あらすじ
誰もが避けては通れない、
愛する人の、
そして自分の「最期」について静かな答えをくれる、
各紙誌で絶賛された現役医師のデビュー作。
2018年6月21日のNHK「ラジオ深夜便」にて紹介され、話題沸騰中!
「生とは何か。死とは何か。答えの出ない問いへの灯りのような一冊」(書評家・吉田伸子さん)
「本書を読んで何よりも私は、救われた、と感じた」(書評家・藤田香織さん)
大学病院の総合診療科から、「むさし訪問クリニック」への“左遷”を命じられた37歳の水戸倫子。そこは、在宅で「最期」を迎える患者専門の訪問診療クリニックだった。命を助けるために医師になった倫子は、そこで様々な患者と出会い、治らない、死を待つだけの患者と向き合うことの無力感に苛まれる。けれども、いくつもの死と、その死に秘められた切なすぎる“謎”を通して、人生の最期の日々を穏やかに送れるよう手助けすることも、大切な医療ではないかと気づいていく。そして、脳梗塞の後遺症で、もう意志の疎通がはかれない父の最期について考え、苦しみ、逡巡しながらも、大きな決断を下す。その「時」を、倫子と母親は、どう迎えるのか?
感情タグBEST3
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サイレント ブレス
静けさに満ちた日常の中で、穏やかな終末期を迎えることをイメージする言葉。
ブレス1 自分の介護で義妹の貴重な時間を使わせたくない、弱みを見せず人生の最後を「生きるため」自宅を選んだ綾子。
ブレス 2 筋ジストロフィー患者の22歳 保。明るく行動力がある。母親が戻ってくると願っていたクリスマスイブの夜、、、
ブレス 3 延命処置を拒む本人 1日でも長く生きてほしいと望む息子。財産分与、遺産相続問題
ブレス 4 身元不明の女の子、寒い中保護され優しい夫婦と幸せな時間。P222千夏さんが目を覚ましたという情報が入り喜ぶ二人。本当 良かった。
ブレス 6 母親のお父さんと別れたくない気持ちが辛い。意思疎通できない状態の父、お母さんにとってはかけがえのないパートナー。感想を書きながらも泣けてきます
考えたくないけど、いつかは訪れる最期、
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終末期訪問医療の看取りを描いた連作。南杏子さんのデビュー作。 最後の章では実父を看取る医師倫子。
南杏子さんが祖父を看取った時の出来事が着想になっているとのこと。リアルなだけに、私の母の最期と重なった。
人はひとりひとり違っていて
家族や環境も違っていて
死に対する考えも
死に至る病も
100人いたら100通り。
最期の在り方は本人の希望に従うのが一番だが、意思表示できるとも限らない。
両親を看取ってから、次は自分だなと、強く自覚するようになった。
どう生きるのか、どう死を迎えるのか、
そのための貯蓄はあるか、子供達は自立できているか、常に頭の片隅にある。
離れて住んでいる義母の最期は、どうしようか。認知症が進んでいる今、本人の意思は確認するのが難しい。倫子のように、
仕事を休んで家で看取るのが理想かもしれないが、実際は簡単なことではない。
いろいろ考えさせられた。
南杏子さんは大学家政科を出た後、結婚し、海外出産をし、お子様が小学生のとき医学部に入り直して医師となった。
文体から知性と優しさを感じる。
地に足のついた考え方が伝わる。
尊敬に値する素晴らしい作家さんだと
改めて思った。
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死期を伸ばすだけの延命は望まない。
患者である母や見送る父と私が一貫してブレず穏やかな最期を見送ることができた我が家はとても恵まれていたのかもしれないと思った。
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私自身も訪問看護に転職して1年。病院とは違う働き方にたくさん戸惑うことも多い。この小説を読んで、いろんな患者さんのリアルな感じにも共感したし、水戸先生の戸惑い、考え方にも共感できた。
最後に自分の父を看取るところは、いろいろな思いを読み取れ、初めて小説で涙が出た。
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だいぶ前から持ってたけど、なんとなくいま必要な本な気がして、祖母のお通夜中の深夜に読んだ。
人は必ず死ぬ、順番なんだよ
ってところから最後お父さんを看取るところで涙が止まらなかった
死んだ人間に対してできること、今生きている人間に対してできることについて考えさせられた。
Posted by ブクログ
あなたは、『延命治療』を受けたいでしょうか?
