あらすじ
築四十年、三千戸を超す都営住宅の一室で、夫・一俊と暮らし始めた千歳。その部屋の主である一俊の祖父に頼まれ、千歳は「高橋さん」という人物を探し始めるが……。存在も定かでない「高橋さん」を探すうち、ここで暮らす人々の記憶と、戦後から七十年の土地の記憶が緩やかにひもとかれていく。〈解説〉岸政彦
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Posted by ブクログ
「その街の今は」や「わたしがいなかった街で」の次は「マンモス団地小説」だった。
戸山ハイツ、箱根山、がモデルなんだとか。
ド田舎出身ゆえ、35棟、3000の部屋、7000人近く住んでいるというスケールを想像しづらいが、大友克洋「童夢」を思い出しながら読んだ。
また、たまたま連続する団地の部屋というイメージから、黒沢清の作品群を断片的に連想したが、たぶん通底している。と思いたい。
黒沢清は別アプローチから別手法で、記憶や時間について考えを深めると、幽霊に行き着くのではないか、と。
「かわうそ堀怪談見習い」は企画ものではなく必然だったのだ、と事後的に考えることができた。
つい黒沢清について書いてしまうが、
時間と空間を切り取ってつなぐという映画的手法を行っていると、どうあっても幽霊が生まれる。
「回路」の「幽霊に会いたいですか」は「映画が生まれる瞬間に立ち会いたいですか」という意味でもある。
また都市とは人が生活する空間を作って住み、住みながらリビルドしていく終わらない営為。
この都市づくりと、映画づくりと、語って記憶するという行為を、まさにその渦中にいる人物の視点から思いを馳せる。
これがこの小説なのだ。
「移人称」「交換可能性」についての説明でもある。
本筋とはほぼ関係ない(というか本筋という考え方自体捨てたほうがいい)シーン。
団地の公園で中学生が集まってグダグダしているが、彼らの名は山田、山下、山本、山岡。
アイスを食べに山岡の部屋へ行き、さっきまで座っていた遊具を見下ろして、自分がいずれここからいなくなるのだと、急に理解した、という一節があり、この断片だけでも凄いなと。
ここは阿部共実の絵柄で連想したりもした。