あらすじ
江戸前期を代表する作家・井原西鶴。彼の娘おあいは、盲目の身ながら、亡き母に代わり料理も裁縫もこなす。一方、西鶴は、手前勝手でええ格好しぃで自慢たれ。傍迷惑な父親と思っていたおあいだったが、『好色一代男』の朗読を聞いて、父への想いが変わり始める。小説を読む歓びに満ちた、織田作之助賞受賞作。
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大矢博子さんの解説を読んで、そうだったのか!とスッキリした。読み初め、やや物語に入り込めない感があったのだが、「おあい」を見ていた自分が、いつしか「おあい」として見るようになっていき、すっかり作品世界に没入していたからだ。大矢さんが書かれている「思えば、目が見えない ー 映像情報がないということは、テキストのみで構成される小説を読む行為と似ている、と言えるのではないか。さらに本書はおあいを語り手にしたことで、物語の中にも人の目鼻立ちや風景の直接の描写はまったく出てこない。しかし読者の目には、台所に立つおあいの姿がはっきり目に浮かぶ。桜鯛を捌く彼女の手が、彼女が出会った人々の様子が、それぞれの読者の心の中で再現される。」「もちろん、著者の筆力あってこそだが、これが物語の力だ。」という言葉に、非常に納得した。
とはいえ、解説は作品の読後に読んだのであって、このように整理された考えを頭で理解し読み進めていた訳では、もちろん全くない。
徐々に解き明かされ深まっていく親子の時間を共に生きることで、二人の生涯は幸せだったのだなぁと、静かに満たされて本を閉じることができた。世の中が落ち着き文化が成熟していく時代の、大阪の市井の人々の闊達な暮らしぶりがまた、気持ちを晴れやかにしてくれた。朝井まかてさんは、やっぱり面白い。
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井原西鶴と言えば、「好色一代男」を書いた坊主頭の人という知識くらいしかなかったが、読みやすく、登場人物がとても魅力的で非常に面白かった。
盲目の娘おあいの目を通して、父として、また、俳諧師、草子書きとしての井原西鶴を描いている。自尊心が強く何よりも自分が大好きで、自由奔放に人間臭く生きる西鶴が活き活きとしていて良い。
天下泰平の江戸、将軍綱吉の時代を背景に、俳諧が世間を席巻していくさまは、現代にも通じるワクワク感があり、松尾芭蕉や近松門左衛門など、歴史上の人物も登場し、歌舞伎や浄瑠璃といった文化が熟成されていく過程を垣間見ることができる。
盲目の娘おあいの作る料理の数々も、全部美味しそうでそそられた。ぶぶ漬けや素麺、冷やし飴など、
江戸時代の豊かな食文化に興味が湧く。
俳諧師としてテッペンをとることに執着していた西鶴だが、本当の力量は草子書きで発揮された。
現代で言うところの大衆小説のハシリ。「好色一代男」の何がそんなに凄いのか。読んだことのない私は、怪しげな題名に、あまり良いイメージを持っていなかったが、西鶴の人となりを垣間見ることで、それはリスペクトに変わってしまった。
「好色一代男」読んでみたい。
市井の人々のひきこもごも。「皆、愚かで惨めで、けれど父は彼らを非難していない。ただひたすら、掛け値なしのまなざしを向けていた。」
作者は「世間胸算用」をもって、「お父はんの真骨頂や」とおあいに言わせている。
話の骨には父と子の不器用な愛情が描かれており、何度も泣かされながら、井原西鶴という人物の面白さに魅了された。
「万懸帳埒明けず屋」「よろずかけちょうらちあけずや」だった西鶴。お金を稼ぐ事が目的ではなく、したい事、やりたい事を突き詰めた人生。
自分とは正反対の生き方を貫いた西鶴に、大きな拍手を送りたい。
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井原西鶴と盲目の娘おあいの物語。
あー、こういう親父いるわ、と思いながら、嫌でたまらなくても、その親の面倒を見るのはおあい。
俳人でありながら、俳句ではなく草子ものが当たってしまい、その間に天才芭蕉が西鶴の先をいってしまう。
巻き込まれる娘はたまらないよなぁと思いながら、それでも私もあおいと同じ事をするのだろうと思う。
切なくて、あったかくて、最後に泣かされなんて、もう朝井まかてさんはずるい(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
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西鶴の盲目の娘「おあい」からの視点で描いた井原西鶴。
最初の部分は、「おあい」は父親の西鶴の人となりに対して、常に嫌悪感をいだき、それが読者にも伝播し、途中で読むのを止めようかなと思ったほどだった。
人を集めてはお山の大将になり、ひときわ騒がしく、人間の欲望の厭らしさを凝縮したような西鶴が、時を経るに従い、特に俳諧で身を立てようとした西鶴が、草双紙の戯作者へと変貌する当りから、娘の「おあい」は、血の通った情の厚い父親として見直していく。
