【感想・ネタバレ】たそがれたかこ(10)のレビュー

あらすじ

「自分から言ったことのない言葉を言いたくてガマンしてる」一花の進学先探しもひと段落し、かすかな希望が見えてきた春。たかこは、ナスティインコのライブに2度目の参戦! 今度は、片思い相手の中学生男子、碧海と二人。大好きな谷在家光一くんの歌声に包まれ、たかこの心が走り出す!! 45歳のロックンロール、堂々完結!!

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Posted by ブクログ

ネタバレ

9巻まではたかこさんに感情移入しながら読んでいたけれど最終巻で衝撃がやってきた。「うわぁぁぁぁ、それ、やっちゃいますか?」という感じで。あれを肯定的に受け止めるのは難しく、たかこさんが一足飛びに遠い世界に行ってしまった気がした…そういう驚きもひっくるめて、すごいマンガだと思う。

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2017年12月23日

Posted by ブクログ

ネタバレ


※注意 『ゆりあ先生の赤い糸』のネタバレも含みます!!!


24/9/25(水)
次作『ゆりあ先生の赤い糸』を一気読みしたことで、やっぱり入江喜和 最高だ〜〜!となったので、数年ぶりに読み返した(2回目)。

こちらも最高でした。『ゆりあ先生』が1巻からフルスロットルで飛ばしていく超エンタメ性の高い物語であるのに対して、この『たかこ』はより静かな立ち上がりで、ひとりの中年女性の ”たそがれ” の日々、生活を丁寧に描いている。
この雰囲気の差は、おそらく両作品の主人公の性格の違いにも起因しているだろう。『たかこ』を読んだあとに思い返してみれば、ゆりあ先生の度量の大きさ、懐の深さといったら半端ない。超人である。一方たかこは、終盤でようやく明かされる離婚のきっかけにしろ、ほんとうに「大人」らしくなく、「ダメ」なオトナであるが、それゆえに自分のような人間はものすごく共感を覚えて、たかこ、頑張れ!!(いや、頑張らなくていいから幸せに生きていてくれ!)と応援したくなってしまう。(応援したくなるのはゆりあ先生も同じだけど) 45歳と50歳、どちらも連載当時の作者の実年齢におよそ寄り沿った中年女性のキャラクターといえど、これだけ両極端な人物を主人公に据えて、いずれも傑作の長編漫画を走り切ってしまうところに、入江喜和の凄さを感じる。

たかことゆりあ先生の違い(ひいては両作の違い)として他に挙げておきたいのは「子ども(出産経験)」と「閉経」、それから「離婚」の有無である。
たかこはひとり娘を産んでいて夫とは離婚済みの状態から物語が始まる。作中で何度か生理のシーンがあるように、まだ閉経はしていない。
他方ゆりあ先生は閉経してしばらく経つと最序盤で言及される。子どもがほしかったがついぞ妊娠は出来ず、それを受け入れてきた時点から話がスタートする。夫との離婚などまったく考えたこともない地点から、とんでもないところまで連れて行かれる物語である。
(ただ要素の差異を並べただけです。特に深い意味はありません…)

また、『ゆりあ先生』を読んでいて、登場人物のなかで、少女マンガや他の大抵のマンガで主人公になりがちな、ティーンエイジャー(中高生)のキャラだけが綺麗に欠落しているなぁと思っていたのだが、それは前作『たかこ』で、娘・一花や、「好きな子」オーミといった中学生の子供たち(に対する中年女性の葛藤)をここまで克明に描いたからなのかもしれない、と今回再読して思った。

ここだけの話、一花というキャラすら完全に忘れてしまっていたので、久しぶりに会って、あ〜〜〜〜いたな〜〜〜〜この子!!!と、なんだかとても懐かしく、再会しただけで泣きたくなった。


『ゆりあ先生』との比較ばかりで申し訳ないが、『たかこ』もどちらも「長屋モノ」じゃん!!と気付いた。主人公が住むひとつの家/アパートを舞台にして、そこに集ったり移り住んだりする様々な人々との交流を、一種のコメディ(喜劇)として仕立て上げるのが本当にうまい。長屋モノ漫画の系譜として、『ハチクロ』とか『めぞん一刻』とかも読んだほうがいいんだろうな……


