【感想・ネタバレ】読書について 他二篇のレビュー

あらすじ

前記『付録と補遺』の中から『思索』『著作と文体』『読書について』の三篇を収録。「読者とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費す勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく。」――鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、山なす出版物に取り囲まれた現代のわれわれにとって驚くほど新鮮である。

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Posted by ブクログ

ショウペンハウエルは一流の文章家で鋭い皮肉や心を打つアフォリズムが至る所に散りばめられていて、気づいた時には文章に誘い込まれていた。

才能のある著者・良書の見極め方、文学との向き合い方の本質が書いてあり面白かった。古典こそ正義。


【メモ】
読書は他人の頭で考えること。自分の頭で考えることがベストプラクティスなので読書はとても有害なものだ。その土地を実際に旅したような、真の意味での基礎的な知識や問題を知ることができない。

著作家のタイプ
- 事柄そのもののために書く者
- 書くために書く者

後者は、金銭のために書く。真偽曖昧な思想や歪曲された不自然な思想、動揺時ならぬ思想を次々と丹念に繰り広げて行く。

著者の3つのタイプ
- 考えずに書く(1番多い)
- 書きながら考える
- 執筆に取り掛かる前に思索を終えている(非常に少ない)

執筆すべきテーマの素材を自分の頭脳から取り出す者だけが、読むに値する著作家である。

ある本が有名な理由の区別
- 素材のため
- 形式のため

素材:珍しい事、実験を試みた結果、史料の探索や特殊な研究に努力と時間を費やした上でまとめた歴史的事件などは重要な意味を持つ

形式:第一に知性、判断力、活潑な機知。第二にその人の知識も要素として重視される。

「愚か者も自分の家の中では、他人の家における賢者より物知りなり。」

一般読者は愚かにも新刊を読みたがり、良書を手にしたがらないのである。

匿名評論家(誰出茂内氏、Mr.Nobody)
- 悪党、無頼漢という名で挑め
- 名を名乗らざる卑劣漢
- 「我々は」ではなく「不肖この私めは」「臆病狡猾なこの私は」「卑ひき素浪人の私は」などの形式で発言するべし
- 匿名は悪習

単純素朴さ
- もっとも高貴なもの
- 言葉の芸術でも、建築術で装飾品を飾りすぎるのを警戒するように努める
- 不要な一切の美辞麗句、無用な敷衍、表現過剰を警戒する
- 純潔無垢な文体や話法に努める
- しかし、明瞭さを、まして文法までを簡潔さの犠牲にしてはならない。わずか数語を省くために、思想の表現を弱めたり、あるいは文意までも曖昧にするのは、愚かなことで非難されるべきである。

比喩の業は天才たることの証
- 絶妙な比喩を案出することは、事物に共通の類似した特性を把握することだからである。
- 哲学において、まったく相反した事物の中に共通の類似点を把握するのは、鋭い洞察力の業である。

怒りを欠く者は知性を欠く
- 知性は必ずある種の「鋭さ」を生む。
- 鋭き感覚は生活においても、芸術、文学においても、ひそかな非難と侮蔑を呼び起こすいくたの事柄に日々必ず出会う。

無知は富と結びついて初めて人間の品性をおとす。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。
- ほとんど丸一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。
- 絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根を下ろすこともなく、多くは失われてしまう。
- 生まれながらの才を欠いていれば、我々は読書から生気に乏しい冷い手法だけを学んで、軽薄な模倣者になるにすぎない。

悪書
- 読者の金と時間と注意力を奪い取る
- 金銭目当てに、あるいは官職欲しさに書かれている
- 精神の毒薬であり、精神に破壊をもたらす

良書
- 比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才作品だけを熟読すべきである。
- このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。
- 良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。

凡庸な者
- 新刊書でありさえすれば飛びつき、偉大なる精神から生まれた古典は、書架に死蔵しておく。
- 著作家たちは流行思想という狭い垣の中に安住し、時代はいよいよ深く自らの作り出す泥土に埋もれていく。

文学
- 真の文学
- 永遠に維持する文学
- とどまる文学
- 偽の文学
- 二、三年経てばその名声はどこへ去ったのかとなる
- 流れる文学

「反復は研究の母なり。」

二つの歴史
「政治史」
- 意思の歴史
- 我々に不安を与えるばかりか、恐怖心までも引き起こす。
- 大量の不安、困窮、詐欺、残忍な殺人に満ちている。
「文学および芸術の歴史」
- 知性の歴史
- 孤独の智者のように喜ばしい空気、晴朗な空気に満ちている