日本人には不吉なことを口にすることを極端に嫌がる国民性があると思います。残される者に苦労をかけまいと頭では分かっていても、各論として自らの葬式のことを考えるようなことは心が拒絶します。具体的に考えることによってそれが現実のこととなってしまうのではないかという不安が先立つからだと思います。
一方で、2010年代から『エンディング・ノート』というものが急速に普及し始めた現状があります。『人生の終末期に自らの希望を書き留める』という『エンディング・ノート』によって、私たちは『延命治療などに関する意思を明確な形で遺』せるようになったのです。もちろん、ここにも上記した不吉さとの兼ね合いは消えません。人によってはそんな存在を忌み嫌う人もいるでしょう。とは言え、自分の意思を示さなければ意思を伝えられなくなった後の苦しみを訴える術がなくなってもしまうのです。なかなかに難しい判断ですが、本来誰にも避けては通れないことなのだとも思います。
さてここに、『延命治療』の要否判断を含む『終末期医療』に光を当てる物語があります。『訪問診療』の現場に足を踏み入れることになった一人の医師の葛藤を描くこの作品。リアルな医療現場の描写に息を呑むこの作品。そしてそれは、現役の医師でもある南杏子さんが描く『訪問診療』の最前線を見る物語です。
『水戸先生には、関連病院に出てもらおうと思うんだけど』と、『三週間前、大河内仁教授に呼び出され、いきなり異動を言い渡された』のは、主人公で『新宿医科大学病院の総合診療科、通称「総診」に入局して十年目』という水戸倫子(みと りんこ)。『ローテーションで関連病院に勤めた時期もあったが、五年目に医局に戻してもらった』という倫子には、我ながら頑張ったという思いがあ』ります。しかし、『ついに教授からお声がかかってしまった』と思いながら『どこの病院でしょう?』と訊く倫子に『むさし訪問クリニックだよ』と答える大河内。それに『訪問クリニックですか?』と耳を疑う倫子は、『病院ですらなく、ちっぽけな診療所』という事実に驚きます。『これは左遷だ。いや、それ以下だ』と『足が震え』る倫子は『何がいけなかったんでしょう。一生懸命やってきたつもりですが…』と言葉にします。『まあちょっと聞きなさい』と語りはじめた大河内は『むさし訪問クリニックはね、三年前に僕が試験的に始めた在宅医療部門だ…』とその説明をします。そして、『医療現場に貴賤はないよ。それとも水戸君は、大学の患者だけを診たいの?』と訊かれ『そんなことはありません』と返す倫子は、やむなく『行かせていただきます』と答えざるをえませんでした。『僕も月に一度は行くから、何かあったらそこで相談しよう。期待しているよ』と言う大河内。
場面は変わり、『三鷹駅から』地図を見ながら『古びたマンション風の建物』へとやって来た倫子は『むさし訪問クリニック』と『表札が掛かった部屋』へと入ります。『今日からお世話になります水戸です』と挨拶する倫子に『お待ちしてました!医療事務の亀井純子です』と言う『同年代の女性』は倫子に室内を案内します。そんな時、『おはようっす』と『茶髪の男が頭を掻きながら出てき』ました。『彼は看護師の武田康介です。コースケ、今日からいらっしゃった水戸倫子先生よ』と説明する亀井に『「ちわっす」と顎を突き出した』コースケ。『診察室はどこにあるんでしょう?』と訊く倫子に『水戸先生、こっちっす』と『部屋の片隅にある水色のパーティション』を案内するコースケ。『机がひとつ、それに椅子が二つ』と簡素な診察室を見て動揺する倫子に『ウチは在宅専門と思われていますから。めったに外来患者は来ないんです』と説明する亀井。そして、『一通りの説明を受けた後は、気が抜けるほど手持ち無沙汰となった』倫子は、『自分がひどく堕落してしまったように感じ』ます。そして、午後になり、『車、回してきます』と出て行ったコースケを見送る中、『あの子チャラい男に見えますけど、案外まともですから。全然、心配ないです』と言う亀井。そして、コースケの運転する『ピンク色の軽自動車』に乗り込んだ倫子に、『水戸先生、今日は楽っすよ』と『余裕たっぷりな調子で言うコースケを見て『訪問予定一覧』に目を落とす倫子は、そこに『一人目は八十七歳男性、脳梗塞の後遺症がある患者で、褥瘡の処置が必要。次は七十七歳男性、くも膜下出血から一か月経過したところ…』と続く記載を見て『これがなぜ「楽」ということになるのだろうか』と思い『その言い方はないんじゃない?』と声を上げます。それに『へ?今日はラッキーっすよ。一件だけ国分寺で少し離れてますが、あとは近くっすから』と答えるコースケ。それを聞いて『「楽」とは地理の話だったと気づき、頬が熱くなる』倫子。そして、『ちわーっす。むさし訪問クリニックでーす』というコースケの掛け声に鍵がかかっていない家へと入った倫子。『ご主人はいかがっすか?』と言うコースケに『相変わらずだね。良くも悪くも…』と返す女性。部屋へと入ると『ベッドには、無精ひげの男性が横たわってい』ます。『尿や便の混じったにおいが部屋中にこもって』おり、『思わず息が止まった』という倫子。『水戸先生、仙骨っす。気づいたときには、もうこんなに』と『コースケが示した背中の下部には、巨大な褥瘡があ』ります。『すぐに手が動いた。黒くなった皮膚をメスで切り取る。中からクリーム様の膿が大量に出てきた。膿汁をすべて出し、生理食塩水で何度も洗う』と処置を進める倫子。『他人の家に上がって診察するのは初めての経験だった…』という倫子が『訪問診療』の最前線で孤軍奮闘する姿が描かれていきます。
