あらすじ
南京虐殺事件を中国の知識人の視点から記した『時間』、時代を冷静に見つめる観察者を描いた『方丈記私記』『ゴヤ』などの評伝、『インドで考えたこと』『上海にて』などアジア各国を歴訪して書いた文明批評など、数多くの優れた作品を残した作家、堀田善衞(一九一八~一九九八)。堀田が描いた乱世の時代と、そこに込めた思いは、混迷を極める現代社会を生きる上での「羅針盤」として、今なお輝きを放つ。堀田作品は、第一線で活躍する創作者たちにも多大な影響を与え続けている。堀田を敬愛する池澤夏樹、吉岡忍、鹿島茂、大高保二郎、宮崎駿が、堀田善衞とその作品の魅力、そして今に通じるメッセージを読み解く。 【目次】はじめに 『方丈記私記』から 富山県 高志の国文学館・館長 中西 進/第一章 堀田善衞の青春時代 池澤夏樹/第二章 堀田善衞が旅したアジア 吉岡 忍/第三章 「中心なき収斂」の作家、堀田善衞 鹿島 茂/第四章 堀田善衞のスペイン時代 大高保二郎/第五章 堀田作品は世界を知り抜くための羅針盤 宮崎 駿/終章 堀田善衞 二十のことば 富山県 高志の国文学館/おわりに/【年表】堀田善衞の足跡/付録 堀田善衞 全集未収録原稿──『路上の人』から『ミシェル 城館の人』まで、それから……
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乱世の世をいかに生ききるか。
平成の世、堀田善衛(ほったよしえ)はあまり読まれなかった。けれども一周回って、今こそ読まれるべき時代になっているのではないだろうか。
池澤夏樹、吉岡忍、鹿島茂、大高保二郎、宮崎駿という現代の知識人が、如何に堀田善衛に惚れ影響を受けてきたか語り尽くした新書である。これは、富山県の高志の国文学館の特別展の図録になっている。絶妙の堀田善衛入門にもなっていた。
堀田善衛の青春時代に親交があったのは、池澤夏樹の父親たちマチネ・ポエティックという詩人グループであり、その関係からその前半生を語っている。昭和の初めから戦後間も無い頃の文学を語る上で、堀田は幅広い親交があり、かつそれを意味つけるだけの思想を持っていたという。その意味で『若き日の詩人たちの肖像』『時間』は重要らしい。
70年代ベ平連に参加していた頃の証言として吉岡忍の以下の言葉は貴重です。
「人間の徹底した激烈さが噴出し、世の中がぐらりと変わる、その歴史の舞台が乱世です。(略)(ゴヤやモンテニュー)を書いた時も、堀田さんにはヨーロッパを書いたというつもりなど全然なくて、人は乱世をどのように生き得るか、ただそれだけを考えて書いたんだと思いますね」。
『定家明月記私抄』はいつか読みたい。
鹿島茂は堀田善衛の文学を「あらゆる可能性を列挙したうえで、収斂はするけれども中心は求めない」「わかりにくい「非決定」あるいは「未決定」こそが、人間の叡智だと言いたかったんでしょう」と述べる。
実は堀田善衛は「ゴヤ」を書いていた時に日本にいたし、「定家明月記私抄」を書いていた時にはスペインにいた。「外側」にいるからこそ、見えるものがあったのだろう。ゴヤの資料収集でスペイン旅を手伝った若き日の研究者大高保次郎は、堀田の眼差しには二種あって、一つは庶民の側から権力を見る、一つは日本を外側から見つめること。だと言っている。私もそうありたい。
宮崎駿に対して堀田善衛から「『方丈記私記』を映画化しないか」という提案があったらしい。これは初めて知った。宮崎駿は躊躇したらしい。これは2008年の講演をもとにしているので、その後作られた「風立ちぬ」(2013)を、私は「天上大風」の額が出てきただけでなく、最初の大地震の場面だけでなく、これは「方丈記」だと思った直感は、正しく当たっていたということが判明した。
現代は乱世だろうか。
かつてない性格の大統領が次々に誕生し、昔ではありえない戦争が起き、昔の経済原則は通用しなくなり、そして大災害が迫っている。乱世から大乱に移る前夜のようだ。この本が出た2018年よりは確実に乱世のアベレージは高くなっていると思える。いよいよ堀田善衛を読まなくてはならない。