同時代に活躍した俳諧の西山宗因、其角、芭蕉や、浄瑠璃作者の近松門左衛門などが登場し、この時代に興味をそそられる。
特に、芭蕉は西鶴を厳しく批判し、「点者として見当はずれなことを言い散らして、句の良し悪しをちゃんと判じておらぬ。西鶴は、俳諧をまるでわかっていない」、そしてこう批判したのである。「阿蘭陀西鶴、浅ましく下れり」
それに対して、西鶴は「わしが浅ましゅうなったやと。阿呆か。この阿蘭陀西鶴、名乗りを上げたその日ぃから、さもしゅうて下劣な輩やと自ら触れてあるわい。つつくんはそこか。違うやろ。せっかく町人の、俗の楽しみになったもんをわざわざ難しゅうして、皆が手ぇの届かん排風に祀り上げてんのは己やないかい。ああ、なるほど、お前はんは清いわ、尊いわ、言葉に凝りに凝って磨きをかけて、これが芭蕉の句ぅでござい、はっ、それが何やっちゅうねん。小っちゃい言葉の端切れにこだわって、理詰めにあれこれ判じて。それが一体、何になる。凝り性の澄まし屋がっ。俳諧が何ぼのもんじゃい」
この西鶴の言葉は、著者が一番西鶴の人となりを表現しているような気がする。
また大阪弁を使うことで、より俗っぽい人柄を表している。
そして、西鶴の芭蕉への批判が俳諧そのものへの決別となってゆく。
話が脱線するが、私の好きな大岡信は、その著書「百人百句」に、百人の俳人の一人として「井原西鶴」を取り上げている。以下「百人百句」からの引用。
代表句として、
・長持へ春ぞくれ行く衣更
西鶴は、西山宗因の門の談林派の新風における俊英だった。
一定時間に独吟連句の数を競う「俳諧大矢数」に長じ、42歳の時住吉神社で、一昼夜23500句独吟を興行、世間を驚倒させた。
(略)
井原西鶴といえば「好色一代男」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」等の作品で、旧来の物語の伝統を破り、好色物や律儀な武家気質、あるいは町人のしたたかな経済生活を描いて、人間の欲望をいきいきと描写した近世最大の小説家である。
西鶴の小説の簡潔で勢いの強い文章は、俳諧の修行にその基礎があるともいえるだろう。
「おあい」の父への感情の変遷と同じように、最初に読み始めた時の西鶴への嫌悪感が、西鶴の人となりが分かるに従って、徐々に薄れ、そして小説の最後に来て、ちょっぴりと泣かせる、良い小説でした。
最後に付け足すと、前に読んだこの著者の葛飾北斎といい、上記の井原西鶴といい、浮世絵師や戯作者は、人気の割には貧乏で、この時代の社会的地位の低さがよく分かる。
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おあいが父、西鶴の本音というか気持ちに、少しずつ気づいていく様子がとても良かった。
おあいの目線なので、読んでいる方も最初は西鶴のことをうとましく思い、理解不能だと感じるように引っ張られている。
それが、辰彌、それから荒砥屋、そしてお玉らの言葉によって、父の内面、知ろうとしなかった気持ちに気づかされる。
見えていれば、もしかしたら、言葉と表情が違うことがもっと早く分かったかもしれない。でも、おあいには口に出された言葉が全てだった。でもでも逆に言えば、言葉がしっかりしていればなんだって伝わるってことなのかも。
西鶴の造形もなかなか興味深かった。けしていい父親ではなかったけれど、人として一本筋が通っているというか。ぶれなければいつか、どこかにたどり着けるという泥くさい道を地で行った人生だったんだろうか。
おあいのふとした言葉に「そうか、曲節や」とヒントを得るところ。
商人の物語を出そうとしたら本屋に難色を示され、「何が安心や。好色ものを出す時、お前はんら、何て言うた」と啖呵をきるところ、とかが良かったな。
「お前はんらは、己の足で道を見つけたいとも思うてないんやろう。ほなら黙ってわしについて来んかいっ」
そして、西鶴が貧乏人の身過ぎ世過ぎを書いた新作を聞いて、「これぞお父はんの真骨頂や」と思うおあい・・・じーんとしたなぁ・・・。
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井原西鶴とその娘おあいの物語。
亡き母親から炊事洗濯を仕込まれた盲目の娘おあい。
見栄っ張りで威勢だけはよく、娘の気持ちを忖度しない父西鶴を嫌っているのだが――。
日常の音や匂い、人の声、季節の気配を繊細にとらえるおあいの一人称で書かれているため、あらゆる描写が新鮮に感じられます。
かたくななおあいの心。
近くにいるのに互いに伝わらない父と娘の気持ち。
物語が進むにつれて変わっていく様子が、温かくも切ない。
すべて読み終えて、帯にある「お父はんのお蔭で、私はすこぶる面白かった」という言葉を見ると、ぐっとくるものがあります。
大阪弁の会話、ってなんかいい。
感情とか情感が加味されて、表現としてずるいなあ、という気もします。
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井原西鶴の娘の視点で書かれてあるので、西鶴の俳句に対する思いや取り組み方などが新しい角度で読む事ができたと思います。
