あらすじ
明治維新に際し、朝敵の汚名を着せられた会津藩。降伏後、藩士は下北半島の辺地に移封され、寒さと飢えの生活を強いられた。明治三十三年の義和団事件で、その沈着な行動により世界の賞讃を得た柴五郎は、会津藩士の子であり、会津落城に自刃した祖母、母、姉妹を偲びながら、維新の裏面史ともいうべき苦難の少年時代の思い出を遺した。『城下の人』で知られる編著者が、その記録を整理編集し、人とその時代を概観する。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
古い文体でだいぶ読みにくいが良書。下記に適宜、付箋を貼った個所を記そうと思う。
二部構成になっていたので、二部の感想をここで。柴翁に日記の原稿を見せてもらった本書の著者の記述。昭和の人らしく、先の大戦への自虐的反省が時代を感じた。付箋を貼るような箇所はなく、著者の思い出と歴史観の記述。
第一部は星五つ。感動もあった。第二部は星三つ。本書の-部分。
下記には付箋を貼った個所の要約:
26-27:柴五郎翁の晩年(先の大戦中の本書執筆のころ)には、すでに会津戦争の嘘がまかり通っていたらしく、心を痛めている。曰く、会津は武士階級のみの戦闘であったなどは事実とだいぶ違い、自由意志による農民町民の応募兵が数千人規模でいた、との事。それだけ藩が慕われていた。
51:会津戦争のさなか、御山という場所には、敵味方を問わず負傷者を見る病院が開設されていた。会津側か、新政府側か、それとも他藩か個人か、どの勢力の病院かは記載なし。
56:敗軍の将兵として会津から江戸(東京)に護送されるさなか、他藩の武士とすれ違う時、彼らは目礼をするか一切興味なしといったふうで接した。武士としてのたしなみと感じたとの事。
76:下北半島に配流され、貧農生活をしている時の父の言葉。「会津のあだ撃つまでは、ここも戦場なるぞ」と心得た、とのこと。
86:薩長の下郎どもに一矢報いる、との執念で日々の仕事、縄を編む仕事に没頭した。
129:縁あって草創期の陸軍幼年学校に入学。そのさなか、西南の役が勃発。学友に薩摩のものもいて帰郷するしないで騒動。多くの者、帰郷。柴五郎も戦闘配備に回され、歴史が動く時の証言者としての記述をしている。
137:草創期の幼年学校は色々と不備や不公平があった。それに黙っておらず、生徒らはいまでいうところの学生争議のようなことを大いにしたもよう。然しながら晩年の著者は、それでも出世には影響なく、みな出世していたと述べる。
第二部は柴五郎から記録を受け取ることになる、石光氏の記録。
146:昭和17年のまだ緒戦のころ、柴翁は「この戦争は負けだよ」と見抜いていた。石光氏がいくら状況を説明して、勝てると述べても、柴翁は負けると分かっていたとの事。
Posted by ブクログ
この本は書評よりも実際に読んでほしい、そんな書です。書評として要約して描くには一貫して感情にあふれ、濃密です。
本書は2部で構成されており、第1部が柴五郎の遺書、第2部は本書の編者である石光氏による柴五郎と彼の生きた時代の概観となります。
第1部が本書の中心を成しますが、第2部も編者の目を通して柴五郎の人となりに触れられるのでとても興味深いです。
例えば柴五郎が編者に日記の整理をお願いするくだり
**********
翁(柴五郎のこと)はこれを私に貸与するにあたって、きわめて謙虚慇懃に添削、訂正を求められ、私は恐縮当惑するばかりであった。
「私は少年時代に戊辰戦争のため勉強する機会がありませんでした。その後も下男のような仕事をしていたので、十分な教育が得られませんでした。
・・・
幼年学校の教官はすべてフランス人で、私たちもフランスの軍服を着て、フランス語でフランスの地理、歴史、数学などを学び、日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯において長い間苦しみになりました。
・・・
そのような基礎教育を十分に受けられなかったので、フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです。
ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。余計なことをお願いして済みませんが、添削してください。
書き足りないところ、疑問に思う個所についても指摘してください。」
このような謙虚な言葉に私は恐縮した。