最初は誰も彼もが争って文学史を読みたがる。
本当のことは何一つ知らなくても、何かについておしゃべりできれば良いというのが、彼らの願いである。

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2025年12月03日

Posted by ブクログ

春日まほろさんの本棚より選書

とても良い本に巡り会えた。思索、著作と文体、読書について、の三篇からなる本書はどれをとっても「知」にたいする凄まじいまでのこだわりを感じた。

天才ゆえの思想なのだが、学者や著述家、出版者や評論家を次々に腐す言葉の数が圧倒的量にのぼり、読み始めは少し不快に感じた。人の悪口を聞いて気持ち良い事はない。言葉のプロフェッショナルによる罵詈雑言は凄い。

しかし読み進めると、ドイツ語を愛しているからこそ、失われていく文体を嘆き、文学を扱う人々を批難する理由には一応納得がいくし、「言葉が貧しくなれば思想も貧しくなる」もその通り。

以下は本文中から掬いとり噛み締めたい箇所

一 さて理論的な問題にのぞんでも、これと同じように然るべき時を待たなければならず、もっともすぐれた頭脳の持ち主でも必ずしも常に思索できるとは限らない。したがってそのような人も普通の時間は読書にあてるのが得策である。、、、かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。というのは真に物事をながめるならば読書の場合とは比較にならぬほど、思索する多くの機会に恵まれ、自分で考えようという気分になるからである。(P16)

一 比喩あるいは直喩は未知の状態を既知の状態に還元するかぎり、大きな価値をもっている。、、、すなわち、ある一つの状態が現れているケースをただ一つしか知らないかぎり、それについての私の知識は、普遍的な意味を持たない知識にすぎない。どう見ても、せいぜい直感的にすぎない知識である。しかし二つの異なったケースに現れている同一の状態を把握するかぎり、私はその状態一般について一つの概念を持ち、したがってより深い知、より完全な知を所有する。(P119)

「あ、これは具体と抽象の往復を言っているな」私など凡庸な人間には思索のためのフックが必要なので、シャーペンハウエルがすすめる良書(古典)のみでは心もとない。知の探求以外の娯楽溢れる現代、限られた時間で数多の書籍から何を選ぶのか、そもそも何のために読むのか。

少し変化できた自分に酔いしれながら筆を置く。

追記 再読大事

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2025年11月30日

Posted by ブクログ

本書はドイツの哲学者ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』の「付録と補遺」から、読書と思考に関する三篇を収録したものです。

「思索」「読書について」はそれぞれおよそ20ページずつくらいしかなく、前提知識も必要ないため非常に読みやすいです。一方、「著作と文体」については100ページ程度あり、前述の二篇に比べると量が多いこと、また(ヘーゲルに代表されるような)ドイツ語の悪文批判が具体的に展開されるため、前提知識を持たないわたしにとっては飛ばし飛ばし読み進めることとなりました。

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない」
「ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く」
本書のうちもっとも有名な一節の一つ。
世界を広げるためにも色々な本を読みたいなぁと思っているわたしにとってはグサリとくる一言です。

「いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い」
「熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる」
これは自戒をこめてですが、熟慮を重ねたうえでどこまで読めているかが甚だ疑問であるどころか、読書によって得た他人の知識ですら自分の中にどれほど残っているのだろうと思わされます。

さて、ショーペンハウアーは、悪書は金と時間のみを浪費させるもので、良書を読むべきであると述べています。
読書なんて全く価値がない、すべきではない、とショーペンハウアーは言いたいわけではないんですね。

100年単位の時のふるいにかけられても今なお読み継がれるこの良書、ぜひ一度お手にとっとみてください。

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2025年11月15日

Posted by ブクログ

「読書そのものより、読んだ内容を自分の頭で“再構築”できるかが知の価値を決める」という点に尽きる。他人の思考を追体験するだけでは本質的な理解にはならず、異なる知識同士を結びつけ、自分の文脈で問い直して初めて“自分の知”になる。権威や引用に頼る姿勢は、理解力の放棄にすぎないという指摘も鋭く、普通の語で非凡なことを語るべきだという文体論も同じ文脈にある。読書とは本質的に「他人の頭で考える行為」であり、それを土台に自分の思考を持てるかどうかが、読書体験の真価である。

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2025年12月01日

Posted by ブクログ

大昔の本なのに、現代の私たちに深く刺さるような内容だった。特に、匿名批評のあたりなんかは口コミ文化へのクリティカルな批判になると思う。

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2025年07月23日

Posted by ブクログ

文章を書く者が心に留めておくべきこと。良書を読む秘訣は、悪書を読まないこと等、ショウペンハウエルの厳しい言葉が心に響く。

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2025年07月11日

Posted by ブクログ

160P

ショーペンハウエル
1788〜1860
ドイツの哲学者
ベルリン大学でフィヒテの講義をきいて失望。ヴァイマルでゲーテと交わる。1820年ベルリン大学講師となったが,ヘーゲルの名声の影響で聴講者がなかったため翌年辞任し,以来,在野の学者として過ごした。彼の哲学は,カントの認識論に出発し,プラトンおよびインドのヴェーダ哲学の影響を受け,観念論・汎神論・厭世観を総合した「生の哲学」を説いた。その思想は19世紀末の厭世思想,特にニーチェに大きな影響をおよぼしている。主著『意志と表象としての世界』