また、今回読んで特に重要だと感じたキャラクターは、たかこの母・小夜子である。このばあちゃん、たかこに寄り添って読み進めていくと、ほんっっっとうにお喋りで鬱陶しく、そういう意味で「イヤな」人物ではある。しかし、たかこが一花やナスティやオーミ等のこと(本筋)に思い悩みながら家にいるときに、この母がひたすら「今日の晩ご飯は…」とか「ほんと寒いわねぇ」とか「あんたその髪恥ずかしい」などと、たかこの気持ちを一切考えずに自分勝手に生活の些事をまくしたてるフキダシでページが埋め尽くされていることが、結果的に、「生活」と「人生」を描いたマンガとしての本作の厚み、説得力を増していると思うのだ。いまだに精神が中2なたかこは、すぐに恋だなんだとフワフワ夢見て宙に浮いたり、一花のことや自分のことで深く落ち込んで鬱々としたりと、とにかく「地面」=ベースラインから上下してばかりいる。そういう人間だからこそ主人公たりうる作品なのだけれど、そこでたかこに(ウザがられながらも)常に世俗の現実を、還らなければならない「日常」を頼んでもないのに提供し続けてくれる「サヨちゃん」こそが、この漫画を、たかこを、根底で支えているのではないか。
先述の「地面」の比喩は、作中ではたかこが女・一花に使っており、もちろんその喩えは間違っていないし、たいへんに感動的で大好きなシーンではあるのだが、実際には、一花よりもさらに、この漫画にとって重要な「地面」は、憎まれ役のお母さんだと思う。
このサヨちゃん、読んでいて本当に鬱陶しいキャラなんだけど、丸っこくて小さくていつもニコニコしていて、絶妙な可愛さ・可愛げがあるのが良い。次作『ゆりあ先生』での憎まれ役キャラといえばあの義妹だと思うが、彼女よりもよほどサヨちゃんはまだ親しみが持てる。(これは無論、逆に言えば、入江喜和は次作でさらに扱いが難しい「イヤなひと」を出すという挑戦をやってのけている、ということであり、流石である。)
(サヨちゃんポジション、『ゆりあ先生』では義妹ではなく母では?とも思うが、あのお母さんはちょっと人見知りなだけで、サヨちゃんほど鬱陶しくもなんともないのでノーカンとした。)



不登校・引きこもり要素にひじょーに弱いため、一花が出てくるだけで泣いてしまう。特に、摂食障害を患っているので、登場するだけでその体型が目について、比喩でなく「見るだけで泣いてしまう」。

また、たかこが一花のことを本気で想って寄り添おうとして、なかなかうまくいかないで思い悩むさまが本当に胸にきた。けっきょく、母の子への無償の愛情という、どストレートな要素に弱い自分を再発見する。

子供が何か辛い状況でもがいて苦しんでいるときに、親が一緒に思い悩み過ぎてふたりして暗くなっていくのではなく、まずは親が「好き」なことを全力でやって人生を楽しむことで、そんな親の姿を見た子供にいい影響が与えられる(かもしれない)という論法は、その実際性はわからないが、直感的に納得感は高いし、そういう物語としてとても自然に受け入れることが出来た。


『たそがれたかこ』は、自分の人間性や仕事や家庭(母)、娘のことに悩むたかこが、いくつかの逃避先・リフレッシュ先を見つけていく話とも言える。美馬さんのお店、ナスティインコ谷在家光一(毎週のラジオ、CD、ライブなど)、光一似の近所の中学生オーミ(への恋)、そしてギター…… これらのいずれかの事でネガティブな出来事に遭っても、気晴らしとして別の「好き」に逃げ込んでリフレッシュすることで、なんとか生活をやっていくさまが繰り返し描かれる。もちろん、一花や母、パート先だって場合によってはたかこの心を癒す先になり得る。
「自立とは何にも依存していない状況のことではなく、依存先をたくさん持っている状態のこと」だとはよく言われるが、入江喜和のマンガも、これと似たようなテーゼ・構造のもとで駆動していると思う。
『ゆりあ先生』も同じで、寝たきりの夫の看病や、夫の不倫相手との関係で悩んだときに、特技にして趣味の裁縫(赤い糸)や、若い男とのロマンスや、幼い頃以来に再び通い始めるバレエ教室などなど、ゆりあ先生はその大変過ぎる状況で、次々とリフレッシュ先を増やすことでなんとか乗り切っていく。こうしてみると、たかことゆりあ先生にだいぶ共通点が見出せてくる。『ゆりあ先生』がすごいのは、そうして次々と逃避先・リフレッシュ先を見つけていったのちに、最終的に辿り着くのが、夫の不倫を通じて知り合った人々との「縁=赤い糸」ということで、ようは人生で運命的に関わり合った「人」みんなを依存先として肯定する……という離れ技をやっているところである。ゆりあ先生は本当に懐が広く、あの家は本当に間取りが広い。


『たかこ』もあのボロい安アパートを舞台とした長屋モノである一方で、一花とふたりで隅田川沿いを散歩したり、橋を渡ったり、ナスティのライブ会場までガラケーで頑張って行き先を調べて向かったり、一花の通える病院を探したり、通院の帰り道でふと雰囲気のいい広場と建物に誘い込まれたり……と、たかこの住む東京の風景の広がりもまた大きな魅力であることは間違いない。「不登校」の子供やその親にとって、学校へ向かう道やその帰り路、病院までの行き帰りの道などは、それだけで単なる「ルート」ではなく、とてつもなく重く大きな迫力をもっているものである。そんな「道」の意味を、そこを共に歩く者たちの人生の一瞬を、確かに紙の上に映し取って描き切ってくれた作品だと感じる。