**********
柴五郎といえば、大正期に陸軍大将までのぼりつめ、軍事参議官にも任じられた重鎮。それがこのような謙虚な態度で接するのは氏の人柄をよく表していると思います。
柴五郎の遺書は、戊辰戦争前の会津での暮らしの描写から始まります。高級武士の子弟として満ち足りた境遇にありましたが、その躾は厳しかったようです。
しかし徳川慶喜の大政奉還後、次第に不穏な空気が東北に立ち込め、会津に戦争の足音が近づくにつれて日記にも緊張感があらわれてきます。
会津では兵員不足のため、農民や猟師だけでなく力士、修験者、僧侶までも編成に加えた言及があり、総力戦で戦いに臨んだことがわかります。
官軍が会津に進軍する中、五郎は姉の誘いを受けてしばし城下を離れます。その誘いに母親もすぐに賛同し、上等な洋服や小刀、手拭い、懐紙など一通りそろえて五郎に持たせています。おそらく五郎を戦火から逃れさせるために一芝居打ったのでしょう。
その後城下が戦場になった折に、祖母、母、姉、妹は全員自害することになります。
**********
これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。
嗚呼思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。
**********
この時の家族との死別は柴五郎の心に大きな傷を残したのでしょう。
第2部に、編者が五郎から話をうかがっている描写においても以下のようなくだりがあります。
**********
思い出すままぽつぽつと語られ、時折言葉が途絶えてしまう。気が付くと翁はひそかに腰の手拭いを手にして両目をおおわれていた。その心境が少年時代をただ懐かしむ懐旧の情だけではないことを、本書をお読みになった方にはお分かりいただけると思う。
**********
このとき五郎の脳裏に浮かんだのは、戦時に死別した家族の顔だったのではないでしょうか。
戊辰戦争において会津は薩長軍に敗れ、斗南藩に移封されます(※)。
(※)この斗南藩での状況は『斗南藩ー「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』(星亮一/中公新書)が詳しいのでぜひ読んでみてください。
斗南藩での暮らしは過酷の一言。
氷点下10~15度にもなる極寒の中、寝る際にも掛ける布団がなく、粥も石のように凍る世界。餓死か凍死かの極限の世界の中で生活することになります。特に驚いたのが、厳冬の中においてさえも「裸足」で過ごさなければならなかったという点!
**********
氷点下十五度を降ること稀ならず、常に足踏みしてあるか、あるいは全速力にて走るほかなし。
足先の感覚を失いて危険を感じ、途中の金谷村の三宅方に駆け込んで少時暖をとり、夏のままの衣類を風に翻して、また氷雪の山道を飛ぶがごとく馳せて・・・
父上、兄上もこれを見て、履物を工面戦とセルも容易ならず、ある日、余は耐えかねて野口叔母を訪ね、履物の借用を願いたるも、貸す余裕なしと断らる。
**********
このような境遇において子供心においても薩長を憎まないわけがない。
しかしこの境遇から脱するきっかけを作ってくれたのは図らずも薩摩出の野口豁通で、全体を見ても柴五郎の人生の潮目が変わったのはこの人物との出会いだったと思います。
彼は薩摩出にもかかわらず東北各藩の救済に奔走し、彼が取り立てた書生からは後藤新平や斎藤実などの傑物が数多く輩出されています。
柴五郎は西郷隆盛や大久保利通に対して辛辣に評価し、彼らの死にも一片の同情も表していない一方で、野口豁通に対してはその温情への感謝を重ねて表しています。人との出会いの大切さがよくわかります。
**********
野口豁通の恩愛いくたび語りても尽くすこと能わず。熊本細川藩の出身なれば、横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を見るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言をもってせず、常に温顔を綻ばすのみなり。
**********
柴五郎が陸軍幼年学校(の前身)に入校できたのも野口豁通の力が大きいでしょう。
この第1部(柴五郎の遺書)自体はこの幼年学校在籍時の途中で終わります。そのため不完全燃焼というか、中途半端感があります。
しかし若いうちに過酷な経験をした一人の会津人の気概や悲哀に、当人の言葉で触れられるのは読んでいて新鮮です。
また当時の時代状況(国軍創立や西南戦争など)を当事者視点の描写も参考になります。