読書について (光文社古典新訳文庫)
by ショーペンハウアー、鈴木 芳子
しかし書くことで報酬が入るとなると、事態はちがってくる。まるでお金に呪いがかけられているかのようだ。どんな作家でも、かせぐために書きはじめたとたん、質が下がる。偉大なる人々の最高傑作はいずれも、無報酬か、ごくわずかな報酬で書かねばならなかった時代の作品だ。この場合でも、スペインのことわざ「名誉と金は、ひとつの袋におさまらない」は正しいことがわかる。

 ドイツ国内でも国外でも、 今日 の文学は悲惨をきわめるが、その元凶は本を書くことでお金をかせげるようになったことだ。お金が要る者は、猫も杓子も、机に向かって本を書き、読者はおめでたくもそれを買う。その付随現象として、言葉が堕落する。  へぼ作家の大部分は、その日に印刷されたもの以外読もうとしないおめでたい読者のおかげで生計を立てている。すなわちジャーナリストだ。じつに適切なネーミングだ。ジャーナル[日々]の糧をかせぐ人、わかりやすく言えば「日給取り」だろうか(3)。

不朽の名作であるためには、多くの美点がなければならない。そのすべてを把握し、評価する人はなかなかいないが、それでもつねに、こちらの人物からはこの美点、あちらの人物からはあの美点を認められ、尊重される。そのとき、そのとき異なる意味合いで尊重され、決して汲みつくしえず、たえず人々の関心がうつろう中で数百年にわたって作品の名望が保たれる。

しかし、後世でも存続を要求する権利をもつこうした作品の著者は、広いこの地上で同時代人に自分の同類を求めても甲斐なく、きわめて目立つ相違のために、他の皆から浮いてしまう孤独な人物かもしれない。それどころか、永遠のユダヤ人( 12) のように幾世代さすらっても、やはり同じ運命をたどるだろう。要するにアリオスト( 13) の言葉「造物主は彼を鋳型にはめてつくり、その後鋳型を打ち砕き、類例なきものにした」(『狂えるオルランド』十、八四)が、実際にあてはまる。そうでなければ、他のものはみな消えてしまうのに、なぜ彼の思想だけは残るのか説明がつかない。

ほとんどいつの時代も、芸術や文学では、根本的に誤った見解やいんちきな手法・流儀が流行し、称賛されることがある。月並みな脳みその持ち主は、これを習得し、用いようと懸命になる。識者はこれを見抜き、はねつけ、流行などに左右されない。数年たつと一般読者も嗅ぎつけ、愚行の正体に気づいて、こんどはあざ笑う。できの悪い石膏細工で飾られた壁から装飾がはげ落ちるように、小細工に走る作品は称賛の的だった粉飾がはげ落ちると、その後ずっと 無残 な姿をさらすことになる。

名を明かして執筆する者を匿名で攻撃するとは、恥知らずだ。匿名批評家は他人や他人の仕事について公表したり隠し立てをしたりするくせに、自分で責任をとろうとせず、名乗り出ない者だ。こんなことを我慢せよというのか。匿名批評家がつく真っ赤な噓ほど、あつかましい噓はない。なにしろ無責任だ。あらゆる匿名批評は欺瞞をめざしている。だから警察は、覆面をしたまま往来を歩くのを許さないように、匿名で書くのを見のがすべきではない。

匿名の評論雑誌はそもそも、無学が学識をさばき、無知が分別をさばいても処罰されない無法地帯であり、一般読者をあざむき、悪書をほめそやして時間と金をだまし取っても見とがめられない場だ。匿名は物書き、とくにジャーナリズムのあらゆる悪事の堅固な城塞ではないか。この城塞は根こそぎ取り壊されねばならない。すなわちどんな新聞記事でも、編集者の重大な責任のもとに、執筆者の名が、公正なる署名が付されるべきだ。こうすれば、取るにたらない者の住所まで知れてしまうから、新聞のデマの三分の二はなくなり、あつかましい毒舌も制限されるだろう。フランスは今まさに、この問題に取り組んでいる。

フランス語の散文ほどスラスラと気持ちよく読める散文はない。フランス語にはこの欠点がないからだ。フランス人は自分の考えをできるだけ論理的に、自然な順序で並べてゆく。読み手が吟味しやすいように順を追って提示してゆく。そのため読み手は、書き手の考えのひとつひとつに集中的に注意を向けることができる。