そして、最終巻でたかこが行う例のとんでもない行為に関してだが…… まず、再読するまで、この展開もすっかり忘れていたことは書き添えておく。自分にとっては、一度読んだら二度と忘れられないくらい衝撃的なものではなかったようだ。
で、今回読んでも、やっぱり、わりかしすんなり受け入れられたというか、そりゃそうなりもするかぁ、といった感じで、特に強い拒絶感を抱くことはなかった。それはやはり、10巻ぶんも長い旅路を共有してきたわけで、主人公たかこにかなり感情移入し自己同一化を進めていたから、というのが大きいだろう。
が、それだけでなく、年齢に関係なく「好き」という気持ちを肯定するのが主題の漫画としてみても、また、世間ではキモいとかダサいとか思われるかもしれないことを敢えて突き付けていくパンクな中年女性を主人公にした物語としても、あの告白は必要で必然だったように思う。「倫理」を超えていけ。たかこが社会通念に沿ったまともな大人なんかじゃないことはそれまでにも十分描いてきているわけで、最後に、明らかに「アウト」な行為をやってのけることは、この物語を終わらせるためにはそれ以外あり得なかった。
それに、「好き」という純粋無垢な気持ちが他者にもたらす暴力性、というテーマは非常に自分好みでもある。自分の暴力性と罪を自覚した上で、その刀で相手を切り捨てる主人公が好きだ。インディーゲーム『雪子の国』とかも同様。
この『たかこ』での挑戦の延長上に『ゆりあ先生』での多重不倫ストーリーがあると思うと、やはり入江喜和の覚悟の決まりようが恐ろしいほどにカッコよく感じる。と同時に、それでも実際の賛否両論ぐあいで言ったら、『ゆりあ先生』での不倫要素よりも、『たかこ』での告白展開であろうから、まことに「倫理」とは不安定で不明瞭でおもしろいものである。『たかこ』のほうが尖っているまである。

もちろん、その告白が実るはずもなく、あのような形になったところまで含めて良かった。あの戸惑いと怒りの表情だけで、なにも言葉による反応を得られていないところが素晴らしい。どこまでも一方的な言葉。

これが男女逆でも同じように受け入れられたかは分からない。かなり拒否反応を示す気がする。
その非対称性はもちろん倫理的に「間違っている」んだけど、そういう間違いを内にたくさん抱えているからこそ人間はおもしろいし、物語を読む意味があるのだと思う。

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2024年09月25日

ネタバレ 購入済み

おばさんに対する考え方が変わる

最終巻。きっちりすっきり終わってくれます。

こういうおばさんってよく街で見かけますよね、彼女らってどう考えてもこれからもう一度花が咲くわけじゃないし、人生焦ってないのかなぁ?と失礼ながらよく思っていたのですが、積み重ねた「現状」(幸か不幸かは別として)でいいのだというラストに持っていくのは考えさせられました。

ちょっと5~8巻辺りが中弛みしてたり、家族全員必要以上にウザすぎたりする所が残念なのと(ある意味リアリティですけど)オーミを好きになる過程が丁寧でないので、たかこさん、なんでこんなに好きになっちゃったの?と見ていて不思議に思った。黄昏ているおばさんが焦り狂って中学生に告白するなら、容姿が似ているだけじゃなくて、動機付けがもう少し欲しかったです。

批判はあるあのシーンは肯定派です。大人だから、無理だからと我慢するのはやっぱりおかしい。あのシーンで谷在家が「ありがとう」っていってるセリフが一コマ入りますが、あれがオーミの答えなんだと思います。ただ彼はまだ未熟なので断り方がわからず逃げてしまう。彼はラジオ聞いてると思うなぁ。そのラジオで「ありがとうが正解の断り方?」って冗談交じりで言ってるのですが、彼には良い勉強になったと思います。キモイけど。

だからキモくてごめんって自分で理解してるのはなんだか見ててつらかった・・・まぁキモイんだけど。

たかこが過去の自分がした行為を思い出して恥ずかしくてうずくまってしまうのはとても共感できますねぇ(笑)自分だけかと思ったらやっぱりみんなそうなんだと安心できます。

いろいろと飛びぬけたマンガでした。漫画というかドキュメンタリーを見た感じです・・・

みんな等しく歳を取るけどそれでも人生は続いていく。もう何歳だからって諦めるのはやめようと思える、一読の価値がある作品でした。

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2019年09月28日

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