“大学病院の総合診療科から、「むさし訪問クリニック」への’左遷’を命じられた37歳の水戸倫子。そこは、在宅で「最期」を迎える患者専門の訪問診療クリニックだった。命を助けるために医師になった倫子は、そこで様々な患者と出会い、治らない、死を待つだけの患者と向き合うことの無力感に苛まれる。けれども、いくつもの死と、その死に秘められた切なすぎる’謎’を通して、人生の最期の日々を穏やかに送れるよう手助けすることも、大切な医療ではないかと気づいていく…”と内容紹介にうたわれるこの作品。現役の医師でもある南杏子さんが2016年9月に発表されたデビュー作です。
33歳で大学医学部に学士入学、38歳で卒業後、大学病院の老年内科に入局、公立の総合病院で勤務した後、ご主人の海外転勤に伴いスイスに帯同、帰国後は『終末期医療』に携わられるようになった。これが南杏子さんのご経歴の一部です。30代に入ってから医師の道を目指すなんて私にはとても考えられないことですが、その後55歳にしてこの作品で作家としての道も歩み始められたという事実は同じ人間が成していることとはとても思えません。改めて南杏子さんの信じがたいバイタリティに驚愕するのみです。そして、そんな南杏子さんがデビュー作のテーマとして選ばれたのはご専門でもある『終末期医療』の最前線を描く物語です。では、主人公の水戸倫子が働く『訪問クリニック』がどんなところかをまず見てみましょう。
● 『むさし訪問クリニック』ってどんな場所?
・三鷹駅から徒歩数分、井ノ頭通りに面す
・古びたマンション風の建物の205号室
・午前中はほとんど開店休業
・月に数回定期的にご自宅をお訪ねして『訪問診療』を行うことが中心
※ 基本は月に二回ですが、状態に応じて回数を増やせる。
・スタッフは看護師の武田康介(通称: コースケ)と医療事務の亀井純子(通称: 亀ちゃん)、管理責任者として大河内教授が月一回来訪
・午前の外来診療や午後の訪問診療は倫子が担当、夜間は契約を結んだ訪問看護ステーションのサポートを受ける体制
・ボディーに『むさし訪問クリニック』と書かれたピンク色の軽自動車で患者宅を訪問してまわる
大学病院で勤務していた倫子は、『机がひとつ、それに椅子が二つあるだけ』、『診察用ベッド』がなければ、『レントゲン』はもちろんないというクリニックに信じられない思いを抱きます。そして、『在宅専門と思われて』いて『めったに外来患者は来ない』というコースケの説明には『これまでの日々は何だったのか』と愕然とした思いに包まれます。しかし、仕事の中心となる『訪問診療』の現場に出てみて、自らが知らなかった世界の存在に驚く倫子。そして、ここからがこの作品の真骨頂です。この世には数多の作家さんが数多の小説を発表されています。そこにはこの世のありとあらゆる分野で働く人たちが主人公となります。とは言え、その作品を書く作家さんがその職業に就かれているわけではありません。その分野に興味を持たれた作家さんがその道の専門家に取材をしてその世界の概要を理解した上であくまで想像で小説として執筆されます。しかし、当然ながら取材はどこまでいっても取材であり、限界は自ずとあるはずです。それに対してこの作品は現役の医師で『終末期医療』にも携わられている南杏子さんが、そのリアルな現場をそのままに描いていくものです。この違いは半端ではありません。幾つか見てみましょう。『倫子は、綾子の左胸を覆うガーゼをはがした。甘い腐敗臭が広がる』と、『末期の乳癌患者』を診察する場面です。
『いくつもの赤黒い腫瘤が重なり合って盛り上がっていた。一部はザクロが割れたように崩れ、広い範囲で潰瘍になっている。「花が咲く」と呼ばれる状態で、腫瘍細胞が中から外に向かって成長した結果だ。患部から血液がしみ出ていた』。
私は血を見ることが苦手で、予防接種や血液検査の採血でも目を固く瞑らずにはいられない人間です。そんな私にはもうこの表現自体で気を失いそうになります。しかし、医師である倫子はあくまで冷静に状況を観察し必要な医療行為を施していきます。
『止血作用のあるボスミン液を浸したガーゼを出血部に載せる。雑菌が繁殖しないように、抗生物質の入ったフラジール軟膏を塗る。腫瘍全体にガーゼを当てると、タイミングよくコースケが絆創膏で固定した』。