無知は人間の品位を落とす。しかし人格の下落がはじまるのは、無知な人間が金持ちになったときだ。貧しければ、貧苦が 枷 となり、仕事が知識の肩代わりをし、頭は仕事のことでいっぱいだ。これに対して無知な金持ちは、ただ情欲にふけり、日ごろ目にする家畜と同じだ。さらにこうした連中には富と暇を、もっとも価値あるものに活用しなかったという非難がくわわる。

したがって私たちが本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。いま大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。むしろ愚者のために書く連中は、いつの時代も俗受けするものだと達観し、常に読書のために設けた短めの適度な時間を、もっぱらあらゆる時代、あらゆる国々の、常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品へ振り向けよう。私たちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけである。

悪書から 被るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読みすぎることはない。悪書は知性を毒し、精神をそこなう。  良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから。

昔の偉大な人物についてあれこれ論じた本がたくさん出ている。一般読者はこうした本なら読むけれども、偉大な人物自身が書いた著作は読まない。新刊書、刷り上がったばかりの本ばかり読もうとする。それは「類は友を呼ぶ」と 諺 にもあるように、偉大なる人物の思想より、今日の浅薄な脳みその人間がくりだす底の浅い退屈なおしゃべりのほうが、読者と似たもの同士で居心地がよいからだ。

本を買うとき、それを読む時間も一緒に買えたら、すばらしいことだろう。だがたいてい本を買うと、その内容までわがものとしたような錯覚におちいる。  読んだものをすべて覚えておきたがるのは、食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ。私たちは食物で身体をやしない、読んだ書物で精神をつちかう。それによって現在の私たちができあがっている。だが、身体が自分と同質のものしか吸収しないように、私たちはみな、自分が興味あるもの、つまり自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。目的なら、だれでも持っているが、思想体系めいたものを持つ人は、ごくわずかだ。思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。

そもそも哲学は文学史の根音をなし、それどころか他の歴史、すなわち政治史へも響き渡り、そこでも根底から意見を導いてゆく。哲学は世界を支配する。したがって真の正しく理解された哲学は、最強の実質的な力でもある。だがその影響はたいそうゆるやかだ。

次に今回翻訳した『読書について』のスタイルと内容について述べたい。  この作品が掲載されている『余録と補遺』はその名の通り、主著『意志と表象としての世界』の注釈であり、ショーペンハウアー哲学をわかりやすく理解させてくれる最良の入門書だ。現実のさまざまな問題に対する彼の「哲学小論集」であり、自然と人生に対する彼の鋭い見解が示されている。ショーペンハウアーは、主著に対する反響のなさや、マルケ事件──彼とメドンとの逢引を興味津々 で見張っていたお針子マルケにけがをさせたという──の不運な訴訟のせいで失意の日々を送る中、スペイン語の勉強に没頭し、スペインの哲学者バルタザールグラシアン〈 Oráculo manual y arte de prudencia(「神託、賢く生きる手引き」、邦訳『賢く生きる智恵』『バルタザール・グラシアンの賢人の知恵』)〉を訳している。彼の翻訳は、友人のスペイン語学者カイルが名訳と絶賛してくれたほどだったのに、当時は出版の引き受け手がなく、ショーペンハウアーの没後一八六二年にようやく刊行されている。グラシアンのこの本は、書名には神託とあるが、神託と直接的な関係はなく、処世術をアフォリズム風にまとめたもので、『余録と補遺』にはこの書の影響があると一般にいわれている。

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2024年12月19日

Posted by ブクログ

本書は、「思索」、「著作と文体」、「読書について」の3つの小篇で構成されており、これらはショーペンハウアーの主著「意志と表象としての世界」の『付録と補遺』に収められている作品である。
読み始めて数ページで、「読書は思索の代用品に過ぎない」、「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである」といった痛烈なフレーズが登場するので、本書を手に取るような「読書家」ほどばつが悪い思いをするかもしれない。しかし、そうした内容であるにもかかわらず、歴史の風雪に耐えて、鋭く人々の心を捉えてきた本書には、読書家の蒙を啓く確かな力がある。
特に「思索」では、自分の頭で考えることの重要性が幾度となく強調される。読書という行為は、書籍に落とし込まれた他者の思想をなぞることであり、ただ本を読むことに専心しても、本人の知性・精神が花開くことはない。自ら脳に汗をかいて考え抜く行為を通して、その人の中に知識・思想体系が形成されるのだから、何より優先するべきなのは思索することだ。ただし、自分の頭だけで思索し続けることには限界があるから、考えるための材料が枯渇した時には読書をすればよい。このような視点で読書を捉えるショーペンハウアーは、決して読書自体を毛嫌いしているわけではなく、その正しいあり方を私たちに教えてくれている。
ショーペンハウアーの指摘は読書を対象としているが、現代人にとってはより広い射程を有しているように思われる。情報技術の発達により、日々大量の情報に晒されるようになった私たちは、意識して時間を作らないと、摂取した情報を消化する暇と余裕がない。スマホを持てば、SNSやニュース、動画サイト、それらに付属する広告などが、持ち主の脳に絶え間なく流れ込み、ものごとを考える時間が失われる。その結果として、自らの言葉で自分の考えを語ることができず、誰かが言っていたことや通り一遍の一般論を右から左へと受け流すことしかできない人間が出来上がる。こうした情報過多による弊害を懸念したとき、ショーペンハウアーの読書に対する警句にはどこかこれと通底するものが感じられるのではないだろうか。
「読書について」で彼は、人生には限りがあるのだから悪書を読む時間などなく、貴重な時間を費やすに値する良書のみを読むべきであると喝破したが、これは今の時代にあってなお輝きを増す箴言だと感じる。本書はその意味での”良書”に該当する、現代に生きる私たちにとっての必読書なのだろう。