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第二章 堀田善衛が旅したアジア 吉岡忍
p52
これはもう本当に堀田さんの『橋上幻像』の世界です。次々に国家から逃れて、どこに自分の居場所があるんだと探しているうちに、通過してきた言葉どれも自分のものではなくなっている。
第五章 堀田作品は世界を知り抜くための羅針盤 宮崎駿
p152
ですから僕が漫画を書いたり、何かを書く時にも、これはどういった意味を持っているのか、自分はどこまで見渡してこれを書いているのか、自分がどんなに善良にこれをやりたいと思ってやったことでも、その裏側にどういう意味があるのか、それが自分がどうしてやりたくなったのか、何によって自分は突き動かされているのか、突き動かされているものは本当にいいものなのか。
p157158
今もありありと覚えているのですが、『方丈記』をめぐって、企画検討会というのをジブリで開いた時に、「今はまだ、僕らは貴族の館の築地塀の中にいる。『どうもこの頃、給料の布をもらって売りに行っても、たいした粟が買えない』と、ぶつぶつ言っていたとしても、しょせん安全な築地塀の中にいる」と。「でも、そのうちだんだん築地塀が壊れるぞ。そうしたら舎人も持ち逃げするし、夜盗も入ってくる」などと話していたのです。
池澤夏樹さんと宮崎駿さんの章に興味を持ち、読みました。宮崎駿さんのは2008年の講演の一部を文字にしたものみたいです。
堀田善衛さんの著書は読んだことがありませんでしたが、『ゴヤ』は名前は知っていたくらい。ベトナム戦争中のベ平連の活動も今では想像もつかないくらい危険なものだったのかなと。
戦争を目の当たりにしてきた作家と現代の作家には大きな隔たりがあるようにも感じています。もちろんそれは平和が長く続いている証拠で恵まれたことでもあります。
昔、親戚の年配者の方と話しているときに「今の人間が戦争映画を作っても嘘っぽい。昔の戦争映画(戦争映画以外もですが)は全員が戦争なり空襲なり、飢えや貧しさを体験していた。だから目に宿っている光が違う。今の役者にあんな目はできない」と話していました。そのときはよくわからなかったけれど、今なら少しわかる気がします。
国内の小説をあまり読まなくなっているのは、現代の物語が偽物とまでは行かないまでも、私小説的な閉じた方向にあるからなのかなと思ったりもします。それがつまらないわけではありません。ただ、広く深い世界に触れたときの、言葉にできないような気づきが宿っている作品は確かに存在します。宮崎駿さんの言うところのハッとさせられる。救われるような感覚。各識者が敬意を持って語っている本でした。
内容はとても面白いのですが、2018年刊行のわりに、年代が年代なのか、対象のせいなのか、ホモソーシャルが過ぎる気もしました。
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堀田善衛は何冊か読んでいたが、この堀田善衛の魅力を伝える紹介本を読んで改めて他の作品も読みたくなった。5人の作家や学者による紹介文も彼の魅力をよく伝えているが、終章の「堀田善衛のことば」は直接に彼の考えが伝わるので非常に参考になる。
「おれは、人が生きることに賛成なのだ。」『路上の人』より
「納得できない場合には、未決のままにしておかなければならない。」『ミッシェル 城館の人』より
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実際にフランスに行ってみると、日本とのあまりの違いに反発することもありますが、その一方で素晴らしいところもたくさんあります。自分と全く違うものを学ぶということは、比較が可能になるということです。自分の国しか知らないと比較が難しい。例えば、北朝鮮です。今、我々が外側から見て、「民衆はさぞや不幸だろうな」などと思いますが、結構幸せかもしれない。一つしか知らない人間は、かなり幸せなはずです。自分と他を比較するようになると、人間は不幸になります。
