に個人の行動や対人関係に限らず、ときには政治問題、外交問題にいたるまで「メンツ」が介入し、それがこの国自体の生きざまを、はた目にはよけいややこしくしているのではないか、と思われることさえあった。(p.76)
・ベトナム式子育て法のもう一つの基本は、何よりも「強い子」を作り上げることのようにみえた。確かに、強靭で、世知にたけ、したたかな人格でなければ、戦乱続きの国を生き抜いていけない。国家形成以来、たえず外国勢力の侵略や内乱にもまれ続けたベトナムの歴史自体の世知辛さ、悲しさがつちかった規範なのだろう。(p.81)
・混血であること自体が「いやになっちゃう」わけではないらしい。ベトナム(とくに南部)では、先住のカンボジア人、中国人それにフランス人などの血の混入がかなり進んでいる。だから混血と言っても別にめずらしいことではない。むしろ世界中どこでもそれは同様で、「純血」の発想から民族をとらえるような人種は、日本人ぐらいしかいないのではないかと思う。(p.123)
・日本は資源貧乏国だ。人々は、戦争と飢餓が表裏一体のものであることを身をもって知った。
(しかしベトナム戦争中も)南ベトナムの人々は、イモの取り合いで殴り合いなどしていなかった。都会でも地方でも、市場にはコメ、肉、サカナ、野菜、果物が山ほどあり、相当な貧乏人でも少しまずいと、まだ食べられるものを平気で捨てていた。この国では、戦争と飢餓とは、少なくとも私が勝手にそう思い込んでいたほど、二人三脚の道連れではなさそうだった。むしろ、食い物がこれほど豊富だったからこそ、こうも長い間国を戦乱の中に投げ込んで、なおまだドンパチ続けていられるのではにないか、という気がした。となると、庶民の貧困への同情や義憤だけを基調にこの国の戦争を眺めたら、いずれ辻褄の合わないことがでてくるのではないか、と、そのとき思った。(p.128)
働かなくても十分食える、という自然状況はたしかに私たちのものの考え方や価値観もなかなか通じないことがあるのだろう。(p.131)
・(米国のサイゴン・マーケットを突き止めて、)
バンコクから一度米国へ渡り、また太平洋を越えて舞い戻ってくるのだから、漬物一つでもたいそう高いものにつく。それでも彼女には、これなくして何のこの人生、ということらしい。こんな周年を見ていると、ベトナム人とはなんと頑固で濃厚な食生活文化を持った民族か、と思う。(p.140)
・ベトナムでは(他の東南アジア諸国もそうなのだろうが)、自然が圧倒的な支配者であることを、つくづく感じた。だから、これを保護するというような発想は、ほとんどの人が持っていなかった。(p.177)
・交渉上手とは、ある意味では、相手の顔色を読み、必要に応じてはあえて卑屈になることをおそれぬしたたかさをいうのだろう。となるとこれは顔色をうかがったり、愛想笑いをさげすむ価値観とは相容れない才能なのだろう。
その点、ベトナム人の交渉上手は、外交面でもすでに定評がある。早い話が、「パリ交渉」だ。ベトナム停戦をめざしてい、1968年から1972年まで続けられたこのマラソン交渉で、北ベトナム側は、常に米国の足元を見ながら、ある時はこわもてに原則をふりかざし、ある時は相手の方をたたかんばかりに歩み寄り、が、基調としてはニコニコ笑って平然と嘘を押し通し、稀有の忍耐力で結局は100%自己に有利な協定をまとめ上げた。「パリ交渉」のテーブルでベトナム人が示したこの並外れたかけ引きの才能と感覚は、やはり市場文明のえげつなさに鍛えら抜かれた民族の血なのではないか、と思う。(p.213)
・ベトナム人の現実主義的な生きざまは、インドシナ半島の国々の中でこの地域だけが濃厚な中国文化圏に育ったことにより、いっそうきわだって見えるのかもしれない。