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2025年03月23日

Posted by ブクログ

 私は、残された人生における限られた時間になるべく多くの本を読もうと思ってそれを実践してきたのだが、どうやらそれは間違いであった。どうもそうではないかと惧れていたのですが、やはり間違いであった。
 ショウペンハウエルが言うように、読書とは他人にものを考えてもらうことであり、ほとんど丸一日を読書に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失っていくからだ。読書は必要なのだが、それは自分で思索するためでなくてはならない。多読することが目的になってしまうと読んだものを反芻し、熟慮するまでに至らないことになる。また世の中には悪書が氾濫し、読者の金と時間と注意力を奪いとる。
 TVやSNSに浸かっているより読書の方がマシであることは事実であるが、良書でなければ思考停止の程度はあまり変わらない。
「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。」

読書に関して書いた本は数多ありますが、この本を読んでとても良かったと思います。

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2024年07月20日

Posted by ブクログ

博覧強記の愛書家は、この人はこう言った、あの人はこういう意見だ、それに対して他の人がこう反論した、などと報告する。議論の余地ある問題に権威ある説を引用して、躍起になって性急に決着をつけようとする人々は、自分の理解力や洞察の代わりに、他人のものを動員できるとなると、心底よろこぶ。博覧強記の愛書家は、なにもかも二番煎じで、複製品をまた複製したかのように、どんよりと色あせている▼読書とは、自分で考える代わりに他のだれかにものを考えてもらうことである。紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見えるが、歩行者がその途上で何を見たかを知るには自分の目を用いなければならない▼熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは真に読者のものになる。食べ物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うように▼大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである▼無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。アルトゥル・ショーペンハウアーSchopenhauer『読書について』1851

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多くの知識を身につけていても、力を持たない人もいる。なけなしの知識しかなくても、最高の威力をふるう人もいる。『知性について』

はっきりしない憧憬と退屈は互いに似通っている。生の短い夢に対し、無限の時間の夜は何と長いことか。毎日の起床が小さな出生であり、毎朝の清々しい時が小さな青春であり、毎夜の就寝が小さな死である。

人生の情景は、粗いモザイク画に似ている。この絵を美しく見るためには、それから遠く離れている必要がある。間近にいては、それは何の印象も与えない。『現存在の虚無性…』

人は、その生涯の最初の四十年間において本文を著述し、続く三十年間において、これに対する注釈を加えていく。

分別はしゃべることを通じてではなく、黙っていることによって示す。後者には賢さが、前者には虚栄心がからむ。虚栄心は人を饒舌にし、自尊心は沈黙にする。人間を激動させるのは情欲よりも虚栄心である。名誉とは客観的には私たちの価値についての他人の意見であり、主観的には他人の意見に対する私たちの恐怖である。

他人と同じようになろうとして、自分自身の4分の3を失ってしまう。

人の生存中に記念碑が建てられる理由は、後世の人がその人を惜しんでくれる見込みがないからである。

幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる。自然は単に私たちの生存だけを留意するのみで、私たちの幸福に一切関心をもたない。

あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ。

船荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。一定量の心配や苦痛、苦労は、いつも、だれにも必要である。

時間の経過は他の方法では消滅できないものすべて(憂鬱・怒り・損失・侮辱)を消滅できる。死は嫉妬を静めるが、老化はすでにその半分を静めている。

誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。才人は、誰も射ることのできない的を射る。天才は、誰にも見えない的を射る。

どんな金でもだましとられた金ほど有効に使われたものはない。その代償としてすぐ役に立つ賢知を手に入れられる。

非常な才能をもつ者の謙譲は偽善である。

相手が嘘をついている疑いがあれば、信じるふりをすれば、相手はますます嘘をつき、化けの皮がはがれる。相手が真相の一端をうっかりもらしているようなら、信じないふりをする。相手は自分の陥った矛盾に挑発され、残りの真相をすべて告白してしまう。

