あらすじ
学習指導要領の改訂や大学入学共通テストへの記述問題・民間試験導入で大きく揺れ動く国語教育・英語教育。本書では、この危機の時代に、国語と英語という「ことばの教育」にはそもそもどんな意味があるのか、そしてどうやって「ことばの力」を鍛えるのかを、それぞれの分野の専門家三名がリレー形式で思考する。私たちの思考の根本をつくるのは「ことば」である。その教育が、子どもたちの未来をつくる。「ことばの教育」を考えることこそが、いま大切なのである。
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Posted by ブクログ
対談形式で、ことばの教育について日本語、国語、英語にかかわらず、哲学や理論など様々な視点で語られている。
互いに批判を恐れず、誤解を解き合い、少しずつ本質に迫っていく姿勢に尊敬の念を抱かずにはいられない。
p198〜
教える者がなすべきは、自身が研鑽を積んで真剣に学習者と向き合い、彼らに刺激的な知を提供して学びを深化させること、そのような教育を通して自律性を育むこと。
国語であれ英語であれ、ことばを教えることも、根本はそれに尽きる〜
Posted by ブクログ
外国語習得の基盤は母語(国語)。「第二言語としての英語」(ESL)≠「外国語としての英語」(EFL)。後者を意識的に勉強した学生の読み書き能力が高いことは珍しくない。異言語習得の基盤は「母語」だから。
BICS(日常会話力)CALPS(認知的学習言語能力)。CALPSにはまず、母語の獲得が大切。だから母語を獲得してから海外に行った方が学習言語を習得するのが早い。
にも拘わらず、(日本語が覚束ない)幼少期から英語漬けにしようとする。母語をしっかり獲得しないから、日常会話レベルの発音だけは流暢になっても学習言語の修得がおぼつかない。にも拘らず、もてはやされるのは日常会話レベルの流暢さ。
考えてみれば、英語教育もまた言葉(人間)を育てる教育。言葉であるからには、生き生きと興味深い豊かな世界に直結しているはず。しかし単語を暗記したり、学術的な文法書を読んだり、単なる入試対策であったり、TOEICの点数を上げるためであったりと、英語は無機的は要素の集積のように感じてしまう。言葉として当然持っているはずの豊かさや人間らしさ、社会や文化ということを忘れ、スキルの集合体としての英語ばかりを見るようになっている。
原点に戻って、言葉(人間)を育てる英語教育を目指すべき。
協同学習は「自律性」の涵養に有効とはいっても、学習者中心の能動的な学習を誤解して、生徒や学生をグループに分けて話し合いをさせる(自由放任)だけでは学びにならない。共同学習の原点は、「周囲との相互行為を通して一人では到達できない領域に達する」ところにある。教師による適切な介入と丁寧な指導があってこそ「共同学習」は「自律性」の育成に大きな役割を果たす(p198)。これが、コミュニケーションとしての英語の学習の原点なのだろう。
それにしても80年代から、教育行政に(教育素人の)経済界が(自社の利益を念頭に置きながら)割り込みすぎ。英語は人間育成でなく、産業育成に成り下がっている。こういった現状が教育をダメにしていることを考えれば、必読の価値がある一冊だ。
Posted by ブクログ
ことばの力とは何か? どうやって育てるのか?
それぞれ専門分野が異なる3人の往復書簡のような意見交換。自分の中では鳥飼先生の分野にもっとも馴染みがあるので、鳥飼先生の意見が一番スッと入ってきた。しかし大村はまという大きな教育をどのように受け継ぐかは興味がある。教育に王道なしとはよく言ったもので、同じ生徒、同じ先生という条件にはないのだから、唯一絶対のメソッドなんてない。大村はまの教育がどんなに優れていようと、うまく適用されない現場や生徒がいるだろう。だからそれぞれの優れた教育法の核を認識して、教員がそれぞれの教室で一人ひとりの生徒をよく見て、もっとも適した方法を取る必要があるのだ。それはとても大変な道だけど。
英語と日本語を比較することで深まる部分というのは自分の中にめちゃくちゃあった。自分は文法(というか文の構造)大好きなので、句や語に分解して理解していくというのを、英語・古文・漢文すべてでやっていたな、と。でもそれが万人に通じるとは思わないし、学習初期には向かないだろう。