恐らく南杏子さん的には当たり前の処置の様子をサラリと記されているだけなのではないかと思います。しかし、それが本物であるからこその説得力が一言一句に自然に生まれていきます。取材の知識だけではこうはいかないと思います。もう一箇所、これは『終末期医療』では避けて通ることのできない患者の死の瞬間を描く場面も見てみましょう。ネタバレになるので患者の名前がわかる箇所を○○と伏せ字にします。
『顔色が、すっと白く変化した。わずかに上下していた胸元や喉の動きが、完全に止まった。生から死へ移った瞬間だ。倫子はひと呼吸、待った。魂が抜け出るとされる刹那は、体にむやみに触れてはならないように感じるからだ。非科学的な思い込みだとわかってはいるのだが。数秒後、○○の胸にそっと聴診器を当てた。呼吸停止と心停止を確認し、さらにペンライトで瞳孔の対光反射が消失していることを確認する。「九月七日、午後六時三十八分、○○○○様、ご臨終です」倫子は静かに頭を下げた。コースケが○○の酸素マスクをはずし、点滴を止める。続いて○○の瞼をしっかりと閉じ、胸の上で手を組ませた』。
少し長い引用となりました。私たちが人の最期の瞬間に接することは昨今ほとんどないと思います。あったとしてもそれは親しい肉親であり、その瞬間にどのような医療行為が行われているかに気持ちを振り向ける余裕などないでしょう。そんな患者の死の場面で、必要な医療行為を淡々とこなす中に、倫子ならではの誠意を感じさせる姿が描かれていきます。この作品ではこのように医療の現場を本物の医師が描くからこそのリアルさが何よりもの特徴です。そして、それは結果的に物語の真実味を増すことにも寄与していると思います。そして、物語では主人公の倫子が今まで未知だった『訪問診療』の世界に足を踏み入れていく中に湧き上がる新鮮な感情とそのことによる医師としての意識、考え方の変化にも光が当てられていきます。
・『死にゆく患者にとって、医師の存在価値などあるのだろうか。そもそも病気を治せない医師に、何の意味があるのだろう』。
・『治したいけれど治せない ー そんな患者が世の中にこんなにも多いのだと、医師をめざしたときには考えもしなかった』。
大学病院の『総合診療科』において、さまざまな病に苦しむ患者一人ひとりに誠実に向き合い、その病を治すべく尽力してきた倫子に『訪問診療』の現場は大きな問いを突きつけます。それは、『病気の人を治したかったから医師になった』という倫子が今日まで生きてきた日々自体に大きな疑問を投げかけるものでもあるからです。
この作品は〈プロローグ〉と〈エピローグ〉に挟まれた6つの短編が連作短編を構成しています。それぞれの短編には倫子が『訪問診療』で対峙していく患者が一人ずつクローズアップされていきます。『癌の増殖が抑えられない状況』という『末期の乳癌患者』、『根本的な治療法はない』という『二十二歳の筋ジストロフィー患者』、そして『余命は三か月』と診断された『膵臓癌』患者といったように、登場する患者は年齢、性別にこそ幅があるとは言え、死と隣り合わせの状況に違いはありません。
『死を目前にした患者さんに、つまり治療法のない患者さんに、医師は何ができるのでしょう』
そんな正直な思いを口にする倫子。そこには、医師として患者一人ひとりと誠実に向き合ってきた倫子だからこその思いが自然と込み上げます。そんな迷いの中にいる倫子に大河内教授はこんなひとことを伝えます。
『死ぬ患者を、最後まで愛し続ける ー 水戸君には、そんな医療をしてもらいたい』
リアルに描写されていく『訪問診療』の現場の中で、戸惑いの先に倫子がその判断に悩み苦しんでいく様に読む手が止められなくなるこの作品。そんな作品の中で南杏子さんは6つの連作短編をもう一つのテーマで繋げてもいきます。それこそが、倫子の父親を描く物語です。
『八年前に一度目の脳梗塞を、五年前には二度目を発症し、父は脳の機能の多くを失った』。
実の父親も『終末期医療』の対象者であることを匂わせる物語は、やがてそれが倫子が対峙する『訪問診療』で診る患者と同じ判断を求められる状況にあることを描き出します。そうです。患者を診る側ではなく、患者の家族の側から患者を見る視点です。
・『脳梗塞を繰り返した父は病院を退院した後、ここで生き続けている。胃瘻を使って ー』。
・『結果的に、意識のない父に延々と胃瘻を続ける ー それが、いまの状況だった』。
『終末期医療』に携わる医師として、一方で実の父親が置かれている状況が重ね合わせられていきます。そこに、医師としての冷静な判断と、肉親としての感情が交錯する中での葛藤がそこに浮かび上がります。実の父親に倫子はどういった判断を下すのか、それぞれの短編に描かれていく『終末期』の患者を見送っていく中に倫子の悩める心情がひしひしと伝わってもきます。そして、この複層的な物語構成によってこの作品の奥行きが格段に増してもいきます。そして、そんな物語が迎える結末、作品が幕を下ろしても決して終わることのない『終末期医療』と向き合う『訪問クリニック』の日常を思う結末には、一人ひとりの患者に真摯に向き合っていく人たちの情熱によって、この国の医療現場が支えられていることに思いを熱くする物語の姿がありました。