しかし、さらに比較を進めることによって、逆に、自分とは何かが分かってくる。あるいは、自分たちと比較することによって、他者が分かってくる。だから、フランス文学やヨーロッパ文学を学ぶのは、他者を体験することでもあります。
人間をピュリスムでもって、潔癖主義的な形で追い詰めていくことの危険性というものがある。モンテーニュと同時代のジャン・カルヴァンを描くことで、その潔癖主義に日本的なファシズムとの類似性を認めているのでしょう。禁欲という形で追い詰めていくと、自分で勝手に禁欲するならいいけれども、最終的には自分が禁欲できるということを盾に、人にも禁欲を強いていくことになる。こうして共産主義ともファシズムともよく似た、人口抑圧社会が出来上がってしまう。
カルヴァンみたいな超禁欲人間がいるとすると、そういう人たちを偉いと言う人たちが必ず周りにいる。そうすると、禁欲的な規範に合わない人間を切り捨てていく。ところが、誰もが同じ禁欲的な規範に従って生きることは無理なので、そのひずみが、ゆがんだ形で現れてくる。
これは別に、モンテーニュの時代に限ったことではなく、現在のイスラム原理主義などにも当てはまります。キリスト教とイスラム教は違いますが、結局は似たようなことになる。
これまでのファシズム批判は、自分は反ファシズムの側に立って、相手を一方的にやっつけるというものでしたが、ファシズムの権利は、人を引き付ける、ある種の禁欲主義の魅力があるのです。同じように共産主義にも禁欲の魅力がある。若い人は特にそういうのに惹かれる。堀田さん自身も共産主義のかなり近くまでいったこともあるし、そういうのに惹かれた面もあったかもしれない。同時に、危険性も非常によく分かっている。それと似た状況は、戦後の日本で何度も出てきました。それは別に、時代を問わず、過去にもあったものです。堀田さんが『海鳴りの底から』で描いた島原の一揆のように、禁欲を一つの核に据えた原理主義的な宗教運動があった。それを英雄的に描くということではなくて、全体として描くとなるとどうなるかというのが堀田さんの大きな課題だったと思います。
たいていの宗教は地域主教から出発しています。地域的な、かなり土俗的な主教から出発するけれども、その宗教が大きくなってくると、途中からある種の普遍宗教に変わらざるを得なくなる。キリスト教がその典型です。
もともとキリスト教は、エルサレムのユダヤ人コミュニティの閉鎖的で小さな地域宗教でした。それが、ギリシャ人の社会に広がりローマに行く。ローマからさらにヨーロッパ各地にどんどん広がっていく。そうすると、さまざまな人たちをその宗教に取り込まなければいけない。それまではユダヤ人コミュニティの小さな地域宗教だったものが、普遍宗教に変わらざるを得ない。「カトリック」とはそもそも「普遍的」という意味の言葉です。
普遍宗教に変わらざるを得ないということは、民族とか肌の色とか、言語とか、そういうものに関係なく、普遍的な価値観を持つということです。そうなると、さまざまな人間を一元的にまとめる必要が出てくる。そのためには、ある種の禁欲というものを核に据えないと、たくさんの人を引き付けることはできない。これは共産主義もファシズムも全部同じです。普遍性を持つには、禁欲性への歩み寄りをしていかないと駄目なんです。
しかし、そうなってくると、普遍的な物差しに合わせて、その物差しに合わない人は切り捨てていいんだということになってきます。だから、普遍性を持つことが逆に党派性を呼び込んでしまう。普遍主義的党派性とでも言ったらいいかもしれない。普遍主義的党派性とは形容矛盾のようですが、これは地域的な党派性とはまた違うものです。