インドシナ、という呼び名は、この半島地域がインドと中国の中間地帯にあるところから来たが、さらにきめ細かく見るとこの二つの文化は、半島内部で均質に交わっていない。大雑把にいうと半島東寄りを縦走する安南山脈が文化、民族の分水嶺をなしている。東から来た中国の影響力は、山脈の壁に突き当たりその東側のベトナムにとどまった。西から来たインド文化も山脈に遮られ、西側のタイ、カンボジア、ラオスに落ち着いた。
人種、言語の系統も著しく異なる。
ベトナムでは科挙の制度や儒教の道徳規律が取り入れられ、歌舞、建築、絵画なども中国風だ。仏教も日本と同様、大乗仏教だし、箸を使ってものを食べる。
これに対し、アンコールワットやタイの寺院など、山脈西側の世界は日本人にとっても異質だ。諸国の仏教は小乗仏教だし、手やスプーンを用いて食べる。(p.230)
・妻にかぎらずベトナム人は男も女もなみはずれた釣り好きだ。(中略)公民館を抜け出してきた三、四人が、夢中になって竿を操っていた。皆、人が変わったように生き生きした目つきで真剣に磯ザカナと取り組んでいる。(p.304)
・日本の門戸は極度に堅い。定住どころか難民の存在も認めていない。定住や公式滞在を認めない理由はいろいろ挙げられている。①取り扱いを規定した法律がない。②仮にベトナム難民の滞在を認めれば、他の東アジアや東南アジアの強権国家からもどっと人がつめかけ、大変な問題をかかえこむかも。③日本は古来、単一民族、単一文化の特殊な国なので、社会にとけこめずかえって不幸になるかも、と。いずれも愚につかぬ詭弁。とりわけ③ほど子供っぽい、自分勝手の言い分はない。(p.312)
・「独立と自由ほど尊いものはない」というスローガンを目にしたときの、新たな感慨を思い出す。「独立と自由」であり「自由と独立」ではない。絶対の一義は「独立」であった。これに比べたら「自由」も二の次なのだ。
「独立と自由」、一見さりげないこの語順が意味することのおそろしさを感じる。(p.318)
・どの手紙も、封筒の表には差出人の筆跡で、「独立と自由ほど尊いものはない」という故ホーチミン大統領の言葉が書きつけてある。外国宛(もしかしたら国内宛も?)郵便物には、すべてこの標語を明記すべし、という政府のお達しらしい。これも教育の一環とみえるが、庶民にとってみれば、切手代りみたいなものなのだろう。(p.327)
・国際結婚を長持ちさせる鉄則(?)は、夫の国ではなく、妻の国の方に住むこそだ、と聞いたことがある。男の心が比較的、「動」に耐えられるのに対し、女性の心情はやはり「静」を求めるからだと言う。むろんこれは一般論だろう。(p.342)
・「まあ、どこで誰がいつ死ぬかなんて、そんなこと今から考えるのやめましょう。どっちみち、お釈迦様が決めることなんだから」。信じられるものを持つことは、やはりこの世を平然と生きる上で、結構なことなのだろう。(p.343)
・制服に肩章を光らせれば手に負えない警官らも、くたびれたシャツに着換えて屋台のベンチに腰を下ろすと、それぞれの年輪を両肩に背負いながら精一杯に生きている人々だった。
その年輪のどれをとっても、「平和」や「人権」に保障されてレールを歩み、帰りの航空券をポケットにしてこの土地に足だけ引っかけている私自身のそれよりは、はるかに悲痛で凄絶なものであるはずだった。
そんな人々からふと恥ずかしげに微笑みかけられた利、思いがけぬ気遣いを受けたりするたびに、私は、そのために生きるに値するものを垣間見るような気がした。生き抜くためのしたたかな甲皮に覆われてはいても、心の隅は無類に優しく、悲しみを知る人々の集まりに見えた。私に半年刻みで離任を延ばさせたものも、結局は日々の下町の生活でいくらも拾えるこうした心のかけらの温かさだったのではないか、と思う。