『苦しみに耐える延命よりも、心地よさを優先する医療もある、と知った』。
そんな倫子が『訪問診療』の現場で『終末期』の患者と向き合っていく様が描かれたこの作品。そこには、現役の医師だからこそ描けるリアルな物語の姿がありました。『終末期』の患者さんそれぞれの思いに胸がはちきれそうにもなるこの作品。そんな患者さんにあくまで冷静に向き合っていく倫子の姿に医師という職業の貴さを思うこの作品。
あなたにも、そして私にも必ず訪れるであろう、人の最期のあり方に思いを馳せてもしまう素晴らしい作品。これぞ傑作!だと思いました。
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いかに、納得できる死を迎えられるかを考えさせられる作品だった。自分の親も、年老いてきてそろそろ最期のことを話しておかないとなぁと思った。病気に立ち向かい長く生きていることが幸せなのは、回復した先があるからであって、死へ向かっている病気は命を長らえることだけが幸せではないんだなとわかる作品。わかっていても、親には長く生きていて欲しいなとも思い、本人が望んでいなかったらただのエゴだなぁとか、複雑な心境になった。
南杏子さんの作品も好き。お医者さんの書いてる小説がやっぱり好き。
Posted by ブクログ
南杏子氏の小説を読むのは2冊目だが、本書が著者のデビュー作らしい。
著者は現役の医師であり、本書のジャンルは医療小説だ。患者や家族の描写がとてもリアルである。
ストーリーは、大きな大学病院から在宅医療のクリニックに不本意ながら出向になった女性医師とその患者たちの話。患者ごとに短編になっている。主人公の倫子(医師)の父親は脳梗塞で意識不明になって8年入院している。
自宅療養している患者たちの事情は様々である。患者とのやり取りは、倫子が大学病院で志してきた患者が1日も長く生存できるようにする医療が、患者にとって幸せなのかという疑問を突きつける。父に生き続けてほしい母と、終末医療の希望を書き残した父。倫子が下した決断は。
家族が病気で衰弱して亡くなる経験をした人には、共感できる小説だろう。年を取るほど人の死というものが身近になっていくものだ。自分が死ぬときは胃ろうとか延命措置は要らないと考える人でも、自分の家族には苦しい治療を強いてしまうこともある。いろいろ考えさせられた。
Posted by ブクログ
迷いも痛みも苦しみも
悲しみも、
すべてここに描かれて
います。
死はゴール。敗北では
決してないと、
くりかえしくりかえし
優しく諭してくれます。
そして、母に伝えたい。
貴方は間違いなく私を
支えてくれている、
何もできなくなっても
生きているというだけ
で。
大切な人が病床にある
方にお薦めしたいです。
文句なしの星五つです。
Posted by ブクログ
自分も周りも、あがらうことなく死を受け入れることができるのか、本当に難しく、大切な問題だと思います。ぼくも理想はいわゆるピンコロリですが、いざその時が来たら死を怖がらずに受け入れらる自信はありません。そんな時に倫子さんのような人に看取って欲しいなと思いました。
Posted by ブクログ
フィクションながら現役医師の作家のデビュー作でもあり、作家自身の体験が強く感じられる。「サイレンブレス」というタイトルと「看取りのカルテ」というサブタイトルも率直で好感もてる。作家の真面目さが感じられるとても良い本だ。
Posted by ブクログ
看取り。
必ず最後は誰もが迎える。
頭ではわかっていても、実際に身近な者がその立場になった時、「いつまでもいて欲しい」と思う。
だから、やれるかぎりのことをする。
それが、本人の望みでないとしても。。
意識のない祖母が、痰吸引をされた時の苦しそうな辛さそうな表情。
意識のない祖母の脚が、浮腫んでぱんぱんだったこと。
そんな光景を思い出した。
あれは、祖母が望んだ最期だったのだろうか。。
「一才の延命治療は断る」と書き記し、その通りにホスピスで安らかな最期を迎えた伯母の最後の顔も思い出した。
一人暮らしだったから厳しかったけれど、家で迎えさせてあげたかったな。とも思いながら。
書中で、「自分だったら、この最後を望むか?」と、いう一文があり、ハッとする。
本の中のそれぞれのケースは、架空だけれども、それに似たことは、今の世の中にたくさんある。
そして、自分の身近な親族がそのケースを体現するのも、遅かれ早かれある。
その時になって、迷わないようにしたいなと思っている。
終末期医療を考えるにあたり、良い本だった。
Posted by ブクログ
人は必ず死ぬ。
医師は病気を治すことだけでなく、本人とその家族が穏やかに最期を迎えられるような医療や看取りを提供する大切さ、改めて気づかされた。
自分のこれからの生き方や家族との過ごし方や最期の迎え方など、しっかり考えていきたいと思った。
この作品が南杏子さんのデビュー作とは…!