人間が好んで近寄っていこうとするのは決定的に劣った者たちの傍である。男の場合には精神的特性が劣った者、女性の場合は美しさに欠ける者の傍である。他人の不幸を目撃し、比して自分が幸福であることを間接的に認めることで得られる喜びは、積極的な悪意の源である。

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2025年11月20日

Posted by ブクログ

『思索』『著作と文体』『読書について』の三編からなる本。タイトルの『読書について』と『思索』が各々約20 頁程度。『著作と文体』が約100頁。この『著作と文体』にショーペンハウエルの感情が爆発してると言いますか…出版社や匿名批判への恨みや、ドイツ語が衰退していく事についての危機感など、とても辛辣な言葉で語っており、時折笑ってしまうような部分もありました。それにしても、この本が150年以上前に書かれたとは驚きです。現在の日本の事ともいえるような事も多々ありました。やはり今の日本の教育で必要なのは外国語ではなく、母国語である日本語をしっかりと学び、日本語を守っていくことが大事だなとも感じました。

難しい言葉やカタカナ語、抽象的な言葉を使い、いかにも「自分は優秀~」とアピールはするが、一体何を言ってるのかサッパリわからない著名人の方に、是非この本を読んでもらいたいです。

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2024年03月31日

Posted by ブクログ

本の量を増やしても、自分で考えて得た知識じゃないとその価値は怪しい。自分で考えて考えて得た真理が本に載っていたとしても、その真理は本で読むより100倍の価値がある。
読書は一種の思考を放棄して、神聖なる精神に対する反逆罪ともいえる。

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2023年12月17日

Posted by ブクログ

著者が現代に生きてたら怒り狂ってるだろうな

金稼ぐための文章は全てクソっていうのは世の中を斬りすぎな感じはするがほぼ同意
最近のネットとりわけSNSにはそういった文章が溢れ過ぎ
またGPTの普及に伴い今後さらに増えるんだろうな
本著を読んで気付かされたがこれらの文章って接種しても全く栄養になってないしただのストレスにしかなってない
インプットの量を減らして質を求めた方がいいかも

読書は馬で運動場を走り回るみたいものって話はよくわかった
確かに自分の血肉になっている思想などは自分の中で考えて結論を出した物ばかりだ
結局自分で考えるが最強
また読書は考える力を失わせるってことも言及していたが思い当たる節があるので気をつける

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2023年06月02日

Posted by ブクログ

interestingかつfunnyな本だった。読書とは他人に考えてもらうことであり、そこから得た経験に真理と生命は宿らない。あくまで自らの思索の補助として用いるものであり、その対象も良書に限るべきである。
言われてみれば当たり前なことなのだが、読書に限らず映画や音楽についても「量」を一つの指標としてしまっていたことに改めて気づかされた。そしてこの本は、ショーペンハウエルのドイツ文芸界に対する苛烈な批判の表現が面白い。「厚皮動物」とか「単純なる羊頭の諸君」とか、思わず読んでて笑ってしまうほどだった。

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2023年04月02日

Posted by ブクログ

読書しない人が多い世の中であるが、御仁はこの世を見たら何を思うだろう。彼の思想は極端であるが、その毒を批判するだけの人間は知性の敗北者として名を馳せよう。哲学書の中でもかなり読みやすい(斎藤先生の翻訳が素晴らしく綺麗である)本書は文学部の生徒のみならず、本を嗜む全ての人に読んでほしいものだ。そして取捨選択を。文化の成長には、我々一人一人の教養の質をあげないことには始まらないであろう。

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2023年01月02日

Posted by ブクログ

岩波文庫に収録されている古い哲学者の論考とは思えないほど明快な語り口で、現代の我々、それも読書記録サービスを利用しているような人々に対するある種の警告を与えてくれる。

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2022年11月23日

Posted by ブクログ

読書好き者はショックを受けるかも。理屈はわかる。読書中はどんなに思考を巡らせても、主体は著者の考え。三宅香帆氏が「著者との戦い」と表現したのが分かる気がする。しかし。それでも読書はやめられない。

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2025年04月16日

Posted by ブクログ

あとがき含めての読書体験でした。
深く理解するためには当時のコンテクストも含めて見ないとならず、浅学にして理解できないと感じた部分も多かった。
一方で、エッセンスは鋭く本質を抉ってくる箇所があり、気づいたら読み終わっていたという感覚。

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2024年02月01日

Posted by ブクログ

読書とは他人にものを考えてもらうということ。多読するな!ー最近意識的に多読をしていたが読書の内容が頭に残らないことが悩みだったのだが、この文句が心に響き読んでみた。
全体的にかなり辛辣で笑えたが、繰り返しも多くとっつきにくい例を出すので難しい印象だったが、それでも著者の主張はしっかり伝わった。

後気をつけようと思ったことは、
読書した後、自分の頭で考えること。思索すること。
多読するだけでは無駄。
文章を書くときは、伝えたいことを必ず持っておくこと。
伝えたいことは一つずつ伝えること。
文体を飾り立てず読者の視点で伝えようとすること。
できるだけ古典を読むこと。