あいという娘に対する気持ちや扱い方で西鶴の愛情の示し方も独特のものがあると思いました。
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正直なところ、あまり面白いと感じずに早く読み終わりたいと思いながら読んでいましたが、最後の1ページから巻外にかけて、ジーンと来ました。
読んで良かった。
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歴史の教科書では井原西鶴に関する記述はたったの数行だが
その数行が実に生き生きと膨らんだ。江戸時代に市井の人々が何を食べどのように暮らしていたのか西鶴の盲目の娘を通して語られる。久しぶりに読んで楽しかった。井原西鶴の好色5人女など現代語版があれば読んでみたい。
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井原西鶴は文学史で覚えるべき一人、というだけの存在だったけれど、この本でちょっと視点が変わった。
人間味が溢れる人柄と作品に一気に興味が持てて、来年は西鶴作品を読んでみようと思った。
実際はどんな人だったのか、もちろんわからないけれど、現実でもこの作品のように、おあいは西鶴の娘に生まれて、幸せであったことを願います。
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おもしろかったよ。ところどころ、日本文学史?風俗史?みたいで読んでてダレる部分もあったけど。目の見えないおあいが上手にお料理したり、家事を切り盛りする様子は情景が目に浮かぶようでした。
西鶴の不器用なおあいへの愛も微笑ましかった。
いいパートナーにめぐりあってほしかったけど、そうはうまくいかないよね。
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5と迷って迷って4にした。そのくらいすごく良かった!!
井原西鶴の盲の娘、おあいの視点から物語は展開していくんだけど、盲のおあいに料理や縫製を叩き込んだ優しい亡き母、可哀想と言われるのを何よりも嫌っていて、いい格好しいの父親が嫌でたまらないおあい、幼い二人の弟、女衆のお玉、出てくる登場人物がすごくありありと頭の中で映像化されて、のめり込んだ。
最後は泣きそうになったし、現実がこんな風にあたたかいことを切に願った。
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西鶴の娘おあいが主役。
盲目のおあいだが、家のことは一通りこなせる。
近所への買い物もできる。
同時に、談林派の俳諧師でのちに戯作者になる父西鶴の越し方も描かれる。
元禄のころ。
好色一代男などのヒット作を生み出した西鶴と、その周辺のあれこれが勉強になる。
西鶴の妻、つまりおあいの母は早くに亡くなる。おあいの弟たちは他家へ養子に出されるが、おあいは西鶴の手元に残された。
父の気持ちがわからないまま、父と娘の日常生活があり、おあいは父の身の回りの面倒を見る。付き合いの広い父の客のために料理をする。
なかなか大変な生活。
読みどころは、目の見えないおあいの感覚で作られる家庭料理の匂いと味の表現。とてもとても美味しくそう。
いい小説だった。
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小学校の歴史でしか知らなかった「井原西鶴」という人物像を深く知ることができた。娘のあおいの視点で書いているのもよかった。西鶴がどのように生きてきたのかということと、親娘愛という異なった方面から楽しめる本だった。
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大衆小説の創始者 井原西鶴と、盲目の娘 おあいの物語。
ゴッホがそうであったように、創始者はなかなか時代に受け入れられず周囲の人に迷惑をかけつつ己の道を邁進するものなんですね。多くは朝井さんの創作でしょうが、父娘の関係が変わっていく様子は胸を打ちました。
一方で研ぎ澄ますことで道を極める芭蕉のような存在も貴重だと思いますが、間口を狭めることで一部の人たちだけのものになったことが、いつくもの日本の伝統文化が細々としか継承されない結果を招いたのかな。
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井原西鶴とは、文学年表だけの人でした。彼の一人娘が盲目であったことなど知る由もなかった。娘から見た、偉大な父を描くのは著者の得意とするところか。娘に対する父の思い入れは、不器用になるのだが、二人の心の通い合いがとても良く描かれて感動を誘う。今になっては、読み直そうとすることはかなわないが、とても興味のある作家であることを教えてくれました。
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身体障害者の身内に、あなたは、どんなふうに接しますか?