作者は現役のお医者様なので、介護の描写がリアルです。
私は今まで肉親や自分自身の死について真正面から向き合ったことはなかったのですが、この本を読みながら、主人公の医師、倫子の苦悩や迷いがそのまま自分のものであるかのような思いで読みました。
自分に置き換えて考えてみました
現場を経験された方だからこそ書けた作品だと思います。身内の死、患者さんの死、それらを通じて医師としてたくましく成長していく先生と共に読者である私も死についてもう一度深く考える機会をもうけることができました。死とは負けではないのだと自然の摂理なのだとあらためて学んだ気がします。
サイレント・ブレス
突然の死ではなく、死を迎えていく人がいて、そこにはそれぞれ物語があり、在宅医療専門のクリニックや先生など多くのサポートする人・家族など送る人がいる。それらを優し文章で暗くならない展開をしていくため、もっともっと読みたくなる素敵な本でした。これから死を送る人にもなり、死を迎える人なっていくであろう私にとって、それらを受け入れる励み、そのための生き様を考える参考になるような本でした。ありがとうございました。
Posted by ブクログ
終末期の医療のあり方は、最近になって様々な形態のホスピスや在宅医療の選択肢が増えてきたようなイメージです。最期まで病気と戦い抜いてもいいし、残りの時間を大切なひとと共にできる限り穏やかに過ごしてもよい。当たり前のことですが、その選択の機会を奪われない社会の仕組みや人々の受容が必要とされていると思います。
Posted by ブクログ
数日前に命の停車場を呼んだこともあり、既視感もあったが内容としては同じようにいい作品だった。
延命治療を望むかどうか、死に何度も触れてきた作者だからこそ、本作のような内容が作られるんだろうと思う。
解説も秀逸だった。
Posted by ブクログ
・あらすじ
Audibleで視聴。
大学病院の総合診療科に勤める倫子は、教授から訪問診療への異動を命じられる。
当初は急性期医療とかけ離れた「診療」に戸惑っていた倫子だったが、死にゆく患者に対して「医者」として己に何が出来るのかを自問自答していく。
・感想
医者は病気を診るプロ。
でも現代では医者はトータル的な視点を持って「人間」を診る、全人的医療が必要とされている。
本来であればチーム医療でそれぞれ役割分担ができてればいいけど中々そうもいかない現状もあるのがもどかしい。
でもなーー思想哲学している現場の医者なんかほとんどいないよ。
業務の多忙、過大な責任、訴訟対策。
諸々の問題もあるけど、ただ「勉強が得意だから」で選んだ人間が大半だろうし。
そして「老い」と「病気」を区別できない、老いを認められない国民ばっかり。
自然治癒も回復も不可能な「老化」に際限なくリソースを注ぎ込む現代日本社会。
個人的には老化による脳の機能低下に対しても「認知症」という「病名」をつけて「治療」する現状に辟易してる。
「死」は悪、忌避すべきものとして見ないふりしたって人間なんていつでもどこでも誰でも「必ず死ぬ」ということは絶対的事実なんだからそこを認めて「どうやって生きて死ぬか」という哲学を行うことが大事だと思っている。
現代日本では医療関係者にこそ「哲学的思想」が求められているんじゃないだろうかとここ数年思うようになった。
医療に携わる立場の人間として自戒を込めて。
Posted by ブクログ
終末期医療を題材にした作品。
とにかく殺人が起こる作品ばっかり読んでいたので、温度差がすごい。
死は「負け」ではなく「ゴール」、という表現があった。
昔から、寝たきりになって食事も自力で取れなくなったらその時はもういっそ延命せず安らかに死にたいと、そう思っている。
でも仮に自分ではなく、自分の周りの人がそういった状況になったとして、まして仮に自分がそれに抵抗できるかもしれない技術・知識を持った医者だったら、考え方は変わるかもしれない。
自分が頑張ったら、もしかしたら何とかできるかもしれないと、患者に「諦めるな!」と、そう思う気がする。
でもたぶん大事なのは、患者自身がどう思っているか、なんだろう。
滅多なことを言うもんじゃないが、
まだ元気なうちに自分の両親にも、万が一の時はどうして欲しいのか聞いておこうかな。
Posted by ブクログ
在宅で最後を迎える患者の訪問クリニックに勤める医師の物語。
日常の中でおだやかな終末期を迎えることをイメージした言葉がサイレント・ブレス。
自分の最後をどのようにして迎えたいか、それは自分だけの思いだけでなく家族の思いもあり、そう出来るか否かの環境もある。