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2023年12月26日

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なんか作者の人モテなそうってのが第一印象。流行りのものが大嫌いで、昔のヴィジュアル系とかイギリスのメタルを絶賛してる高学歴陰キャのイメージ。
でも文書自体はとても読みやすくて、難しい言葉を使おうとしない所が良かった。同じ内容が何回も繰り返されて少しくどい所もあったけど、その分言いたい事は伝わってきて良かった。
「名を名乗らざる卑劣漢」が罰を与えられた時の事を、「知恵の霊鳥、夜専門のふくろうは、その殊勲者を迎えて喜びのあまり、真昼に歓喜の叫びをあげるに違いない」と表現したのがめちゃくちゃシュール。

ペンと思想の関係 意思と化石
匿名 批評家 作者
文体 思想の性質
複雑な複合文章 ドイツ ヘーゲル
思想は重力 頭から紙は容易 主観的 客観的
比喩とは より深い知
読書 体系化 エキス


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2023年12月26日

Posted by ブクログ

 ショウペンハウエルによって書かれた「思索」「思索と文体」「読書について」の3篇である。以下に、本書のまとめと自分の考えを述べる。

 読書は、自分の思索を他人に預けることであり、本を読んでもその考えに至った経験や過程を得られるわけではない。得られるのは、結論のみである。そのため、読書をしても内容を吸収できない。ただ、思索するトピックを得るために本を読むのは良い。
 知性あるものは、自分自身で体系的に物事を組み立てることができる人で、例え、その内容が間違っていても高尚な人物には違いない。

 良書を読むには、トレンドや時流に乗った本等の悪書を読まないことが必要である。その点で、古典はどの時代の人も引き付けるから、現在まで残っているのであり、良書であることが多い。

 個人的に、ショウペンハウエルの述べていることは、ある程度読書量を積んだ人にしか当てはまらないように思う。人間は、真似ることや経験によって、物事の進め方を知る。最初から、本の読み方を知るものはほとんどおらず、ましてや古典のような難しい本を理解するには、経験値が圧倒的に足りないと思う。

 本を読み漁っている人や簡素な内容の本ばかりを読む人に向けられた著作だと思う。前述したが、ショウペンハウエルが言いたいのは、知性ある人間は自分の頭で物事を理論的・体系的に考えられる人で、良書による読書は、その才能を引き出すことにつながるということだと思う。
 

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2023年01月25日

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読んでる最中、厳しい〜でも分かるかも〜ってずっと思ってた。本に書いてあるのに読書すると思索が止まるから読むなって冒頭から書いてあって笑った。
書評の匿名性や言語の文法的な変化など現代にも通じる事が多いと思う。
ただ、言語は時代と共に変化していくものだからずっと同じ文法や単語を使っていくのは難しいと思う。
ずっと残っている古典は素晴らしいものだから、最新の悪書を読むなら古典を読め、っていのも言いたいことは分かるけど、読書という行為やその本を読むという行為の先に何を求めるかにもよって変わってくるよなーと思った。
ただ、本を読むだけでなく、そこから思索に転じることもやってかなきゃなと思った。これから古典も読んでくと思う。

総じて鋭いな〜って思ったし理解できる事も多々あったのですごい昔に書かれたとは思えない。読みやすかった。

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2023年01月07日

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かなり簡潔に本についての考えを多く述べている本。
読みやすい構成になっており、合間に自分の中で消化しながらゆっくり読み進めるのが良いと思います。

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2022年10月24日

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ショウペンハウエルによる「思索」「著作」「読書」に関する短編集。

ショウペンハウエルは19世紀に活躍したドイツの哲学者で、その厭世的な思想はニーチェ、ワーグナーなどに広く影響を与えた。
しかし本著ではそのような思想はあまりみられなくて、単純に「人間はどのように考えて生きるべきか」が一貫したテーマに据えられている。

古典としては非常に読みやすい部類かと思う。明快なメッセージが述べられているし、表現も平易。途中あるドイツの古語と現代語の対比が冗長なので、これは読み飛ばした。

強くてシンプルなメッセージがその特徴。皮肉に満ちた表現も多い。
その主張を簡単にまとめると、「読書は思索の代用でしかなく、他人の考えたことを反復しているだけである。だから多読は慎むべきで、時間を持て余して多読に走る人間は馬鹿だ。」というもの。この後に、「才能がある人間は読書によってそれを呼び覚ますことができるから、この場合だけは読んで良い」と続くものの、中々に強烈なメッセージかと思う。
多少なり多読に「走っている」自負がある自分には刺さった主張だった。

実際、この主張は真っ当なものだと思う。
読書をはじめとしたインプットにはアウトプットがセットで付随するべきだ。アウトプットのためのインプットであることを意識しなければその効果は著しく落ちてしまう。陳腐だが普遍的はメッセージだと思う。