西鶴は、ダメな父ちゃん、として接します。
完全護衛もしません。
自分が死んだあとも、娘は生き続けるのだから。
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教科書に出てきた江戸時代の文化人…ほどの知識しかなかったが、テレビで井原西鶴について知り興味を持ってたどり着いた本。
よくありがちな調子のいい道楽者で豪傑みたいな人物像を想像してたけど、物語の主人公である盲目の娘と同様にページが進むにつれ西鶴の情の深さやユーモアのある生き様に魅せられた。
また読みながら家の中の様子、台所風景が目に浮かぶ美しい文章だった。
西鶴のみならず江戸時代の文芸をもっと知りたいと思った。
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切ない。何がせつないってそりゃもう、父娘の実は…的な。
やっぱり、言葉に言わないけど空気を読めって親子でも絶対分かり合えない。
いっぱいスキンシップをしていっぱいコミュニケーションをとってほしい。ハグしたらいっぱいアドレナリンとオキシトシンが出るからそれが脳にも心にもとっても重要。今大好きな人を横目にみて、これを書き終わったらキスして大好きと言おうと思えた。
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朝井まかてさんの小説を読むのは初めて。本書は江戸初期の俳諧および草紙業界で大活躍した、井原西鶴の歴史小説である。
解説によると、井原西鶴に関する資料はあまり残っていないようだが、著者はかなり調べたらしい。本小説は、井原西鶴の盲目の娘の視点で書かれていて、西鶴に実際にそのような娘がいたというのは史実だそうだ。
西鶴は大阪に拠点を構え、派手な生活をしながら、俳句を次々と詠み、それがまず評価されていった。娘は家事、主に料理をして父やそれを取り巻く人々との交流を支える。西鶴がたまたま書いた、好色一代男が大ヒットし、西鶴は売れっ子小説家となる。
江戸時代の町人を描いた歴史小説や時代小説はいくつか読んだが、大阪が舞台となった本書はなかなか興味深かった。盲目の女性の視点で書いているので、音や匂いや気配を中心に物語が展開されるが、想像力を掻き立てられて興味深い。お手伝いさんのお玉とその夫も人間臭くて面白かった。若くして妻を亡くし、息子たちは手放して娘だけを手元に置き、自由奔放に見える西鶴だが、ほのかな優しさが見え、疎ましく思っていた娘も心を開き始める。ほのぼのと温かい小説だった。
宇江佐真理さんあたりの小説を好きな人には、とても楽しめると思う。
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面白かった。西鶴の娘、おあいの視点から西鶴を描いている。どこまでが史実なのかわからないが、おあいは盲目だが、亡母に仕込まれて料理も裁縫も一通りのことはできるようになっている。だから同情されたり、必要以上に気をつかった挙句に、盲目だから何もできないと決めつけられるのが嫌いというあたり、現在の障碍者問題にもつながる部分がある。西鶴のほうは俳諧から戯作者、芝居の作者と挑戦していく。西鶴の一代記というだけでなく、おあいの父親に対する気持ちの変化が一緒に書かれることで、西鶴の人間味が増しているようだ。
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西鶴と娘、おあいとの物語。
幼い頃母を失い、父と二人で生きていくことになったおあい。
最初は父を身勝手で、自己顕示欲の塊で、盲目の自分を客前に出して自慢するのも、売名のように感じていたおあい。
次第に父の愛情を感じ取れるようになっていく。
談林派の俳諧師から、草紙の作者へ、憑かれたように創作活動に打ち込み、やがて人の業を描き切ることができないと嘆くようになる、西鶴の創作の軌跡に、おあいはぴったりと寄り添う。
そんな矢先に、二人の暮らしに終焉が訪れる。
その幕引きは寂しく、切ない。