その時を考えて置かないといけないと思う気持ちと、どうなるのか予測出来ないとの思いでやっぱり決めるのは難しい。
Posted by ブクログ
死への向かい方、終末医療について考えさせられる作品。
日本では安楽死が認められていない。そのために昔から「死ぬ権利」や「尊厳死」などが多く議論されてきた。
本作はその手の「こうあるべき」と声高に主張するでもなく、法改正のために社会を動かすべく犯罪に手を染めるミステリでもなく、現場を体験してきた医師の実体験に基づく死に向かい合う医療関係者の話だ。だからこそ荘厳で静謐、心がこもった描写は力強く胸を打つ。
偶然、今自分の母親が似たような状況にあるため、果たしてどうする事が本当に良いのだろうかと思いながら読み進めた。実際の在宅医療が綺麗事では済まない状況も描写されており、現実での難しさをひしひしと感じる。
ただ一つ言えるのは、死に臨んでいる当人が何を望んでいるのか。どうする事が当人にとって幸せなのか。それを考えることでしか答えは出ないように思う。
終末医療と訪問医療の理解を深める佳作だった。
Posted by ブクログ
在宅医療・終末期医療がテーマになっている小説。主人公の医師が様々な患者と関わり、死が迫っている人々との向き合い方や延命治療だけが医療ではないことを実感していく物語。
年齢や疾患、家族背景もバラバラな患者達との関わりが短編で1ケース事に読めるので、重ためな題材の割には読みやすい印象だった。
医療職についてる身として、考えさせられることが多く読みながら辛くなってしまって読みやすい文体、構成ではあるものの読むのにかなりの時間を要した。一つ一つの事例を咀嚼しながらじっくりと読むことができたので心に残る1冊になったと思う。
最後、主人公が実父を看取る際、“延命治療によって生き続けるのも、自然に看取られるのも、どちらも間違いではない。一番大切にしたいのは、患者自身の気持ちだ。”とモノローグにあり、本当にその通りだと感じた。
死は全員に等しく起こるもので、それを先延ばしにするために生きながら苦しむのであれば、苦痛なく死を迎えられるように環境や治療方針を整えていくことの方がよっぽど大切なんじゃないかと思わされた。
辛いのは、患者とその家族の希望が食い違った時なんだろうなと思う。主人公の母親のように“死んで欲しくない”という想いが強過ぎて患者本人の希望を受け入れられない状況はよくある事だと思う。
大切な人から生き続けて欲しい、と願われたのであれば苦痛を伴ってでも生きていてもいいか、と思えるのだろうか。人にもよるだろうけれど、家族側のエゴでしかないので、家族とは将来何かあった時にどうしたいのか、お互いに話し合ったり決めておくことが一番なんだろうな、と思う。
Posted by ブクログ
いろいろな死の迎え方があるのは当たり前だけど、やっぱり本人の意思が尊重された死が理想だと思ってしまう。ただ、その人を取り巻く環境や社会的背景、制度の活用の有無など、、一人ひとりの人生も違うわけだからその最期を全員が全員理想的に迎えられる事は現実的に難しいことだなとも思う
医師の指示で動く看護職において、心が痛む終末期の事例もある。多忙な業務と並行しておこなう看取りに対して心にゆとりを持てない自分に嫌になったことがある。急変もあり、患者の最期に責任を持つこともある。「医師はふた通りいる。死に向かう患者に関心を持ち続ける医師か無関心な医師か。」という文中の台詞。医師の指示のもとでしか動けない部分と、そうでない部分。その中における看護でどれだけ自分の看護観を大切にできるかが大切だなって思った。年齢を重ねるごとに経験を増やすごとに擦り減ってるものにだけ目を向けないようにしたいーー
Posted by ブクログ
こういう言い方は実に良くない。のだが、この手の話はどうやったって泣ける。ずるい。泣く以外の選択肢ない。
看取り、という題材の中でもクリティカルなのは、親子。そして夫婦。やめてほんと。小説で泣いてから、現実で笑うためのアクションがとれるような人には良いと思う。
同じ作者の、『いのちの停車場』を先に読んでいたが、こちらの方がデビュー作とのこと。確かに駆け出しは荒削りなようにも見えるが、エンディングでは涙腺へのハードパンチが待っていた。
だから、敢えてそのあたりを全て度外視した上で、3人目のカルテに出てくる「胃瘻」について触れたい。
いや、もう読み終わる前から語りたくて語りたくて仕方がなかった。