例えば、地域政党なり地域主義は、それは確かに排他的ではあるけれども、普遍的な排他性は持たない。つまり人間と人間でないものとを線引きして、同じ人間なのにこの人たちは人間ではないとするようなことはあまりしないものです。よそ者は排除するけれども、よそで生きる分にはかまわない。その党派性は村や地域あるいは国の枠を超えない。
ところが、これが普遍的なものになると、非常に危険です。堀田さんは戦前のファシズム、それからの戦後の左翼運動に関わっていくうちに、その危険性に気づいたのだと思います。
『漢奸』という小説は、堀田さんの上海での体験を基に書かれたものです。堀田さんは、日本が戦争に負けるということが分かってから上海に行って、何年間か、かなり自覚的に現地にとどまっていました。当時上海は日本の占領地で、そこで日本が管理する中国語の御用新聞を出していたのです。この小説は、その時に文芸欄を担当していた中国人の詩人記者の話です。「漢奸」というのは、要するに裏切り者のことですね。民族を裏切ったものという意味です。その詩人は実に善良で、しかも日本語で訳されたシュールレアリスムを日本語で勉強して、シュールレアリスムの詩を書いていたのです。およそ政治とは関係ない中国の青年なのですが、貧乏で小さな家に家族がいっぱいいるために、棺おけを部屋の中に置いて、その中に横になって詩を書くという人だったのです。
日本が降伏して、その後上海を中国国民党の政府が占領する。同時にそれを中国共産党が包囲する。二重スパイか、三重スパイかわからない人たちがいろいろ暗躍する中で、その善良な詩人は売国奴として懲役刑の判決を下される。歴史の歯車の上に乗っかって生きているというときは、自分が善良であっても、正しいことをやっていても、あるいは好きなことを一生懸命やっていても、それでいいのだということではないのだな、ということを強く感じた作品ですね。
自分がわずかに経験した戦争と戦後の間にも、そういうことがいっぱいあるのだな、と思いました。
ですから僕が漫画を描いたり、何か書く時にも、これはどういう意味を持っているのか、自分はどこまで見渡してこれを書いているのか、自分がどんなに善良にこれをやりたいと思ってやったことでも、その裏側にはどういう意味があるのか、それから自分がどうしてやりたくなったのか、何によって自分は突き動かされているのか、突き動かされているものは本当にいいものなのか、そういうことを、ちゃんと考えてやらないと、この詩人記者と同じとんでもない運命になると思っているのです。これは非常に雑な受け止め方だと思うのですが、この二作品『広場の孤独』と『漢奸』という小説から受けた衝撃は、その後自分がアニメーションという職業をやっていく上でも、ずいぶん自分の最後のしんばり棒みたいになった体験でした。
実際には、その後の自分の判断をふり返ると、決定的な瞬間に何度も間違えた選択をしてきました。
イデオロギーというか、自分が空想した主義主張で判断して、自分の眼で見た時の違和感や心のすみに浮いた疑問を軽視したからです。堀田さんの文学は、自分で見、自分で感じたことで、思想を組み立てるものだったのに、まぁ、僕の判断は情けないものですが。
Posted by ブクログ
堀田善衛という人は「インドで考えたこと」ぐらいしか知らなかった。「広場の孤独」「方丈記私記」「ゴヤ」「定家明月記私抄」「めぐりあいし人びと」など、脱走米兵を匿うベ平連の活動、南京虐殺事件への関心、ゴヤへの関心も反戦から…。ゴヤが描いた死が迫っていることへの恐怖に怯える眼をした犬の絵に関する解説は驚き。堀田がゴヤに惹き込まれていった原因はそこにあるという。「何万人ではない、一人ひとりが死んだのだ。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差がある。」との南京事件を取り上げた「時間」の文章も凄い!宮崎駿が映画にしたかった作品!堀田氏のキリスト教嫌いが想像できる一方で、「伝道者の書」の引用がたびたび行われていたことは興味深かった。