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2022年10月20日

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【ショーペンハウアーの主張】
 3段階のロジックで捉えた。

 第一。多読は有害である。いくら栄養があるといえども、食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。精神的食物も同様に、とりすぎれば、過剰による精神の窒息を招きかねない。身の丈にあった量を反芻することではじめて、書物はわれわれを養う。

 第二。ただし、量の多寡の以前に、そもそも読書をするに値する人物が限られている点に注意をうながしたい。読書は、著作家の才能と共鳴する形で、読み手が持つ天賦の才能を呼び覚ますものである。才がない場合は、表層的な手法を学び、軽薄な模倣者になるにすぎない。

 第三。才ある人物が、限りある時間と力を消費して本を読むからには、悪書ではなく良書を読むべきである。良書とは比類なき高貴な天才がのこしたものである。このような作品だけが、時の試練に耐え古典となり、真に我々を啓発する。

【個人的な見解】
 多読批判について。ショーペンハウアーに多読と認定されるのは、どれくらいの水準だろうか。彼が生きていた時代のドイツ知識人は、ユンカーと呼ばれる地主貴族が中心だったわけで、丸一日を読書に費やしている人もいたはず。当然インターネットなんか存在しない時代。読書スピードも現代人の2倍はあったに違いない。本の読みすぎはよくないと解釈するのではなく、まずはショーペンハウアーに怒られることを目指すのが正解ではなかろうか。また「身の丈にあった量を反芻」は、読書を通して心に浮んだ事柄を、時間をとって書きつけることで達成されるはずだ。

 読書の選民思想について。随分と厳しい思想である。「軽薄な模倣者」扱いされてしまっては、バカはどうしようもない。しかし、真似ることが学ぶことの第一のステップになることは、どの分野をみても明らかである。嘲笑されながらも、真似をし続けることが突破口になると信じたい。

 良書のすすめについて。出版物もビジネスの産物である。たとえば、本屋大賞は、素晴らしい作品と出逢わせてくれることもあるが、出版業界が作り出した、売上を立てるためのルーティンであることを忘れてはいけない。古典を読むべき、と声高に主張したいところだが、古典と格闘できるだけの体力が身についているとは思えない。そうなると多読で鍛えるしかないのだが、多読は有害。堂々巡りである。ショーペンハウアーさん、どうすればいいのさ。

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2022年08月19日

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ネタバレ

まとめると、頭を使って本を読み自分の考えを捨てない。多読をしても自分の考えを持つ。本の引用で話すのではなく、自分の言葉で話す。
らしい、本の引用を時にはしていいと思うが、そればかりではダメだと言うことであろう。

良書をよめ、悪書を読むのは時間の無駄

日本にブッ刺さる正論ばかりであった。

内容は星4くらい付けたいが、この文章は兎に角読みにくい。疲れた

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2025年12月04日

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多読は必ずしも良いものではなく、筆者の意見に迎合せず批判的な自分なりの見方を持つことが大切という趣旨だと受け取った
今後の参考になった

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2025年03月27日

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ネタバレ

3編からなる作品。哲学者ショウペンハウエルが真の本とそれ以外の悪書を一貫して対比させて描いている。悪書についてその原因を突き詰め、出回っていることを示している。良書には思索があり端的な言葉で明白に書かれている。悪書に時間と金を取られないよう何度も読者に注意を払っている。
また、ドイツ語という古典に起源を持つ言語の危機にも触れている。表現の厚さが失われているという点は日本語と似ており、曖昧な表現で済ませてしまうことが増えてきた。
著者が持っている危機感とは言語の重要性という意味もあるが、思想についてである。言語は人の思想を表現するものであるため言語が乏しくなることにより思想も乏しくなると考えている。
また、本の理解ついては具体例を考えることができるかが大事でそれができれば自分の中に落とし込めた証左としている。

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2024年03月03日

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辛辣な印象でなんか知らんけど終始怒られてる感じだった(笑)
悪書や自分の頭で考えない多読は駄目よって書いてあった。
中盤以降はドイツ語文体の乱れについて怒ってた。
語学全般詳しくないのであまり面白くなかった。
ヘーゲルが嫌いなのが伝わってきた。

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2023年02月09日

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ショウペンハウエル先生の読書批判。娯楽のための読書(図鑑を見るくらいなら外に出て本物を見ろ!)、思考のない読書(受け売り、洗脳になるからやめろ!)、古典を解説した本を読むこと(古典は古典のままよめ!後世のものが勝手に解釈したものを軽々に信じるな!)、自省のない読書(自分で考えない読書は害悪ですらある!)というもの。まあ、わかりますよ先生。でもね、娯楽のための読書もいいもんですよ。

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2022年09月12日

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