人は、食べる、という行為を失ったら死ぬと思う。心が死んでしまう。食べることと生きることは、ほぼ同義じゃないかと思う。もし自分の命に、自分以外の強い目的があれば、もしかしたら結果は違うのかもしれないが、胃瘻で笑顔を失う人を何人も見てきた。祖母もその1人だった。この小説の登場人物も、そうだ。それが重なる。
祖母は、誤嚥を防ぐ目的で病院側に処置された。その病院は、地域の人から殺人病院と呼ばれていた。全ては、葬儀が終わった後で知った話だ。
そこに入れてしまった家族の落ち度だと言われれば、その通りかもしれない。ただ、現実的に、咽かえり苦しみ喘ぐ親の歪んだ顔を前に、とりうる選択肢は決して豊富ではない。まるで坂を転げ落ちるように、終末期医療はその先に横たわっている。
奇跡は、、、ほぼ起きない。
その現実を知って、なお、立ち向かう意思をもつ。
作品中でも教えてくれる。死に立ち向かうのではなく、どう死ぬか、を逆算して考えておくのだと。
それが、泣くこと以上に、この作品に価値を与えているものじゃないかと思う。
自分の終末期医療は、今からもう始まっているのだ。
スーパーで、まずは人工甘味料を買わないようにしよ。
グッバイ!スクラロース!
(そういうことじゃない)
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終末期の在宅医療について知ることができました。癌の末期、筋ジストロフィー、胃ろう、エンバーミング、人身売買、死への覚悟、親のみとりなど考えさせられることばかりでした。そんななかで看護師のコースケ、ケイズ・キッチンのケイちゃんが
和ませてくれました。
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命を永らえさせることだけが勝ちではない。死は決して負けではない。「医療」と「治療」は同義ではない。生きることをどのように全うするか、本人と家族が向き合うことの重みを感じる一冊でした。
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「死は負けではなくゴール」
本の最後の最後に出てきたこの言葉に
心から救われました。
これ以上手の施しようがないと、大切な人が医師に告げられた後の日々
何をどうしてあげたって後悔しか残らない。
3年経った今も昨日のことのように思い出して心が苦しい。
この物語の中には私と同じ気持を抱えている人がたくさん登場してくる。
こんな医療者、医療機関が増えて欲しいと心から願います。
Posted by ブクログ
会社で関わることになる「医療ガス」→在宅医療、について知りたくて&おばぁちゃんに会いにいくタイミングだったことから手に取った本。
自分の死に方についての希望はなんとなくあるけど、自分の大事な人の最後に際して、
迷いなく本人の希望を叶えてあげられるのだろうか。仮にその希望が死期を早めるものだとしたら...
死ぬことは諦めじゃなく、ゴール。
積極的な治療を選ばないこともきっと、「諦め」とは違って、「生き方」な気がする。
Posted by ブクログ
人それぞれの「死生観」に向き合い、考えさせられる作品。
母が「これ面白いで。あんたの仕事のやつやろ〜?読み終わったからあげるわ〜」と言って数年前にくれた小説。
この仕事の経験を積んだ今、読み直すと全く感じ方が違った。
そもそも、訪問診療と病院の医療とでは考え方の根本が全く異なる。
病院は最善の医療を行うところで、訪問診療はある意味、看取りの医療とも言える。
著者の南杏子先生は子育てをしながら、33歳で医学部に入られたそうで、それはもう想像を絶するレベルの努力家なんだろう。素直にかっこ良すぎるし、尊敬しかない。
しかし、ふと、癌末の患者さんに点滴をしている描写がさらっと書かれているのは少し時代を感じた。
「食べないから死ぬのではない。死ぬのだから食べないのだ。」
何処かで読んだ一説で、私が最もしっくりきた内容だった。
また、ブレス3のように普段介護をしていない遠方の親族にかぎって、患者さんにつらい治療を求めたりすることは実際にもよくある話しで。
作中では読み手が楽しめるようにドラマチックに書かれていたので、一番ミステリーっぽい場面ではあったが。
あと、私は訪問医がCPRを行う場面は見たことがない。
主人公の倫子先生のように、ここまで患者さんに寄り添って、頭を悩ませてくださる先生は、人としてめちゃくちゃ立派で優しい先生であるがゆえに、仕事に感情移入し過ぎても大変なものだな〜としみじみ〜