おあいの感覚を通して描かれる人々の姿、街や庭。
どれもが読んでいるこちらの感覚を呼び覚ます。
行ったことのない町、あったことのない人々なのに、手触りのようなものさえ感じる。
作者の確かな描写力に、小説を読む満足を味わわせてもらった。
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文庫で再読しました。前回をふんわりとしか覚えてなかったので、熱量を持って読めました。とても面白かったです。盲目の娘・おあいの語りで描かれる井原西鶴の生涯が生き生きと伝わってきました。2人を取り巻く登場人物たちも生き生きとしていて、読んでいて楽しかったです。初めは俳諧、次に草紙と、西鶴の紡ぐ言葉が気になりました。読んだこと無いけど読んでみようかな…と多分前回も書いた気がします。おあいがだんだん西鶴の思いを知っていくのも良かったです。お玉のラスト辺りの台詞も良かったな。こんな生き方もあっていいのですよね。
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面白かった。『眩』より好み。
父と娘という、家族から見た創作の世界という点では、かなり似ている。でも、本人も同じ世界にいるか、全く外にいるかで見え方が違ってくる。
『恋歌』もそうだけど、やはり作家が物書きの話を書くと、同じ創作でも、臨場感が違う。
西鶴から発される熱のようなものに巻き込まれていく。
お玉の言葉に、おあいが、自分で思う自分と他人からの認識のずれを初めて自覚するところが、鮮烈で心に残る。
芭蕉や近松とのやりとりも興味深かった。
意識していなかったけど、この辺は同時代なんだなあ。
井原西鶴、その名だけはよく知りながら、どういう人なのかは全く知らなかった人物。
そういう意味でも、とても興味深い物語だった。
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前半はのらりくらりと面白みなく中盤から面白くなってきた。西鶴の作品を何か読んでみたいと思っていたが、この本を読むとその書かれた背景が描かれていてどれを読んでよいものかますます迷う。
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それにしてもエライ父親を持ってしまったものだ。
辛抱の中に時々差す陽の光。
目には見えなくても伝わる体温や匂い。
西鶴の娘 おあいは不幸だったと誰が断言できようか。
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井原西鶴なんて名前と「好色一代男」しか知らないわけで、、ましては今日こうやって小説が読めるのも彼のおかげだなんて知るよしもない。
おあいを通してその時代背景や世相を知るのだけれど、見聞きしたわけではないのにグッと身近に感じられる。
Posted by ブクログ
〈人は同じ物事を目の前にしても、まるで違う景色を見る。わしはどないな悲恋でもそのまま書くことはない。どこかに人の滑稽さを見てしまうからや〉
父娘関係は普遍的問題。声や仕草だけでなく言葉まで腑に落ちなければ。
Posted by ブクログ
なんとなく購入。
西鶴と芭蕉は同じ時代を生きた俳人で互いに意識しあっていた…というようなドラマを見たことがあったなぁなんてぼんやり思いだしました。
この小説は西鶴の盲の娘視点で描かれた西鶴の姿、ですがいやあ、父娘の確執あるあるだな(笑)娘の気持ちをとんと理解しない父親と父の気持ちがまるでわからない娘。近いから故にわからないことってあるよなぁ…なんて思いました。(まあ実際こういう父娘関係だったかどうかはわかりませんが…)でも閉じ込められないだけマシ、という辺りで父の気持ちをわかるというのもなんだかちょっと違うかなぁ…なんて自分は思いました。
矢数俳諧、大衆小説と新しいものを作られた西鶴という人は本当にエンターテナーだったのではないのかなぁ、そんなことを思いました。そして料理が美味しそうだった…